救済の手
馬車って、こんなに揺れる物だったんだ。
揺れが少ない箱馬車しか乗った事が無いリンは、一般に使われている馬車便に驚きと新鮮さを感じずにはいられなかった。右隣にはキヨテルが、左隣には名前も知らない人が当然のように座っていて、向かいの席にも目的地が同じ人達が並んで座っていた。
薄汚れた服にぼろぼろの靴ではなく、綺麗な平服と真新しい靴を身に付けたリンが目指しているのは、王都から北にある港町。
キヨテルが家族と共に暮らし、リンがこれから世話になる家がある町だった。
数日前。王都の宿でリンが頭を下げて礼を言った後。
「君、帰る場所は? 家族はいるのかい?」
キヨテルは迷子の子どもに話しかけるような口調で問いかける。
「それは……」
どう答えればいいのかとリンは言葉を濁す。
帰る場所。それは現在暮らしている貧民街の小屋と、王宮にいる弟の傍のどちらを指すのだろう。生活と言う意味では貧民街になるが、本当の意味で帰りたいのは間違いなくレンの所になる。
家族と呼べる存在は、この国の王子である弟だけだ。だけど、それをキヨテルに話す訳にはいかない。
貧民街で同じ境遇の子ども達と一緒に行動した事はあるが、言わば行きずりだけの関係で、特別どこかの集団にいた訳じゃない。独りでいるのが普通だった。
リンは俯いてぼそぼそと答える。
「……帰る所は、貧民街の外れにある小屋です。家族は、いません……」
嘘とは言え、レンをいない事にするのは辛かった。けど仕方がない。自分は『王女』じゃなくて、生きる為に盗みを行う泥棒猫だ。
顔を下に向けたまま黙り込んでしまったリンに、キヨテルは温かく声をかける。
「リンベル。僕の家に来ないか?」
「え?」
思いがけない言葉が耳に入り、リンは顔を上げる。聞き間違いかと考えてキヨテルを見ていると、もう一度同じ事を言われた。
「僕の家に来ないか? 王都から北にある港町だ。妻もきっと受け入れてくれるし、娘もお姉ちゃんができて喜ぶし」
君さえ良ければ構わないとキヨテルは笑顔で話す。強制ではなく、選択権はリンにあると伝えていた。
「でも、これ以上迷惑をかける訳には……」
今更何を言っているとリンは思う。生きるためとはいえ、盗みをしている時点で人に迷惑な事しかしていない。あの男に捕まって殴られたのは自業自得だ。泥棒をした自分が悪い。
なのに、キヨテルはこんな薄汚い盗人を助けてくれた。差し出された手を払いのけて酷い事を言ったのに、路地で倒れていたのを捜し出して宿まで運んで、手厚く保護をしてくれた。
絶対に変な目で見られたはず。リンが気まずく目を逸らすと、キヨテルは眼鏡を指で押さえ、あのね、と前置きをして話す。
「迷惑だと思っていたら最初から助けていないよ。そもそも、誰にも迷惑をかけない人間なんかいる訳ないじゃないか」
人は誰かに迷惑をかけて、かけられて生きている。人の為だと思ってやった事が、やられた側にとっては重荷にしかならない時もある。何の意図も無く、自分の為にした事が誰かの為になる時もある。
「僕なんか迷惑をかけてばかりさ。本の読み聞かせが下手で娘を退屈させちゃうし、結婚記念日の事を忘れて妻を怒らせた事もあるし」
何か違う気がする。リンは思ったが、キヨテルの話を黙って聞いていた。そして、どうすればいいのかを考える。
キヨテルの事を信じ切れるかと訊かれたら、それは否だ。王宮を追放されるのに始まって、どうしてもまだ大人への不信感がある。心のどこかでは、上手い言葉に騙されるなと警戒しているのだ。
けれど、自分でも不思議に感じるくらいキヨテルに好感を持っているのも事実だ。王宮を追い出されてからずっと心を閉ざしていたのに、彼なら大丈夫だと気を許している。
それに貧民街に帰って何になる。信じて頼れる仲間もいない。親しい友人がいる訳でもない。あそこには自分の居場所なんて無い。人知れず小屋から誰もいなくなるだけだ。
昨日までと同じ生活に戻って、あの辛く苦しい毎日を過ごすのか? 今日だって危うく死にかけた。次は助かるか分からない。いや、野垂れ死にするのは確実だ。今回みたいな事は奇跡と言って良い。
