「こんやくしゃー?」
リリアンヌは首を捻った。
「それはなに? あまくておいしいものではなさそうね」
王家に生を受け、将来一国を背負う立場になるかもしれなくとも、彼女は6歳の──それも、記憶を失った──幼い少女でしかなかった。
「リリアンヌ様が将来、結婚なさる相手のことですよ」
「けっこん! えほんのなかのおひめさまみたいに?」
父王が存命だった頃の父母の結婚生活の記憶がなく、また、絵本の中の結婚と現実の舞踏会で見ている夫婦を同じものであると結びつけられない彼女にとって、結婚とは絵本の中の夢の出来事であった。
「どんなすてきなおうじさまが、むかえにきてくださるのかしら?」
「大丈夫かしらねぇ」
ドアの隙間から部屋の中を伺っている女は、呟いた。彼女の視線の先には、メイドに囲まれてニコニコと笑っている王女。
「全く、こんなに焦らなくてもいいでしょうに」
吐き出した溜息に、彼女の桃色の髪が揺れた。
先日、王が逝き、それによって勃発した後継者争いで王子を手放したルシフェニア王国。残されたのは、先王の妃と幼い王女。女王として国を治めることになった王妃は、明らかに焦っていた。
『あの人が、こんなに早く逝ってしまうなんて、思っていなかった! 私だって、いつどうなってしまうか分からないわ! 早くリリアンヌの結婚を進めないと! リリアンヌが1人になってしまう前に。1人になってしまわないように。この国を任せられるような立派な方と! 何か起こってからでは遅いわ。幼いあの子1人じゃどうにもならない』
錯乱状態に陥りそうになった女王を宥めるのは、彼女──宮廷魔導師エルルカ=クロックワーカー──でさえ、なかなかに骨が折れた。
結局、リリアンヌをすぐに結婚させるのは、いくらなんでも時期尚早だということに話は落ち着き、リリアンヌと婚約者候補の顔合わせが行われることとなった。
「まあ、何とかなるでしょ」
エルルカは、ドアから顔を離し、小さく呟いた。
「まあ、何とかなるでしょ!」
少し、大きい声を出した。
(そうだ。私の気にするところじゃないわ。 だって、王女の婚約なんて私の“領分”ではないもの)
エルルカは、その魔術の腕を見込まれ、先王と契約を結んだ。戦場で、その力を振るう為に。戦場が、エルルカの“領分”。
王女の婚約は、政治が深く絡んでくる。政治家達の“領分”だ。
エルルカが頭を悩ませたところで、何も変わりはしないだろう。
部屋の中では、メイド達が、リリアンヌのドレスを選んでいた。
「どれがいいかしら?」
「これは、どうかしら?」
「それよりもこっちの方が……」
リリアンヌは椅子に座り、ご機嫌な様子で鼻歌を歌っていた。
「ねえ、わたしのこんやくしゃはどんなかたなの? ねえ! ねえ!」
リリアンヌが、メイド達の服の裾を引っ張る。
「リリアンヌ様。いいですか。来月、リリアンヌ様は婚約者の方と、お顔を合わせます」
リリアンヌの教育係が、リリアンヌと向かい合うように座り、視線を合わせた。
「うん!」
大きく縦に首を振る、リリアンヌ。
「婚約者の方とお会いになる時は、お上品な振る舞いをなさらなければなりませんよ」
「お、お上品……」
リリアンヌの頰が引きつった。
「リリアンヌ様の婚約者様は、カイル様という方です」
「カイルさま……」
「カイル様は、海の向こうのマーロン国の王子様です。大変身分のお高い方です。私達の服の裾を引っ張ってはしゃぐようなお転婆ではいけませんよ。リリアンヌ様は、王女として、カイル様の婚約者として、教養を身につけ、相応しい振る舞いをなさる必要があります」
リリアンヌの目尻に涙が浮かんだ。
「おべんきょう、しないといけないの?」
「はい、できますか?」
リリアンヌの口角がグイッと下がった。
「できますか?」
それなりに年齢を重ねた教育係の声には、なかなかの迫力があった。
「はいっ!」
婚約の政治的影響について頭を捻るのは、政治家の“領分”。
リリアンヌが婚約者──マーロン国の王子カイル──と顔を合わせるにあたっての教育を、リリアンヌに施すのは、教育係の“領分”。
やはり、この件に関して、エルルカの出る幕はなさそうだった。
1ヶ月後。
予定通りマーロン国の一行が、ルシフェニア王宮にやってきた。
王妃とリリアンヌ、近臣が、彼らを鏡の間で出迎える。
「お目にかかり光栄です。マーロン国第1王子カイル=マーロンと申します」
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