7.
「……」
ようやくたどり着いた高校の校舎を見上げる。
時間がわかるものをなにも身に付けてこなかったけれど、道路で転んでから、一時間は経過しているんじゃないだろうか。
僕は深呼吸をして、上がった息を整えながら考える。
どこに向かうべきだろう。
美紅にとっての特別な場所なんて知るわけがない。せいぜい屋上くらいか。
そこでどう“やり遂げた”のかを考えたら、校舎の周りを回ったらわかるような気がする。けど、そういうことじゃないような気がした。
目の前の柵をよじ登って乗りこえ、敷地内へ。目の前の校舎の入口が……予想通りと言うべきなのか、扉のガラスが割れていて、開け放たれている。
「……美紅」
彼女の名前が思わず口について出る。
扉のガラスを割ってまで校舎に侵入しようとした人物なんて、美紅以外に考えられない。
僕は扉をくぐって校舎の中へと入り、まっすぐに屋上を目指す。美紅が他に目指すだろう場所を僕は知らない。
いつもの階段は、真っ暗でひと気が無いとまるで別空間だった。
一段上るごとに、言い知れぬ不安が増していくような感覚。
階段を上りきれば、屋上の扉は開け放たれていた。
開いているんだろうとは思っていたけれど、開いている光景を実際に目にすると恐怖を感じずにはいられない。
「マジかよ」
僕はつぶやき、扉の外へ。
見慣れた、けれど見慣れない真夜中の屋上。
やけに静かで、やけにだだっ広い屋上。
いつもここで美紅とだべっていたはずなのに、同じ場所とはとても思えない寒々とした夜空の下だった。
「……」
屋上を見回しても、なにかが残っているようには見えない。
僕は屋上の真ん中で寝転がり、夜空を見上げる。
雲ひとつない空には無数の星々が瞬いている。
普段は夜空を見上げることもないし、星なんかに興味があるわけでもない。こうやって改めて見上げてみると綺麗だななんて思うけれど、それでも夢の中の光景と比べてしまえば雲泥の差がある。
……僕はここになにがあると想像していたんだろう。美紅の靴が並んで置いてあるとでも思っていたんだろうか。……それはそれで、僕の想像力がちょっと古典的すぎるような気がする。
屋上の端をぐるっと回ってみたら、どこかで美紅の姿を見つけられるだろうか。
だが……見つけたところでなんになる?
その姿を見て、なにがしかの結末を得られるとでも?
あの夢を見て、いてもたってもいられなくなって家を飛び出してここまで来たけれど、僕はいったいどうしたかったんだろう。
仮に美紅と話せたとしても……僕には美紅の覚悟を変えられるほどの言葉を持ち合わせてなんかいない。
けど……もし、まだ美紅がここにいたのなら。
僕は、彼女とともに……成し遂げられたんじゃないだろうか。
◇◇◇◇
後頭部に柔らかい感触。
「ん、んん……」
身をよじる。
清涼な空気と大地と草原の香りが鼻腔をくすぐる。
風が吹けばざわめく木々と草花が、目を開けなくても、ただ静かで穏やかな時間が流れていることを実感させてくれる。
まぶたを開けて青空を見る。
燦々と輝く太陽が中天を過ぎていた。
「午睡も……終わりか……」
「あ……起きました……?」
聞き慣れた……けれど、僕の記憶と比べるとやけに柔らかい声音。
視線をさらに上げると、彼女の顔が見える。……いや、逆光のせいか、どんな表情をしているのかまではわからないのだけれど。
「え?」
「きゃっ! そんなに急に起きなくたって大丈夫ですよ。まだ午後の仕事には間に合いますから」
起き上がって振り返ると、すぐそこに地面に座り込んでいる彼女の姿があった。
彼女の座り込んでいる位置と僕が寝転んでいた場所から考えると……つまり僕は、彼女に膝枕をしてもらっていたのか?
「お前、そんなことするヤツだったっけ?」
「ヒドいですよぅ。あた……私だって転がってばかりじゃないんですから」
「いやいや、転がってばっかりだっただろ」
「いやまあそうですけど。で、でもあれは……必要なことだったんです」
「必要?」
「はい」
「どこが?」
「それは……」
言いよどみ、彼女はどこか困ったような曖昧な笑みを浮かべる。
「なんだよ」
「うまく、説明できなくて。けど……なんて言うか、私の感じているものを伝えようと思っていたんです」
「伝える? 誰に?」
「……わかりませんか?」
僕の質問に逆に問いかけられ、困惑する。
彼女が誰に伝えようと思ったか、僕がわかるっていうのか?
