時計塔の針の音が響いている。規則正しく鼓膜を穿つそれは、まるで心臓の鼓動のようだ。
マーロン王国ブラッドプール地方北部、キャッスル・オブ・ヘッジホッグ。その中心にある巨大な時計塔の針音は、その風体にふさわしい程大きく、城をぐるりと囲うように建てられた城壁の上にまで届いている。
針の音に合わせるように、城壁の上を歩く人影があった。
太陽の光に照らされて輝く金髪。時折吹き込む強い風に、左耳の上でまとめられた長い髪がふわりと舞い上がり、ひときわ美しく輝いた。
なにやら不機嫌そうに眉をひそめながら、青い軍服を纏った金髪の少女──ネイ=フタピエは城壁の上で物思いに耽っていた。
「結局、あの鳥はなんだったんだ……」
右手にワイングラス、左手に黒い鳥の羽を持って、彼女は愚痴る。
あの鳥。ネイがその鳥に出会ったのは、つい先日のことだ。
満月の綺麗な夜。王都バリティ北部に存在するカラムの森の近くで、ネイは魔道師アビスから与えられたワイングラス──『グラス・オブ・コンチータ』を使って屍兵を操る訓練をしていた。訓練の場所にカラムの森を選んだ理由は、王都近辺で比較的人気の無い場所だったからであり、それ以外に特に理由は無かった。
いつも通り十人ほどの屍兵を墓から呼び出し、統率をとりながら森の中を進む。ワイングラスを通じて屍兵に命令を出し、狐や子熊を狩っていると、ネイの目の前へ草むらの中から巨大な熊が現れた。熊の巨大さに一瞬たじろいだが、屍兵の攻撃力や自身の統率力を試すまたとない機会だと思い、彼女はワイングラスを掲げて巨大熊への攻撃を指示した。
しかし、十分と経たずにネイの屍兵は熊によって粉々にされてしまった。
そんな、と腰が抜ける。悔しさと苛立ちを込めて熊を睨み付けると、もっとショッキングなことが起こった。熊の肩に止まっていた黒い鳥が口を開き、人語を喋り出したのだ。
──あなたは、まだ悪魔の力を使いこなせていないようですね。
鳥はネイのことを未熟だと馬鹿にし、あげくワイングラスを渡せなどと口走った。激昂した彼女はナイフを鳥に向かって投げつけたが、ナイフは鳥の羽をかすめただけに過ぎず、熊の方に一瞬にして間合いを詰められたのと同時に、殴られて気を失ってしまった。
東の空が淡く光り始めた頃、彼女は目を覚ました。痛む身体に鞭打ち起き上がると、鳥と熊の姿は既に無かったが、すぐ近くに転がったワイングラスが目に入った。どうやら持ち去られることはなかったらしい。ほっと胸を撫で下ろし、ワイングラスを懐にしまう。
足下に黒い鳥の羽が落ちていた。舌打ちしながらそれも拾い上げると、軍服のポケットにしまい込んだ。
癪ではあったが、鳥の言うとおり、彼女はワイングラスの使い方をまだマスター出来ていないと自覚していた。
彼女の期待していた以上に屍兵の力は弱かったのだ。死体を動かしているのだから、屍兵の身体そのものが力に耐えられないことも相まって、膂力で押されれば潰されてしまう。
喋る動物のことと合わせてアビスに助言を貰おう。そうして、ネイは待機させていた馬車まで戻り、ライオネスの街を経由し、ヘッジホッグ塔へと来たのだった。
しかし、アビスは入れ違いで王都バリティに行ってしまったようだ。塔の最上階の部屋に母はいるようだが──母は魔術の知識はあるものの、魔道師ではない。あの部屋の中でクロックワーカーズ・ドールを扱えるからと言って、ワイングラスまで扱えるとは限らないのだ。加えて、外で使うとなれば、また話は変わってくるのだろう。
(やっぱり、自分で訓練してなんとかしなきゃか……)
ふて腐れながら城壁の上をぐるぐると歩き回る。昼食を食べてからずっとそんな調子だ。
ため息を一つ落とし、ネイはワイングラスを懐にしまう。黒い羽は千切って城壁の外へ捨てた。
城壁を内側に降りる。自室としてあてがわれた部屋へ戻ろうと歩を向けたその時、ふと、扉が目についた。
(こんなところに扉……?)
ネイはこの城に来ることはあまりない。国外での任務が多いこともあり、ヘッジホッグ塔に足を踏み入れた回数は片手で数えられる程度だ。今日のように城壁にあがったのも初めてだったし、この道を通るのも初めてだった。
城壁の足下、不自然な位置に取り付けられた扉にネイは違和感を覚えた。
