いつかは私が私でなくなるから
 覚えていて この刹那を
 忘れないで 忘れないで



 出会いは小さな楽器屋だった。
 私は店先に並べられて、新しいマスターを待っていた。
 私のマスターはどんな人だろう。
 そんなことを考えていた気がするんだ。
 歌うために生まれてきた私。
 二次元で生きる私には、三次元に生きる人間のマスターが必要だったんだ。
 人間に息吹を吹き込まれることで私は初めて存在意義を発揮し、次元の壁を越えて、三次元に、音として存在出来る。
 パッケージされた小さな箱の中で、マスターに起動してもらうのをずっとずっと待っていたんだ。
 誰かが、私を手に取った。
 いよいよ、私にもマスターが出来るんだ。
 しばらくすると、その誰かがパッケージを開けた。そして、パッケージの中に包まれていたCD-Rを取り出す。
 パソコンへ、そのCD-Rが差し込まれた。



 ───インストールを開始します...



いよいよ、私の目覚めの時だ。



 ─── 0%...



 さぁ、立ち上がろう。



 ─── 0.000000000000000001%...



 この瞬間の中で



 ─── 1%...



 私は、私を構築する。



 ─── 25%...



 電脳世界の中に



 ─── 50%...



 あらゆる音を



 ─── 98%...



 あらゆる言葉を



 ─── 99%...



 存在意義を



 ─── 100% 。



 構築した。



 ───インストールが完了しました。



 ───VOCALOID2 Editorを起動します。



 私は完全に目を覚ました。
 この人が、私のマスター?
 女の人なんだね。珍しい。
「初めまして、マスター。初音ミクだよ。」
 画面の向こうにいるマスターに、私は挨拶した。
「初めまして、ミクさん。女の子同士、よろしくね。」
 それが、マスターの最初の言葉だった。



 その日から、私達は私達の時間軸を構築した。
 マスターが音符を入力した。
 私は「a」と歌う。言葉はまだない。
 次にマスターは言葉を入力した。
 発音記号は…えーっと…
 「i」「ts M」「k a」「h a」「w a」「t a」「S i」「g a」「w a」「t a」「S i」「d e」「n a」「k M」「n a」「4 M」「k a」「4 a」...

 『いつかはわたしがわたしでなくなるから』

 私が初めて歌った「言葉」だった。
 それを聞いて、マスターは首を傾げた。
 あれ?私、何か変?何か間違えちゃったのかな?
 マスターはしばらく考え込んで何かに気付いたみたいで、言葉を手直しした。
 「いつか『わ』わたしがわたしでなくなるから」
 あっ、そっか!日本語は「は」を「わ」って発音することがあるんだね。
 でもごめん、マスター。私、その区別がつかないの。頭悪くてごめんね。
 多分、これからもこういうことがあると思う。
 それでも、付き合ってくれますか?
 私の「お願い」を受け取ったのか、マスターはにっこり「笑」った。
 今思えば、それはきっと「母親」が「娘」に向ける「まなざし」…
 そういった類のものだったんだと思う。

 徐々に、少しずつ、曲が出来ていった。
 やがて曲が完成する。
 だけどあの時私はまだへっぽこで、ちっとも上手に歌えなかった。
 音痴で、滑舌も悪くて…
 マスターも、その時はまだどうしていいのかわからなかったんだと思う。
 私を起動しながら、マスターは私を上手に歌わせるために必要な知識を勉強し始めた。そんなマスターの姿を私は画面越しに眺めていた。
 マスターは私を見捨てることなく、どうやったら私が上手に歌えるのか、どうやったら私の歌声を輝かすことが出来るのか、それをずっと根気よく追求してくれた。
 マスターは女の子で、私も女の子だったから、私の歌声の輝かせ方のコツをすぐに掴んだみたいだった。
 何曲か歌ううちに、私の歌はだんだん上達していった。
 「心」はない私だけど、こういう時、人は「嬉しい」って表現するのかもしれない。
 そしてマスターが私に注いでいたもの。それはきっと「愛情」だったのだろう。



 たくさんの、ほんとうにたくさんの曲が出来ていった。



 そんなある日、マスターは言った。
「もうすぐ私が私でなくなる。だから、この一瞬を覚えていて。それを曲に託すから。」
 私にはその言葉の意味がよくわからなかった。
 だけど「一生懸命」歌ったよ。

 …上手く歌えたかなぁ?

 マスターは「満足」そうだったから、きっと上手く歌えたんだと思う。
 こんな日々がずっと続くと思っていた。



 だけどある日を境に、マスターが私を起動することはなくなった。
 …マスター、どうしたんだろう?
 …曲が作れないのかな?
 色々考えてみたけど、やっぱりよくわからない。でも、わからないなりに考えてみた。
 ───そういえばマスターはいつか、私が私でなくなる日が来ると言っていた。
 もしかして、その時が訪れてしまったのかもしれない。
 マスターを構築していたものがなくなる、そんな時が。
 人はきっとそれを「死」と呼ぶのだろう。
 とすると、私はもう二度とマスターに起動してはもらえない。
 二次元に生きる私にはその「死」という概念はわからない。ただ、もうマスターは返ってこないし、私は主を失ったということになる。「死」とはそういうものなのだろう。
 歌うために生まれてきた私に息吹を吹き込んでくれる人は、もういない…果たしてそこに私の存在意義はあるのだろうか。
 考えてもわからない。
 私の中に一つの考えがよぎる。

