『第3話』
帰りの電車――――。
比較的遠くから通っているルカが、家に帰りつくまでにはかなりの時間がかかる。
この長い電車が、果たして今日は良かったのか。悪かったのか。
ルカは電車の窓によりかかり、その光景を眺め続けた。
何故、自分があのような事を口走ったのか。
全く分からない。
「ミク・・・」
その名前をつぶやいてみる。
トクン、と胸の音が高鳴った。
「ミク・・・」
彼女を侮辱などしたくなかった。
ただ、感情が許してくれなかった。
溢れだしてしまったのだ。
理性で止めることのできない、誰にも負けているつもりの無い、ミクへの想いが。
自分でも分かっている。
側に居たいのだ。側に居て欲しいのだ。
(会いたいよ・・・。こんなにも近くに居たいのに―――)
その感情は、ちょっと親しくなりたい、などと言う生易しいものではない。
手を握りたい。
肩を抱き寄せたい。
互いの温もりを感じたい。
そして―――。
「・・・・・・っ」
ルカは自分自身のその欲望と言う想像力に、奥歯をかみしめる。
気持ちが悪い・・・。自分で自分が嫌いになる。
だからこそ、素直にもなれないし、感情的にもなる。
正直、ミクがグミと仲が良かった時代には、嫉妬も大きかったが、同時に安心感もあったのだ。
ミクも、男性よりも女性が好きなのではないか。
そう思う事で安心感があった。そうであるのなら、いつかミクが自分の事を振り向いてくれるのではないか。そう信じられていたのだ。
しかし、ミクはそうではない女の子だったと言う現実が突きつけられてしまった。
それは、ルカにとっては絶望だった。
今のミクに、自分の本当の気持ちを伝えたとしたら。
断られるだけならまだいい。しかし、あるいは気持ち悪がられて、二度と口をきいてもらえないのではないのか。
ルカは嗚咽をこらえた。
(こんな気持ち・・・、消えてしまったらいいのに・・・っ)
だが、一度描いた絵画を消すことが簡単ではないように、心の中に広がった色彩を消し去る事は難しい。
(こんなに苦しい気持ちになるのなら・・・)
想いなど、抱かなかった方がよかった・・・。
良くわからない感情で、頭がぐしゃぐしゃだ。
それでも電車は動く。
カタカタと小気味よいリズムを刻みながら。
止まったままのルカの気持ちとは裏腹に、前へ、前へと――――。
次の日、ルカは学校を休んだ。
すると、学内で妙な噂が出てきた。
ルカとグミが喧嘩をしていたらしい、と言う噂だ。
その妙な噂はミクの耳にも届き、ミクはグミに直接聞いて確かめてみた。
すると、グミは表情を暗くする。
「へぇ・・・。ルカちゃん、休んだの・・・」
「うん。風邪だって言うのだけど。でも、変な噂があるの」
「妙な噂・・・」
「う、うん・・・。実は昨日、グミちゃんとルカさんが喧嘩をしていたって」
「・・・・・・」
「そんな事は無い、よね。まさかグミちゃんが・・・」
「私―――、やりすぎちゃったのかもしれない」
「え?」
ミクは吃驚してグミを見る。グミの表情はとても落ち込んでいた。
「でも、ルカちゃんがすごく酷い事を言うから。私、どうしても許せなくって!」
グミはルカの顔を叩いた事を告白した。ミクは驚いた様子であるが、
「で、でも、グミちゃんがそんな感情的になるなんて・・・。一体何があったの?」
ミクの質問に、グミはしばらく沈黙したと、
「言いたくない」
「え?」
彼女は明確に返答を拒否した。
グミの態度はミクが見ても異常であった。今までも、それなりに頑固な所もある彼女であったが、今回ばかりは少し雰囲気が異なっている。
「そう言う訳にはいかないわよ。ちゃんと答えて」
「・・・・・・」
グミはしばらく目元にしわを寄せて黙っていたが、
「・・・あの子が、悪く言ったんだ」
