悪い男(3-下)番外編 ~ルカの悪い男~
『明日、十時に迎えに行きます』
メールの文章は、尋ねるものではなかった。
それでも『結構です』とか『一人で行けますので、迎えはいりません』
といば、メールの相手は了承しただろう。
けれどルカはそうは返信しなかった。
『お好きに』
絵文字もなく、愛想もない。事務的に返すだけ。
それでいい。相手との付き合いはあくまで仕事。仕事場まで送り迎えをしてくれるなら便利でいい。それだけのこと。
「ルカー。がくぽ君が迎えに来てくれたわよ」
階下から姉であるメイコの声が聞こえた。
今日はいつもよりも、時間を掛けて念入りにメイクをした。
服もどちらかと言えば堅苦しいぐらいの、きっちりとしてものを選んだ。
どこにも隙はない……はずだ。
相手がどんな顔をしても、自分は大丈夫。
鏡の中の自分に言い聞かせて、ルカは鏡台の前を離れた。
今日の仕事は、神威がくぽとのデュエットソングのレコーディング。
がくぽとの仕事は嫌いではない。
声の質があうこともあるが、何よりがくぽはいつも、ルカのことを丁寧に扱ってくれた。
過ぎるくらい優しくて、紳士的で、最初こそ、そんな扱いに戸惑ってはいたが、次第にそれは居心地の良さに変わっていた。
その居心地の良さのせいか、がくぽと歌う時は、いつもよりも自由に歌えているような気がした。
所が先日、意外なところで、がくぽの激しい情熱に触れてしまった。
あの時のことを思い出すだけで、顔が赤く……いや、全身が熱くなりそうだった。
がくぽと向き合うのが怖い。取り乱して、何を口走るか自分でも分からない。自分がどんな顔をして、どんな態度に出るか……失礼なまねをしない自信もない。
でも逃げるのも嫌。だから今日、がくぽのメールに断りを入れなかった。
絶対にいつもと変わりなく、先日のことが無かったような顔で、がくぽに向き合おう。
そう心に決めた。
下に降りると、がくぽはいつもと変わらず、すっきりとした姿で立っていた。
メイコと立ち話をしていたが、すぐにルカに気づいて、こちらを向いた。
いつも通りの、穏やかな眼差し。甘く整った面。長く艶やかな髪。
憎らしいくらい、がくぽはいつも通りだ。
「ルカ殿」
がくぽが右手を差し出した。
いつも通りの優雅な仕草。
だからいつも通り、その手に自分の手を預ければいい。
いいのに……。
ルカは、自分の頬が熱くほてるのを感じた。一瞬めまいを覚えた。
思わず立ち止まり、がくぽを見た。
がくぽが眉間に皺を寄せ、怪訝そうにルカを見ている。
ルカは反射的にきびすを返した。
「ルカ!」
メイコが呼んでいるが、構わず階段を駆け上がった。
「どうしちゃったの?」
メイコが驚いてがくぽを見た。
「俺が見てきます」
靴を脱いで上がると、がくぽは勝手知ったると言う風情で階段を上っていった。
「どうなってるのよ……」
「殿に任せよう」
つぶやくメイコに、騒ぎを聞きつけて、リビングから出てきたカイトが言った。
「えっ?!」
「きっと殿に任せるのが一番良いよ。二人のことだしね」
と、この騒ぎに至る諸悪の根源が、さわやかに微笑んだ。
全然だめだ。
あんなにいつも通りに振る舞おうと決めたのに。
がくぽの顔を見たとたん、そんな決心は全部とんでしまった。
差し出された大きな手を見て、あの時の事を思い出してしまった。
がくぽの表情が変わっただけで、いたたまれなくなってしまった。
自分の部屋に駆け込んだルカは、窓辺に駆け寄り、カーテンを握りしめたまま俯いてしまった。
「ルカ殿」
がくぽがすぐに駆け込んできた。
「見ないでください!」
こんなに取り乱した姿を見られたくない。
「見ないでください!私、絶対、変な顔をしています!」
「ルカ殿」
がくぽが近づいてくる。
「見ないで……!」
大きな手がルカの両肩にかかる。
躰が飛び上がりそうだった。
身をすくめるルカを、がくぽは壊れ物でも扱うかのように、丁寧に自分の方を向かせ、そのまま柔らかく抱き寄せた。
「これ以上、今のあなたの姿を、俺は見ません。見えていません」
窓の外を見ながら、がくぽはそっと囁きかけた。
この前と同じ台詞。同じ動作。
なのに今日は怖くない。優しくてとても暖かい。躰のこわばりが溶けていく。
「ごめんなさい。この前のことで、あなたをこんなに怖がらせてしまってたんですね」
いつもの甘く優しい声が、少し掠れて聞こえた。
「俺のことが嫌なら、今回の仕事は、俺からキャンセルします。あなたが落ち着くまで、あなたの前に現れません」
これにはルカの方が驚いた。
「だ、だめです!私、いやなんじゃありません。あなたも、お仕事も……ただ……」
「ただ?」
小さな子供に尋ねるように、そっとがくぽが問いかけた。
「い、いつも優しいあなたに、あんな風にされて、あなたが違う人みたいで、訳が分からなくなってしまって……、でもあなたが嫌なんじゃありません」
「でもね、あなたを怖がらせた悪い男も、俺なんですよ」
「えっ」
思わず顔を上げてしまった。
がくぽは言ったとおり、ルカを見ずに、窓の外を見つめたまま。
すぐ近くで見る、がくぽの顎から頬にかけての男らしい線、遠くに向けられた柔らかで、少し寂しげな眼差し。
「こ、怖くなんかありません」
少し嘘。
「あんな、あなたは初めてで、慣れなくて、驚いただけです。あれから始めて会ったから、ちょっと戸惑ってしまって、どんな顔していいか、……どうしたらいいのか分からなくて、だから……」
もう、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
がくぽの腕に力がこもる。
「なら、慣れてください」
今日は、怖くなかった。寧ろ強い腕が心地よい。
「こんな悪い男が嫌じゃないのなら、慣れてください。あなたが普通の顔が出来るようになって、戸惑わなくなるまで、こうしてあなたを抱きしめさせて下さい」
がくぽの視線が、見上げるルカの顔に注がれた。
「なんだ」
これ以上ないほど優しい笑顔。
「全然変な顔じゃない。いつも通り、あなたは世界中で一番綺麗ですよ」
「がくぽさん……」
「いつも通りの、誰よりも美しい、俺の歌姫だ」
恥ずかしいほどのほめ言葉に、頬が赤くなるのが分かった。
「また……そんなこと言って」
それでもルカは、がくぽから離れられなかった。
「俺の方が怖かったんだけどね」
階段を下りながら、がくぽはぼそりと呟いた。
「えっ、どうして?」
「嫌われて、もう二度と会いたくないって言われるんじゃないかと思って。だから、あなたとの仕事だと言われた時も、昨日メールで迎えを断られなかった時も、本当に嬉しくてね」
そう言って照れ笑い。
あんな愛想のないメールで……。
ちょっと、可愛いと思ってしまった。
これも今まで知らなかったがくぽだ。
もっと、色々知りたいな……。と思ったけれど、口には出さないでおいた。
言わない方が巡音ルカらしいと思えたから。
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