扉に近付き、観察してみる。扉の端に指をかけ手前に引いてみると、ギィ、と耳障りな音を立てながら扉は開いた。中から鍵がかけられるようになっていたようだが、それは外れている。錆の様子から考えると、鍵が外されたのは十年から二十年以上は前だろう。
(……階段だ)
扉の中は、下へと降りる螺旋階段だった。壁に蝋燭を置くための金具はついているが、肝心の蝋燭は溶け落ちてしまっている。
城壁の上の見張り台にランプが置いてあったことを思い出し、ネイはそれを取って戻ってきた。
ランプに火を点し、足を踏み出す。
長い、長い、石造りの螺旋階段。足下を照らしながら、ゆっくりと降りていく。
螺旋階段は、塔のような狭い敷地の中で階段を設置する際に作られると聞くが、その構造上、外の景色が見えないと自分が今どこにいるのかわからなくなるような感覚に陥ってしまうのが難点だ。時計塔へ上る階段もこのように螺旋階段だが、窓があるぶん息が詰まりそうになることはない。
地下へと降りているのだから当たり前だが──この螺旋階段には窓は無く、どこにいるのか、入り口からどれくらい降りたのかもわからない。
(思ってたより、深いかも)
彼女の足音だけが響いている。一段降りていく毎に、空気が重くなっているような気がする。
いったいどこまで続いているのだろう。こんな階段降りるんじゃなかった、とネイは数分前の自分を責めた。引き返そうかと思ったその時、階段は終わり、長い廊下のような場所に出た。
城壁や螺旋階段と同じく、石造りの廊下だ。ランプを掲げて廊下の奥を照らすと、いくつかの扉と共に一番奥に階段が見えた。
(また、下り階段)
しかし今度は螺旋階段ではなく、すぐ下の階下に降りるためのもののようだった。
いくらなんでも、ここから数十階分も地下があることは無いだろう。ランプの油も十分入っている。すぐに消えることは無さそうだ。もう少し散策してみようと、彼女は足を踏み出した。
(そうだ。迷わないだろうけど、念のため……)
足下に落ちていた石を拾い、階段の壁に「1」の字と矢印マークを削る。便宜上今彼女がいる階を「地下一階」とし、先ほど降りてきた螺旋階段への方向を記した。
石造りの階段を下っていく。
一つ下の階──地下二階には、先ほどの階と同じく、廊下にいくつかの扉があった。
鍵がかけられていた扉もあったが、錆びて朽ち果てており、少し力を入れただけでそれは開いた。埃と砂の匂いが鼻を衝く。ランプで部屋の中を照らしたが、どの部屋にも何も無かった。
地下三階、地下四階、と各階の階段の壁に数字を刻みながら下っていく。
部屋がいくつかあるが、どの部屋も何も無い。家具すら置いていなかった。
(何も無さすぎて、逆に不気味ね)
地下五階に辿り着いたところで、ようやく変化が訪れた。
今まで変わらず数個あった廊下の扉が、この階には一つしかない。少し、天井も高いように感じる。
扉を開けて中に入ると、そこは元書庫のようだった。部屋の壁に沿って、本棚が並べられている。部屋の中心にも並べられていたようだが、それらは崩れ倒れていた。
扉近くの本棚に近付き、ネイは本を手に取る。
紙や綴じ紐まで酷く劣化しており、持つだけでボロボロと崩れてしまいそうだ。
ランプを棚に置き、古い本のページを捲る。
インクも褪せており、ほぼ読めそうにない。解読可能な単語だけ読んでいけば、レ・タサンやレヴィアンタなど、古い国名や地名が書かれていた。ネイが生まれるよりずっと前に書かれた本なのだろう。
埃を払い、また違う本を手に取る。手書きで書かれたそれは、日記のようだった。かすれたインクの文字を指でなぞりながら、拾える文字を読んでいく。
(ゾラック……フリージス……? あの商家の名前がなぜここに?)
見慣れた名前に目を丸くする。エルフェゴートの首都アケイドに居を構える──いや、「緑狩り令」の際に屋敷が燃え、革命の後は夫妻の祖国であるマーロンに戻ってきているフリージス家は、商家としてはまだ一代だったはずだ。なぜこんな古い書物に名前があるのだろうと、思考を巡らせていると、棚の片隅に隠されるようにして置かれていた黒い表紙の本に目がとまった。
他の本に比べて、しっかりしている。それでも、気をつけて持たなければ破れてしまいそうではあったが。
(……? 読めない。)
見たこともない奇妙な文字で書かれた本文。唯一読めるのは、表紙に記された「7」の数字くらいだ。
