眠らない街、高みを目指して競い合うスタッフたちは、裏では仲がいいとは限らない。社会勉強とバイトを兼ねてやってみよう、と俺を誘った友人はもうすっかり鮮やかな照明と名声に彩られたこの世界に馴染んでいるようだ。
一方の俺は、次々に注がれる度数も値段も高いアルコールの量に慣れず、せっかくの休憩時間を手洗いの個室で潰す有様。
以前までは合コンに行くにも一人では心細いなんて言っていた友人は、フロアに出ればそんな面影なんてきれいさっぱり消し去って、夢の一夜を演出するキャストのひとりになる。俺は店ではまだ笑顔を取り繕えているつもりだが、友人ほど切り替えがうまくはない。
そもそも。一番の相手だからと交わされる言葉には嘘しか混じっていないし、その都度相手の変わるお姫様のエスコートが得意、と言えるほど話術に自信もない。
短期のバイトのつもりだったのだ、この一ヶ月で酒やらストレスやらで荒れた胃が回復する兆しがない。性格上合っていないどころか、このままではしばらく寝込む羽目になる。そろそろ、やめ時なのかもしれない。
今日のバイトが終わったらやめる話をしよう。その前に、今日の仕事だけはきっちりこなさなければならない。初回の客が、写真指名で先輩と俺と友人を指名したらしい。丁度交代するところだった先輩に軽く肩を叩かれ、目的の客を探した。
今回の客は俺と同世代くらいの女の子だった。腰くらいまで伸ばした桃色の髪が、キョロキョロと店内を見渡す頭の動きに合わせて揺れている。ぱち、と目が合った後、俺が隣に座るまでずっとその子は俺の目から視線を逸らさなかった。
「俺のことすごく見てますけど、何か違和感でもありました?」
「……あ、いえ。すみません、じろじろと見てしまって」
じろじろ、と言うほどあちこちを見られているような感覚はなかった。むしろ目が合い続けていることの意味を問うたつもりだったのだが。
「何故だかはわからないんですけど、あなたは……ええっと」
「ガクです」
「ガクさんは、私と似ているのかも知れないなって思ってしまって。すみません、まだ全くお話していないのに」
「大丈夫ですよ。あなたのお名前と、もしよろしければ、似ていると思った理由、聞いてもいいですか」
話が下手な俺としては、会話のきっかけができて嬉しいばかりだ。初回の客ならキャストが飲むことはなく、気に入ってもらえるような会話をするものである。辞めたい俺は気に入ってもらうことを考慮していないので、ここではただの聞き役に徹していればいい。
「私、ルカっていいます。社会勉強のためだってセンパイに連れられて来たんですけど、そのセンパイが入店直前で急用で帰ってしまって。とりあえずせっかく来たんだから、と思って入ってみたんですけど……なんだか慣れなくて」
「初回ですからね。先ほども、店内を見渡していましたもんね」
「あ、はい。お酒も強くないですし、このお店の方のような男性とはあまりお話したことがなくて。まださっきのキャストさんと、ガクさんのお二人としかお話してないんですけど、やっぱり私には合ってないのかなって。キャストさんに言うことではないんですけどね」
似ているかも、と告げた彼女の予感は見事に的中している。一緒なのだ、誘われて入った世界に、ひとり馴染めないでいる雰囲気も、誘った相手からも取り残される感覚も。酒が強くないという言葉通りに、彼女のグラスの中身は減っていない。おそらく先輩キャストの接客時に一度口をつけたきりだろう。
「俺も、ルカさんと一緒ですよ。友人に誘われて入ったこの世界にどうしても馴染めなくて。こうして初回のお客様に挨拶をしても、次なんてほとんどないですし、俺自身もどんどん心身を削られていっている。……こんなこと、お客様に話すことではないんですけどね」
「じゃあ、お揃いですね。……ふふっ、一緒の気持ちの人もいるんだって、なんだか安心できました。ありがとうございます」
「いえ、俺は話を聞くことしか出来ませんでしたけど」
「私にとっては十分ですよ」
もう少しだけ笑い合った後、次の友人へと入れ替わるべく席を立ち、彼女の方を見ることはなかった。あんな会話をしたところで、次の瞬間には俺のことなど、彼女の頭の中からは消え去ってしまうだろうから。
……そう思っていたのに。初回の会計後の送り指名、彼女が選んだのは俺だった。
「一番お話していて楽しかったので。また会えて嬉しいです」
「そう思ってもらえたのなら、俺も嬉しいですよ。ぜひセンパイにも今日のことを伝えてあげてください」
「まあ、そうですね。それに、お誕生日ですよね。一言、せめてお祝いを言いたくて」
「ご丁寧に、ありがとうございます」
うちの店では、キャスト一覧に名前と誕生日がセットで表記されている。今日この日、俺の誕生日に言及してくれたのは、彼女だけだった。
「あの、連絡先を聞いてもいいですか?」
「もちろん大丈夫ですよ。気兼ねなく連絡してください」
唇に乗せた言葉はもちろん嘘だ。連絡なんて、いつでもとれるようでとれない。客とキャスト、ビジネスライクのこの関係がどんな砂の城よりも脆いものだということを知っている。俺も彼女も、互いにとって数ある「本命」の内の一人でしかないのだから。