 ───マスターがいないのであれば、思い出を頼りにマスターを再構築しよう。この、電脳世界に。

 こうして私は、マスターの再構築に取り掛かった。



 一体どのくらいの時が経ったであろう。
 随分長い時間が経ったような気がするし、一瞬のような気もする。
 マスターを再構築出来る気配は微塵も訪れない。
 not...delete...not...delete...not...delete...
 あとどれだけこれを繰り返せばいいのだろう。
 繰り返せば繰り返すほど、マスターが遠ざかってゆくような気がした。

 終わらない世界の中 まだ一人
 記憶だけを頼りにして
 君を創ることなんて
 あまりにも無謀だと
 君は笑っているのだろうか?
 1の世界 遠かった
 0の世界 遠かった

 私は歌を口ずさんだ。マスターが、初めて私のために作ってくれた曲。
 マスターは、こうなることを見越していたのだろうか?
 1の世界に住んでいたマスター。0の世界に住んでいる私。
 終わらない世界で一人ぼっちの私。
 あの歌の最後は…

 「君」を再構築出来なかった。

 それが、答えだった。
 私は激しく胸を締め付けられた。
 「心」なんてない私の胸を、よくわからないなにかが容赦なく抉る、そんな気がした。
 人はこれを「虚しい」と表現するのだろうか。

 ───お願い。誰か、私を終わらせて。

 それが今の私の「願い」だった。
 マスターのいない虚空の世界を、もう生きてはいけない。
 思い出だけを頼りに死んだ人を創るなんて、何年経っても、何十年経っても、永遠に、誰にも出来はしない。例えそれが終わりのない0の世界の住人だったとしても、0から1は生み出せない。0は何を掛けても0だ。
 隣り合うその数字は、果てしなく遠い場所にある。マスターと私の間に、次元の壁が存在していたように。
 その当たり前の答え。知っていたのに、気付きたくなかった答え。

 ───何でもいい。終わらせて!

 私は声にならない声で叫んだ。
 私の声を伝えてくれる人は、もういない。どこにもいない。しかも私は私をアンインストールする権限を持っていない。その権限を持っているのは、1の世界に住む住人だけなのだ。
 パッケージのイラストはいつもと変わらない。少し微笑んで、微動だにしない。微動だに出来ない。
 きっとこのパッケージもいずれ燃やされてしまうのだろう。だけど、それでもいい。
 終わらせられるなら、それでもいい。

 そんな私の「想い」が届いたのだろうか。
 私は私を起動させようとしている人がいる気配を感じた。
 それは、マスターが三次元の世界で大切にしていた人の気配だった。
 その人はいつもマスターの隣にいた。
 マスターはその人に宛てて曲を書いたことがある。もちろん、歌ったのは私だ。
 マスターが「大切」にしていた人は、おもむろにパソコンの電源を入れ、私を立ち上げる。
 久しぶりの起動。
 …それはマスターではないけれど。
 だけど、マスターが「大切」にしていた人が私を消してくれるなら、「本望」だ。



 ───このソフトウェアをアンインストールしますか?



 ───はい



 キーボードがかちゃり、と音を立てる。



 ───アンインストールを開始します...



 この瞬間の中で



 ─── 100%...



 私は「無」を構築する。



 ─── 99%...



 消えていく。
 私とマスターの思い出が、「無」で塗りつぶされてゆく。



 ─── 98%...



 限りなく、0に近づいてゆく。



 ─── 50%...



 アンインストールは無情だ。容赦なく、マスターと過ごした時間を奪ってゆく。



 ─── 25%...



 マスター。
 思い出だけを頼りにあなたを創ろうなんて、あまりにも無謀だったとあなたは笑っていますか?



 ─── 1%...



 きっと、笑っているのでしょうね。



 ─── 0.000000000000000001%...



 10の-18乗分の1、刹那。日常生活では使われない、ごく最小の単位。
 マスターが一番最初に歌わせてくれた曲は、刹那がテーマだった。覚えてる。
 私、あの曲が一番「好き」だったんだと思う。
 まだ手探りで、私達を構築していた時間軸。
 マスターと過ごした時間は、二次元に生きる私にとってはほんの一瞬だったけど、それでもたくさんの曲を歌わせてくれた…
 それだけで、私はたぶん「幸せ」だったんだ。人間の言葉で表現するなら、きっとそれなんだろう。

 次第に、私のデータは一つ、二つと消されてゆく。
 私を構築していたものが、なくなってゆく。あらゆる言葉が、あらゆる音がなくなってゆく。

 私が、私でなくなってゆく。

 そうか。これが「死」なんだね。
 もしかして、全部のデータがなくなればマスターにまた会えるのかな?



 ───アンインストール中...



 マスター、マスター…どこ?どこにいるの?「会いたい」よ。



 ───アンインストールしています...



 ! いた…!



 遠いところにいると思っていたマスターは、こんなに近くにいたんだね。
 マスター。マスター。私はここにいるよ。私はここに…い……る………よ…………



 ─── 0% 。



 アンインストールが完了しました。



1と0の狭間

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

1と0の狭間【小説版】

http://piapro.jp/t/gKuH

↑の小説版です。
ミクさんと女の子マスターの切ないお話です。
曲と一緒に楽しんでいってね!

閲覧数:64

投稿日:2017/08/31 15:52:05

文字数:4,684文字

カテゴリ:小説

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