けれど、そもそも僕と彼女が知っている人なんて、村のじーさまばーさまくらいしかいない。それ以外の人との交流がそもそもないのだ。白磁の聖都に憧れてはいても、知り合いがいるわけではない。
それで僕にそんなことを問いかけてくるってことは……。
「向こうの世界……向こうの色はこっちには届かないんです。でも、声だけはつながっている感じがずっとしていたんです。向こうにいるあたしと、こっちにいる私の声が重なる感覚もあって……重なる声が混ぜあわさって……」
だんだん声が先細りになり、やがて途切れる。
彼女は続きをなんとか言葉にしようと頭を悩ませた挙げ句……首をかしげた。
「そんな……感じです」
自分でもなにを言おうとしているのかあまりわかっていないみたいだ。
「わっかんねーよ」
僕はあきれてそう言うが、思わず笑い混じりの声になってしまう。
「あー。私のことバカにしてますね」
「してないしてない。そんなことないって」
まあ、こいつはこういうヤツだ。難しいこと言おうとして言えないのは、らしいといえばらしい。
「……。“問題ない”って呟いてた」
ふと、意図しない言葉を口にしてしまう。
「? 誰がですか?」
「それは……」
わからない。僕はなにを言っているんだ?
僕の口から出た僕の声なのに、なんだか僕の言葉じゃないように感じる。
「失敗続きで、正解なんてわからなくて……なんていうか、間違い探しに追われてる感じだった」
自分の口にする言葉の意味はわからない。けれどなぜか、言葉があふれ出てきて止まらない。
これは……誰の言葉だ?
「結局、“問題ない”とも言わなくなった。そんな言葉が失われるくらいには、意味も目的も消失してしまったんだ」
「わかりますよ。私……あたしだってそうだった」
「……」
真剣な顔でそう言う彼女。
「“どうなったって良いんだ”ってさ。そう伝えられた気がしたんだ。“間違いだって起こしちゃおうよ”とも。そうやって、みんなから押し付けられた余計な荷物なんて投げ出して良いんだって。……思い悩む必要なんてないって」
「だから、美紅は死のうなんて――」
自然と口をついて出た言葉に、僕は自分自身に困惑して続きが言えなくなってしまう。
言えなくなってみると、いったいどんな言葉を続けるつもりだったのかもわからなくなってしまう。
「美紅……? 誰の、ことだ……?」
自分で口にした何者かの名前らしき単語に、僕は疑問を浮かべる。
目の前の彼女は驚いて目を見開き、絶句していた。僕が突然意味不明なことを言い出したと思うと、当然の反応だろう。
「……いや、その……ごめん。僕、なんか混乱してるみたいだ」
「――いいえ、いいんです。向こう側のこと、感じているんですね」
彼女はふっと息をついて、柔らかなほほ笑みを浮かべる。
「向こう側?」
「ええ。向こう側の“あたし”がしたこと……彼はもう知っているんでしょうか」
「いいや……でも、なんとなくわかってて……追いかけて屋上にやってきたんだ」
だから……僕はさっきからなにを言っているんだ?
なんでこんな……僕自身には何一つとして理解できない言葉が口をついて出る?
「探せば見つかるんだろうって思ってて……。でも、いまさら見つけても引き留められないし、そもそも引き留めるなんて僕がやっちゃいけないことのはずで……う、ああ……」
めまいがして、僕は頭を押さえる。
「ご、ごめんなさい!」
彼女が心配そうに両手で僕の頭を包み込んでくる。
「もうなにも言わなくていいですよ。あなたに無理をさせるわけにはいきません」
彼女はそう言うけれど、なにか言わなきゃいけない。伝えなきゃいけない。そんな焦燥にかられる。
「いや、だけど――」
しかし、言いかけた僕の言葉は、彼女の突然の抱擁に霧散してしまう。
「いいんです。それだけでも十分、あたしの言葉がちゃんと伝わったんだって、わかるから」
耳元で、彼女の声音が優しく響く。彼女の両腕は僕をしっかりと捕まえていて、彼女の体温が伝わってくる。
鼻腔を彼女の香りがくすぐる。これは……ライラックかジャスミンか。そういえば、彼女は花の香りにこだわっていた。
「もう少し、ゆっくりしよう。帰るのはそれからで大丈夫。あたしはずっとここにいるから、心配しないで」
彼女の香りが、彼女のぬくもりが、彼女の声音が、ゆっくりと僕に浸透して焦燥を溶かしていく。
「そう……だね」
「うん」
僕の返事にほっとしたのか、彼女の抱擁が少し緩まる。
「無理して耐えて……我慢することなんかないよ。そりゃ確かに勇気のいる行為ではあったよ。……どうなるかなんて、本当にわからなかったんだから。でも、君もこっち側のことを知ってたからできたんだ。そしてそれは……正解だったんだよ」
「……」
心地のいい彼女の声に、僕はただ身を委ねる。
「だからね……君も、来れるなら来たほうがいい」
彼女はまるで赤子をあやすみたいに、優しく僕に言う。
「もう良いよ。そろそろ君も疲れたろう、ね?」
そして、僕は――。
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6.
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