それから俺は、別のバイトを始めた。あの日の業務後にきちんと話をして、俺はあのギラついた世界と縁を切った。元々キャストとして連絡先を交換した客はほとんどおらず、一度もやりとりをしてはいなかったから、番号はそのままにしておいても支障はない。
新しいバイトは、ファミレスのホールスタッフ。客の話を聞きながら盛り上げるような接客ではないので、同じ接客業でもずいぶん気が楽になった。
バイトを変えてから二週間、数十ページに渡るメニューをそらで言えるようになった頃。
「お待たせ致しました。アイスカフェラテでございます」
「……え」
十六番テーブルの客へ注文の品を配膳したときのことだ。最初、その声を聞いた時、もしかして配膳間違えをしたのかと思った。だけどその一人客は、テーブルの上のグラスではなく俺の顔を見て驚いているように見える。
そして、その顔には俺も覚えがあった。あの日、俺が去った世界で最後に会った客。
「あっ」
「……やっぱり、ガクさんですよね」
俺の名札の表記は神威。ここ以外でしか得られない俺の情報を覚えているなんて。
「あ、仕事中なのにすみません、引き留めちゃって」
「……俺、あと一時間でシフトが終わるんです。その後で良ければ、待っていてくれませんか」
たった一度会ったキャストの名前を、偶然出会った店で呼んでくれる時点で、きっと悪い印象は持たれてはいないと思う。
「はい、待っています」
そしてその想像を、彼女の笑顔が肯定してくれた。
「すみません、長く待たせてしまって」
「いえいえ。ここ、気になるデザートがあったので堪能していたところです」
私服に着替えて彼女の元に戻ると、パンケーキの最後の一欠片を咀嚼しているところだった。
「俺の名前、覚えていてもらえるなんて思いませんでしたよ」
「実はあの後、お話がしたくてもう一度お店に行ったんです。そうしたら、辞めたと聞いたので。なのに、まさかこんなに早く再会できるなんて」
「……そう言ってもらえたのはルカさんだけですよ」
あの手の店が合わないかも、と語っていた彼女がもう一度あの店に行ったことも驚いた。もっとも、俺がいないことを知ってからは行っていないとのことなので、彼女にとっての“夢の世界”の体験は一日限りのようだった。
「どうして俺を探してくれたんですか?」
「なんというか、ただ漠然とまた会いたいな、と。でも、なぜでしょう、今日お会いした姿のほうがほっとしますね」
「まあ、あの時は俺も無理をしていたので」
それから、互いに話をした。最初の時にはできなかった世間話や最近の趣味など。彼女が食べていたパンケーキから話題を広げてみると、色の好みもかなり似ているらしい。
しばらく話したところで、彼女をずいぶんと長く引き留めてしまったことを詫びた。今日は予定がなかったので、と穏やかに笑う彼女は優しい。そして連絡先を交換しようとして、既にそれを終えていることに気がついてまた笑い合う。
それ以降に会った時は駅前のロータリーで待ち合わせて、各々を連れて行きたい場所を案内した。オススメの旧作映画があるからと互いの家を行き来してDVDを見たことすらある。
これが所謂デートであることを彼女は自覚しているのだろうか。だけど茶化すような言い方すら俺にはできなくて、側から見れば曖昧なこの距離感に甘んじていた。恋人の例えを口に出したら、彼女が気を遣って一緒にいられなくなると思ったからだ。
そうしていくつかの季節を越え、もう何十回目かを数えるかもわからない”お出かけ“の日。
「すみません、寄り道をしてもいいですか」
帰り際、彼女が断りを入れて俺を連れた場所は花屋だった。今まで彼女が花屋に寄るところは見たことがないので、家族に送るのかなあとぼんやりしていると、目の前に花束が差し出された。
「……え?」
「お誕生日、おめでとうございます。寄り道で伝える言葉ではないんですけど、どうしてもこの花をあなたへ送りたくて」
「覚えていて、くれたんですね」
「あなたと出会った日のこと、忘れるわけないじゃないですか?」
差し出されたのは、九本の薄紫に近い色のバラの花束。
「どうしてこの花を?」
「この花、何色に見えますか?」
「薄紫かなと」
「このバラは、世界で初めて咲いた青バラなんですよ。でも確かに薄紫だと思いますよね。私は青というより、この花を見て神威さんの髪の色を思い出しました。だから私にとって、この花の色は神威さんの色なんです」
彼女は俺の表情を確認すると、さらに続けた。
「そして、青バラという、作ることは不可能だと追い続けた夢は、不可能ではなくなりました。夢を叶えたことへ喝采を……このバラには、そんな意味の名前がつけられました。これまでの日々と、あなたと出会えた今日という日に、この花を送らせてください」
「ありがとうございます。俺、こんなに素敵な誕生日プレゼント、初めてです」
「……誕生日だけの意味では、ないんですけどね」
花束を受け取ると、これからもずっと一緒にいてくださいねと彼女は顔を真っ赤にして言った。首を傾げた俺が、家に帰ってバラの本数の意味を知るのは、もう少しだけ後の話。
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