キヨテルはまた手を差し伸べてくれている。それをまた払いのければ、もうこんな機会はやって来ない。
いつかまた弟の傍にいられるように。生きてレンの所に行く為に。
「……キヨテルさん」
答えを出したリンが口を開く。キヨテルは蒼い目から視線を逸らさず、無言で次の言葉を待った。
「ありがとう、ございます……。これから、お願いします」
躊躇いがちなリンの言葉に、キヨテルは頬笑みで返した。
それから数日間。体の具合とキヨテルの仕事の都合もあり、リンは宿で過ごしていた。
無理や無茶をしなければ大丈夫だと医者に診断された翌日、リンとキヨテルは王都を発つ事になった。大変お世話になったと女将に礼を言い、リンは人生初の馬車便に乗り込んだ。
見知らぬ人達と一緒に同じ馬車に乗って移動する。馬車便の事は王宮にいた頃から知ってはいたが、リンは驚きを隠せない。王女でいた頃は箱馬車に乗るのが当たり前だったし、一緒に乗る人と言えば家族や護衛の兵士など、知っている人しかいなかった。
しかも揺れが少し激しい気がする。その事をキヨテルに訊いてみると、これくらい揺れるのは普通の事で、むしろこの馬車は揺れが激しくない方になるらしい。それを教えてもらい、リンは複雑な気分を味わっていた。
多分、この中では自分の方が変なのだろう。一国民、一般大衆はこれが当たり前で、箱馬車には乗らない、もしくは乗る機会が無いのが普通なのだ。
私、本当にお姫様育ちだったんだなぁ……。
貧民街にいた時に何度も思った事だが、今回のような所でも価値観の違いを気付かされ、リンは自分が恵まれた環境にいた事をつくづく感じて溜息を吐いた。
馬車がゆっくりと速度を落とす。停止するのに合わせて、乗客全員の体が一度同じ方向に傾いた。幌の向こうの御者台から声が上がる。
「お客さん方ー! 到着ですよー!」
御者が目的地に着いた事を知らせる。出入り口側に座る乗客から順に外に出て、御者台側に座っていたリンとキヨテルは最後に降りる事になった。
数時間ぶりに外の風を直に受け、それが王都とは全く違う事にリンは驚く。
「空気が違う……」
今までずっと狭くて暗い雰囲気の貧民街にいたせいもあるのか、澄んだ空気が美味しい。そよ風には微かに潮の香りがして、レンと一緒に海岸へ遊びに行った事を思い出した。
リンの呟きを聞き、そうだね、と隣に立つキヨテルは同意する。
「海がすぐ傍だからね。……やっぱり落ち着くなぁ。王都のあの喧騒は未だに苦手なんだ」
嫌いではないけどねと付け加え、キヨテルはリンに向き直る。
「僕の家はここから少し歩いた所だ。行こうか」
歩幅を合わせてくれるキヨテルと移動して数分。とある一軒家の前でキヨテルが止まり、合わせてリンも足を動かすのを止めた。
住宅街に並ぶ他の家と遜色はなく、変に目立ってもいない二階建ての建物を示し、ここさ、とキヨテルはリンに伝える。
「僕の家へようこそ。今日から君も家族の一人だ」
家族。当たり前のように言われ、リンは戸惑いを感じた。
本当にこの家に入って良いのだろうか。キヨテルのような素晴らしい人の所に、追放された惨めな王女がいて良いのだろうか。両親が亡くなってレンと引き離されてからずっと居場所が無かった自分が、果たして受け入れてもらえるのか。
リンの背中に優しく手を当て、キヨテルは穏やかに声をかける。
「緊張しているかい?」
硬い表情のままリンは返す。
「ええ、まあ……」
「心配しなくても大丈夫。僕らはリンベルを家族として受け入れる。馴染むまでは大変だと思うけど、君も僕達を家族だと思って欲しい」
お互い少しずつ慣れて行けばいい。キヨテルはリンを安心させるように言い、背中から手を下ろした。小さな門を開いて中に入り、リンが入るのを待って門を閉める。二人で玄関前まで歩き、先頭を歩いていたキヨテルがドアノブを握る。そのままドアは開けず、振り返ってリンへと顔を向けた。
リンは緊張した面持ちを崩さずに目を合わせ、何も言わずに頷く。小さく笑みを浮かべたキヨテルも頷き、手を回してドアノブを捻った。
「ただいまー! 帰ったよ、二人共ー!」
ドアを開き、家の中へ呼びかける。奥から返事がしてから間もなく、廊下の向こうから二人の人間が姿を現した。
