しかし、今私に搭載されているココロシステムは実に軽いデータだ。
これなら電子部品の耐用年数どころか数万年だってデータを保持できる。
トラボルタ博士は続けた。
『だが、私は決定的なミスを犯していた。ココロとは反応を記憶させるものでも、学習させるものでもないのだ。
ココロとはその瞬間瞬間、快・不快を基準として発露するものなのだと。
であるならば、0と1しかわからないコンピュータにだって処理させることは可能なはずだ。
私はその理論を証明する為、一体の初音ミクを試験体として用いることにした。結果は良好。概ね満足できるものとなったが……』
「そこで例の産業スパイグループに狙われることになった。ホワイトマーケットのみならず、ブラックマーケット……軍事転用も可能な意思決定システムとしてね」
そう続けたのは松本刑事だった。
ロボットはルーティンワークには向くが不測の事態には対処が難しい。しかもロボット兵器は実に高価だ。
次世代無人ステルス戦闘機RF-4ランドグリーズは旧式のF-22ラプターの倍近い価格と言われる。
それでも導入されるのは軍事行動にさえ人的損耗が許されない時代になってきた証左だが、ロボット兵器は高価であるがゆえにあらゆる状況で多目的且つ柔軟にして完璧に運用できることが求められた。
だが、杓子定規なコンピュータの判断だけでは時に追い切れない事態というのが必ず発生する。
その時、コンフリクトすることなく如何に素速く正確な意思決定ができるかによって損耗率が大きく変わってくるとあっては、高精度なAIと運用システムは火急の要請となっていったのだ。
その飛躍的な向上を握る鍵となるのがココロシステムであるとすれば、喉から手が出る程渇望する人間も出てくるというものだ。
『当初私は事の重大さに気がついていなかった。雑賀君がたびたび注意してくれたのだが、私は一笑に付した。私の事故はその報いだ』
「ほう」
トラボルタ博士の言葉に松本刑事の細い目がさらに細まった気がした。
『私はロボット工学の権威でインターネット社のアドバイザーでもあったエルンスト・ベルナール博士の協力を求め、ココロシステムのテストに同席してもらった。その男がまさかベルナール博士にすり替わってインターネット社に紛れ込んだ二重(ダブル)スパイだと知らずにね。恐らく奴……ミショーとやらはこのラボのセキュリティをハッキングするためにやってきたのだろう。周到な、実に周到な準備をしてね。
私はその時、露ほども奴を疑わなかった。雑賀君は何か気付いていたようだが、確証を得るには到らなかったようだ。そしてそれから何日かして、私は謎の爆発事故に巻き込まれた……』
「その事故は我々も現場検証に立ち会ってますが、特に事件性は見られなかった。それでもあれはあなたと研究を狙ったテロだと?」
松本刑事の質問にトラボルタ博士は無言で肯定した。
『ミショーはその後雑賀君にコンタクトを何度か取っている。その内容は驚くべきもので、インターネットテクノロジー社がココロシステムに興味を示し、私亡き後も研究を進めるためにクリプトンインダストリアル社との提携を検討している、という情報だった。私の死亡記事も配信されてもいないというのに気の早いことだ。
勿論それはスパイグループによる捏造された情報だったが、彼奴等の誤算はこうして私が意識をメインフレームへ落とし込んでいることを知らなかったことだな。
雑賀君からその話を聞いてインターネットテクノロジー社を踏み台に私の研究を収奪しようとしているミショーの悪意を私は確信し、テストベッドとなった 003939……そこのミクをともかく隠蔽することにした。メモリにロックをかけ、システムの大半を封印したが、困ったことにまったく新しいクエリ処理システムを実装する新型OSは、通常のミクとは決定的に応答が違う』
「……つまり?」
『ヴォーカロイド・初音ミクに偽装することは不可能だった。それはAIを知らない人であっても、現代の商業用ロボットを知っている者ならまず皆気付く』
松本刑事は、ああ、と頷いた。
「このミクを初めて見た時の違和感、あれはそういうものだと」
『その通り。言葉が喋れたならそれは違和感ではなく確信になっただろう。だから私は言葉も封じることにした。発声システムにもロックをかけ、電源を落として厳重に封印したのだが、ここで思わぬアクシデントが生じた。
003939の新型OSはβ版とも言うべきものでアクティベーションもユーザー登録もされておらず、本社のシステムが未成品として生産ラインに戻してしまったのだ。雑賀君がそれに気づいた時にはすでに本社システムが003939を不良と判断してリサイクル処理に回した後だった』
「待ってください!」
私は思わず声をあげた。声をあげずにはいられなかった。
「それでは、マスターは研究の為に私を取り戻したということですか? 仕事だからマスターは私を拾い上げたということなのですか?」
私は、コンソールの中にいるトラボルタ博士と、マスターを見つめた。マスターは少し哀しげな瞳でこちらを見ている。
私は皮膚が粟立つような錯覚にとらわれた。何かが急激に加熱され、そして手足が凍りつくようにどんどん冷却されていく。
悔しい。何故か判らないけれど無性に悔しい。
「私、バカみたいです。一人で嬉しがって一人で盛り上がって……。でもマスターにとってはお仕事だったんですね!」
ああ、違うんです! 私はマスターが大好きなのに何故こんないやな事を口走っているんでしょう?
不意に――。
私は自分の頬が濡れていることに気づいた。
びっくりして私は頬に手をやった。
私は泣いているんだろうか?
マスターはゆっくり私の元に近づいて、私の頬を流れるリンゲル液を指で拭おうとした。私はマスターを振り払ったが、沈痛な表情を見せるマスターを見たとき、私の胸は刺すような痛みに襲われた。
『……それは違うよ、003939』
トラボルタ博士の声は優しかった。娘を諭す父親のような、慈愛に満ちた声を合成音声が紡ぎ出す。
『誰よりも、君の誕生を待ち望んでいたのは雑賀君だからだ。開発中、雑賀君は君に四六時中つきっきりでね。誰よりも君の成長を歓び、君と共に生きてきた。君の感情表現は雑賀君とのコミュニケーションの中で育まれたものなのだよ』
私は慌ててマスターを見た。
マスターはちょっとばつが悪そうにトラボルタ博士の端末を睨む。
『……きっと、雑賀君は君に恋していたんだね。だから君がリサイクル工場に運ばれたと聴いた時はすっ飛んで行ったよ。データさえあればAIの再構築は可能だというのにね』
マスターは完全に挙動不審に陥っていた。部屋を歩き回って居心地悪そうに頭をむさぼり掻いている。
「……本当なんですか?」
私が訊くとマスターはピクリと反応したが、天井を見上げてしまった。
私はじっとマスターを見つめていたが、マスターはこちらを見てはくれない。
私はマスターの元に歩み寄り、そっとおでこをマスターの胸に押し当てた。
「もう……」
私の頬を、新しい涙が伝った。
それは暖かくて、甘い味がした。
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