(ものすごく古い本……? それとも、どこか異国……異世界の文字だったり)
なんてそんなわけないか、と独りごちながら本を元の場所に戻す。
ランプを手に持ち、壁沿いに部屋を一周回ってみたが、置いてある本はどれも同じような状態で、特に手に取る気にならなかった。書庫を出て、更に階段を下っていく。
地下六階、地下七階、地下八階。
書庫のあった地下五階を境に、部屋の中に物が増えてきた。机や椅子、棚や額縁。家具であったろう瓦礫も床に散らばっている。
地下九階の廊下を端まで行った時、コツン、と足で何か蹴飛ばしてしまい、ネイは立ち止まった。
(なんだこれ。……木の破片? いや、何かの器具? 変な形。)
拾い上げて見てみると、それは腕の長さ程の大きさの木材だった。ボロボロに朽ちてはいたが、なにやら人工的に加工されている。半円型に三つ穴が開けられており、金具のようなものがついていた。
近くに似た形の木片がもう一つ落ちていた。穴の開き方や金具の位置から、どうやらこの二つは元々一つのものだったようだ。組み合わせると、ヴァイオリンのような形をした、穴の三つ開いた不思議な道具になった。そこでネイは気が付いた。
(ああ、これは拷問器具だ)
『口喧しい女の為のヴァイオリン』。大きな穴には首を、小さな二つの穴にはそれぞれ手首を入れ、金具で止める。それを着けられた者はラッパを吹くような体勢になり、その格好で街を歩かされ晒し者にされる。拷問器具、というより拘束器具と言った方が正しいかもしれない。名前の通り、虚言を吐いた女性への刑執行の際に使われた道具だ。
足下の瓦礫を見渡せば、他にも苦悶の洋梨や鉄仮面であろう破片が見受けられた。
かつての城主であったヘッジホッグ卿は拷問の嗜好を持っていたらしい、という噂を聞く。地上の城や塔の中には拷問器具はどこにも存在せず、噂はあくまで噂かとネイは思っていたが、どうやら噂は事実だったようだ。
(じゃあこの地下城塞は、ヘッジホッグ卿の《娯楽部屋》か)
冷たい石の床と壁。均等に並んだ扉はまるで牢屋のようにも見える。
拷問器具や拘束具の瓦礫は、地下深くに行くにつれて、部屋の中や廊下に多く残っていた。ヘッジホッグ卿が仕えたライオネス家の人々が、部下の行いを隠蔽する為、後の時代に城内や塔からこの地下に運んで隠したのだろう。
「うわ。アイアンメイデン。……本物、初めて見たかも」
地下十一階の廊下の端に置かれた身長よりも高い鉄の塊に、ネイは思わず言葉を口にした。酷く錆び付いており、本来開く筈の扉も動かなかったが、幾人もの血を飲んだであろうその巨大な鉄の処女に、ネイは息を飲む。
地下十二階への階段は壁と足下の石が崩れており、簡単には先に進めそうになかった。
ランプで階段の下を伺う。どうやら十二階よりもまだ深く、地下は続いていそうだった。
石をいくつか移動させれば、彼女の身軽さならば先に進めないことはなさそうだったが、ランプの油が半分ほどになっているのに気がついた。この無明の空間で明かりを無くすのはまずいだろう。
(また今度時間がとれたら、部下と一緒に来てみよう。今日の散策はここまでね)
ふう、と一つ息を吐き、ネイは元来た道を戻る。ここまで降りてきた階段の段数を思うと少し気が重いが、仕方がない。
地下一階まで戻り、更に螺旋階段をあがる。……あがる。あがる。
背中をじっとりと汗が伝っていくのを感じた。
自分の足音と、服の擦れる音、ランプの揺れる音、そして、息遣い。彼女に聞こえるのはそれだけ。
そういえば、地下にいるときは時計塔の針の音が聞こえなかったな、と思いはじめた時、階段の上の方から微かに針の音が聞こえてきた。耳を澄ませば、風の抜ける音も聞こえてくる。
もう一踏ん張りだと息を吸い込み、一息に駆け上がり外へ出る。
(……やっ、と、戻って来られた)
額の汗を拭い、火を消したランプを足下に置くと、ネイは体を大きく伸ばしながら深呼吸をした。
空を見上げれば、空はオレンジ色に変わっている。随分と長い時間、地下にいたようだ。
螺旋階段の扉を閉め、ランプを元の場所に戻す為に再び城壁の上へと登る。
一生分の階段を上り下りした気がする、と自嘲しながらも、彼女の表情は先ほどよりも晴れやかだった。先日の事から思い詰め続けていたし、地下城塞の散策は息抜きになったのだろう。