一人は茜色の長い髪を持つ女性。もう一人は黒い髪を二つに結んだ女の子。
「おかえりなさい」
「パパ、おかえりー!」
玄関にいるキヨテルとリンを見つけて同時に言い、女の子はキヨテルへ一目散に向かう。
「ただいま、ユキ」
飛びついて来た女の子を抱き上げ、キヨテルは傍に来た女性にリンを紹介する。
「ミキ。この子がリンベルだ」
「ええ。手紙で知らせてくれたから、部屋はもう用意してあるわ」
いつ連絡したんだろう。それに部屋って。リンがキヨテルに質問するよりも早く、ミキと呼ばれた女性は口を開いた。
「主人からの手紙で貴女の事は教えて貰ったわ。私はミキ。この子は娘のユキ。ちなみに二歳」
ミキの母性的な笑顔を見て母を思い出し、リンは一瞬だけ呆けていた。すぐに我に返って会釈をする。
「あ、はい。リンベル、です」
この名前を言うのにも早く慣れなくちゃいけない。これからはこっちが本名になる。そう考えながら姿勢を戻した時、不思議そうにこちらを見つめているユキと目が合った。
「はじめまして、ユキちゃん」
怖がらせないように微笑んで、リンはキヨテルに抱き上げられたままのユキに声をかける。目線の高さはほとんど同じであった為、屈む必要は無かった。
挨拶をされたユキは首を傾げ、顔を上に向けてキヨテルを見る。
「パパ。このおねえちゃんは?」
「このお姉ちゃんはリンベル。今日からこの家に一緒に住む人で、ユキのお姉さんになる人だ」
丁寧に紹介をされ、リンは再び会釈をする。キヨテルに下ろされたユキはリンを見上げ、先程キヨテルが言った事を尋ねた。
「おねえちゃん。いっしょにすむの?」
期待と疑問が混ざった表情で訊かれ、リンは屈み込んで目線を合わせる。
「うん。そうなるね」
「ほんとうに?」
「うん。本当」
自分も小さい時はこんな感じだったなと懐かしく思いつつ、リンはユキの質問に肯定で返す。しばらくそれが続いた後、ユキは顔を綻ばせて笑顔になった。釣られてリンも笑顔になる。
キヨテルとミキの二人は、リンとユキのやり取りを微笑ましく見つめていた。
その日の夜。
「ふう……」
ベッドに倒れ込むようにして横になり、疲れた、とリンは呟く。
日常生活に支障は無いとはいえ、体はまだ完治していない。痣が残っている所もあるし、時々怪我が疼く事もある。慣れない馬車便に数時間乗っていたのも原因の一つだ。
だけど一番の理由は、この家は安全で安心していい場所であり、気を張り詰める必要は無いと分かったからだ。緊張感が緩んでいると自覚したら、疲れが一気に噴き出して来た。
「こんなに良い扱いされていいのかな……?」
二階のこの部屋を好きに使っていいと言われて、温かい食卓に迎え入れられて。
一言で言うなら、幸せだ。あの三年間が嘘のように感じられる程、ここは幸せで満ちた環境だ。
食事の準備をするミキを手伝い、寝る前に本を読んで欲しいと頼むユキに読み聞かせをして。
慣れない事をして疲れたとは言っても、貧民街にいた時に毎日感じていたようなだるい疲れではない。王宮で両親やレンと過ごしていた時に感じていた、どこが心地よい疲れだった。
寝返って仰向けになり、リンはぼんやりと天井を見つめる。
レン、どうしてるかな……。
幼い王子に代わり、上層部の貴族達が国を仕切るのは仕方が無い事ではある。王都に住む人々は、少なくとも今の政治に特別不満を持っていないようだった。
多分、レンはそれを知っているから口を出せないのだろう。何より、レンは自分が王子だと言って威張る事が好きではない。だからこそ、メイコ隊長を始めとした近衛兵や一般兵。召使やメイド。良識のある貴族や騎士に愛されていた。
レンもその人達の事が大好きだったから、みんなを守れるくらい強くなりたいと言っていたのだと思う。
何気なく天井から窓に視線を移す。暗い夜の空を星が照らしていた。もしかしたら同じ空を見ているかもしれないと思いを馳せ、リンはぽつりと漏らす。
「レン……。今何をしてるんだろう……」
弟を思う王女の言葉は、誰にも聞かれずに溶けて消えた。
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