馴染みの店の壁には、相変わらず所狭しと楽譜が貼られている。
カウンターでは、デスクトップ型パソコンをカタカタと鳴らす楽譜屋の店主が、いつも通りのしかめ面をパソコンの画面に注いでいた。
太い指が、外見に似合わず軽快な動きをするのを目にすると、少しだけ気持ちが落ち着くのはどうしてだろう。
「カイトか。ちょっと待ってろ」
店主のガドは僕を一瞥してまた液晶に視線を戻した。僕はカウンターに近寄っていって、ショウケースに並べられた楽譜を暇つぶしに眺める。ショウケースに収められているのはいずれも人気、知名度が高い作曲家のものだ。僕の曲も、いつかここに並べたいと常々思っている。
「待たせたな。また売りか?」
「うん。これなんだけど」
タンっと小気味良くキーを叩いたガドは、体ごと僕に向き直っていった。僕は鞄から新曲を取り出して渡す。
二週間かけた前作と違って、一夜で書き上げたものだ。前の半分くらいが関の山だろう。そんな気持ちでいた。
「ふぅむ。こりゃあ……」
楽譜を目で追っていたガドが唸る。やはりあまり良くないのか、と落胆する僕に、ガドはこんなことを言った。
「おまえさん、何かあったか?」
「何か、って?」
ガドが楽譜以外に関することであれこれと詮索することは滅多にない。なので、僕は反射的に鸚鵡返しをしてしまった。
「曲の印象が……いや、いい。なんでもねえ」
曲に目を落としたまま、ガドは素っ気無く話を打ち切った。そこに至ってようやく、僕は昨日の不思議な体験を思い出す。同時に、ミクとのことも。
「8500でどうだ?」
「8500!?」
さきほどのことを思い返して少ししょげていた僕の耳に、ガドから驚きの値段が告げられた。水を頭からぶっかけられたみたいな衝撃を受けて、僕は大声で聞き返した。
「なんでぃ? なんか文句あんのかよ」
俺の鑑定に文句があるってのか、小僧、あぁん? というデジャブを感じる表情で、ガドはぼくを睨みつける。
「ないよ! そんなの」
文句なんてあるもんか。予想の斜め上をぶっちぎる高値に、声が勢いづいた。
「そうか。で、どうすんだ?」
売るのか? とガドの目が言っている。僕は興奮して身を乗り出した。
「も……」
もちろん売るさ! そう言おうとした僕の言葉は、一音目でつっかえた。
『歌っちゃいけないんです、私は』
ミクの沈んだ声が耳に蘇る。続いて昨日の夜の神秘的な光景が脳裏に広がった。興奮が一気に冷めて、代わりに浮かんでくるのは疑問。
あのとき、ミクはどんな顔をしていたんだろう? 鮮烈に焼きついている筈の景色なのに、彼女の表情だけがぽっかりと抜け落ちていた。
「……ううん。やっぱり、止めておくよ」
それに気付いた瞬間、何故だか僕は、この曲を売る気をまったく失くなってしまった。
「そうか」
残念がる様子もなく、理由を問うでもなく、ガドは冷静に言う。
「気が変わったらまた来い」
ごつごつした手から新曲を受け取り、僕はそっと鞄に戻した。
「なぁ、カイトよ」
めくれていた鞄の肩紐を直して振り返る僕の背に、ガドがこれまた珍しく声を掛けてくる。
「その曲、誰のために描いた?」
店のドアの半歩手前で足を止め、僕は爪先に目を落としたまま答えた。
「分からない」
正直な気持ちだった。
落ち着かない。足が地に着いていない。そんな感じがする。
悩みに悩んだ五日間。結論を出してここに来たはずなのに、どうしてそんな気分に襲われるのか。
時計屋ヴェルヌスの看板を前にしてなお、どうして僕は悩んでいるのだろう?
「ここまで来たら、もう行くしかないよな……」
店の前でうろうろしていたせいで、時折り通り過ぎていく通行人の視線がすごく気になるし。ここはぐっと覚悟を決めて。
チリン。ドアベルが鳴る。チクタクと時を刻む時計の音が聞こえてきた。
「おや、これはこれは……」
カウンター席の向こうでケンジロウさんが破顔する。
「カイトさん。よくいらっしゃいました」
「あはは。その節はどうも」
ケンジロウさんの笑みにつられて、僕もぎこちなく笑みを返した。
「いえいえ、こちらこそ孫がお世話になったそうで。ありがとうございます」
「いやぁそんな。たいしたことはしてませんから」
丁寧にお辞儀するケンジロウさんに恐縮させられつつ、僕はちらちらと店内を窺った。壁掛け時計や腕時計、懐中時計。時計に埋め尽くされてはいるが、不思議と圧迫感を感じない落ち着いた装い。その中にミクの姿はなかった。
ほっとしたような、肩透かしを食らったような、矛盾した気持ちが僕の中に生まれる。
「あぁそうそう。ちょっと待っていてくださいね」
ぴんと伸びた背筋はそのままに、何かを思い付いたといった風にケンジロウさんは言って、店の奥に消えていった。
なんだろうかと訝っていると、しばらくしてケンジロウさんは肩幅ほどの大きさの木箱を持って戻ってきた。
「ささやかですが、孫を助けていただいたお礼です」
にっこりと笑って木箱を開くケンジロウさん。そこには五つの腕時計が並べられて収まっていた。
「お好きなものをお選びください」
まさかそんなことになるとは思ってもいなかった僕は、びっくりして木箱の中身を覗き込む。金、銀の輝きが眩しい光沢ある時計や、クラシックな作りの控えめな装飾を施された時計、派手な飾りがスタイリッシュに取り付けられた時計など、種類の違う五つの時計が並んでいた。
「これを僕に、ですか? そんなとんでもない!」
ぶんぶんと首を振って遠慮する。ちょっとした人助けには過ぎた施しだと思った。
「そうおっしゃらずに。ぜひ、受け取ってください」
にこにこと笑みを絶やさないケンジロウさんだが、瞳は真っ直ぐにこちらを見据えている。なんだろう? そこはかとなく威圧感を感じるような……。
「わ、分かりました。じゃあこれを」
そう言って控えめな装飾の時計を示す。なるべく安そうなものを選ぼう。あまり派手なものは自分には似合わない。という、とても庶民的な価値観からの選択だ。
どうぞと手渡された時計を腕に嵌めると、ケンジロウさんに良くお似合いですよと言われた。リップサービスだと分かっていても、面と向かってそう言われると気恥ずかしい気分になる。
「あ、っとそうだ」
煽てられて舞い上がりそうになった僕は、そこで本来の目的を思い出した。鞄に手を突っ込んで新曲を取り出す。
五日間悩んで下した結論。それは。
「これを、火葬してください。お願いします」
“楽譜(スコア)の焼き場”に再び足を向けること。そして曲を火葬してもらうこと。そして、
「それと、また僕も同席させてください」
もう一度この目で彼女の歌う姿を見ることだ。
「ほぅ……」
手にした曲に目を通し、ケンジロウさんは目を優しく眇めた。
「分かりました。承りましょう」
それからふむ、と白い髭を撫で。
「カイトさん」
「はい?」
つと僕を見て、ケンジロウさんは柔らかく微笑んだ。
「少し、お話をしませんか?」
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苦しいから歌った。
悲しいから歌った。
生きたいから歌った。ただのエゴの塊だった。
こんな...君の神様になりたい。
kurogaki
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