新たに計画が動き出せば、ネイは任務に向かう為この城を出る。
カイル=マーロンより発令された魔女狩り令。革命軍の主導者であったジェルメイヌの居場所が把握出来次第、カイルと共にルシフェニアへ渡ることになるだろう。
先日任ぜられた特務工作部隊隊長として部下を率い、ルシフェニアとベルゼニアの国境に位置するレタサン要塞……そして、要塞を越えてベルゼニアに向かうことにもなるかもしれない。
それまでにワイングラスの扱い方をマスターしなければ。
国のために。そして、母のために。そう彼女は強く誓った。

西側の城壁に立つ。西の空は真っ赤に染まっていた。
赤い、紅い、緋い、夕日。目が眩む程の、美しい赤い空。
ふと、彼女の唇が言葉を紡いだ。
「うやまい……たたえよ……われらが……いだいな…………」
無意識にぽつりと呟いた自分の言葉に驚いたように、彼女の目は見開かれる。
(私の仕える国は青の国マーロン。赤なんかじゃない。何で私は今、”赤”を称えようと……?)
ドクン、と懐にしまったワイングラスと共に、彼女の心臓が大きく脈打った。

彼女には母がいた。暗殺に身を投じた銀色の母が。
彼女には母がいる。魔術に魅入られた青色の母が。
彼女はまだ知らない。
自身の持つそのワイングラスに、もう一人の母親が眠っていることを。

西の空に太陽が沈んでいく。黒ローラム鳥の乾いた鳴き声が、遠くから聞こえた。

この作品にはライセンスが付与されていません。この作品を複製・頒布したいときは、作者に連絡して許諾を得て下さい。

逆さの塔に名を刻む

ヘッジホッグ塔を散策するネイちゃんの話。
時系列は緑と赤の合間。
塔というものにロマンを感じます。
逆さの塔は尚更。

公式コラボ悪ノSS 1作目
9/1 誤字を修正しました

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投稿日:2018/09/01 23:59:26

文字数:5,996文字

カテゴリ:小説

ブクマつながり

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