「悪く?」
「ミクと、レン君の事」
「え・・・」
「二人の事を、あまりにもひどく言うから、私、どうしても許せなかった」
「私たちのこと・・・?」
ミクはその事に驚いた様子だが、
「でも、ルカさんがちょとっと言葉がキツイ事くらい知っていることじゃない。今更そんな・・・」
「それでも許せなかったの」
「・・・なんて言ったの?」
「言いたくない」
「そっか・・・」
ミクはそれ以上聞かなかった。グミが『言いたくない』と言うのならば、それは言いたくない事なのだろう。2年間の付き合いで、ミクにもグミの考え方は良く分かっていた。
「でも…、うん、ありがとうね、グミちゃん。私たちの為に」
「ううん、そんなこと無い。正直、私も馬鹿みたいに感情的になっちゃった。だから、・・・ルカちゃんが謝ってくれるのだったら、私も謝る」
「うん。それなら私も嬉しいな」
優しくミクは微笑んだ。
次の日。ルカは重い心を引きずりながらも学校へとやってきた。
遅刻ギリギリで、生徒もまばらとなった校門。その桜の下で。
「・・・!」
その時、一人の人物が舞い散る桜の下に佇んでいるのが見えた。
「ミク・・・さん・・・」
それは、あの新しい春の日と同じような光景。
青空と桜。それは、初めてミクと出会った日と同じ色彩。
ルカの姿に気付いたミクは、優しく微笑む。
「ルカさん。良かった、もう風邪はいいのね」
「え、ええ…」
「ルカさん、私ね、ちょっと話があるの」
「え・・・」
自分に話がある。その言葉に、妙な一瞬の期待が湧く。だが、
「グミちゃんの事なのだけれど」
それは瞬間的に絶望に変わった。
自分があの時、何を口走ってしまったのか。ミクはグミから聞いているのだろう。もちろん、ミクだって許してはくれないはずだ。
「あのね、ルカさん。グミちゃんに、謝ってほしいの」
「・・・え? グミさんに?」
ミクでもレンにではなく、グミに?
「グミちゃんも、感情的になりすぎたって反省してるの。だから、ちゃんと謝ってほしい。そうすれば、グミちゃんは全部水に流してくれるって」
ミクのその言葉に、ルカの心には戸惑いが大きく広がる。
「で、でも、ミクさん。私は―――。グミさんから聞いてるでしょ?」
「ううん。グミちゃんは何も言ってないよ。だから私も何も聞いてない」
「そんな・・・。で、でも、私は、貴方の事を・・・」
少しだけ、ミクは苦笑いをする。
「大丈夫。ルカさんの口の悪さは一年生の頃から知ってるもの」
「なっ!」
「だから別に気にしてないよ。それよりも、私はグミちゃんとルカさんが喧嘩したままの方が嫌だ。だって、グミちゃんも、ルカさんも、私の大切な友達なんだもの」
「―――っ!」
大切な、友達。
(そっか―――)
ルカは瞳を閉じた。そして、
「ルカさん!?」
ミクが驚いた声を上げる。なぜなら、ルカのその瞳に流れる涙を見たからだ。
「ルカさん、どうして・・・。私、何かすごく悪い事言っちゃったかな?」
「ううん、ごめんなさい。なんでもないの」
ルカは心を落ち着かせる為に、上を向いて大きく深呼吸をした。
青い空。
綺麗な桜の花。
あの日と同じ、空。
「何でもない。ただ、少し嬉しかったから」
「嬉しい?」
「私の事、大切な友達だって、言ってくれた」
「なんかおかしかった?」
「ううん。嬉しいの。私―――」
ルカは再び空を見上げた。
涙が、零れてしまわないように。
「私、ずっと、ミクさんと友達になりたいなって、思ってた」
「ルカさん・・・」
上を向いても、それでも涙がこぼれてしまう。どうしようもならない。
嬉しい。ミクが大切な友達だと言ってくれた。嬉しい。
そして、寂しい。ミクが大切な友達だと言った。寂しい。
涙がこぼれる。飲み込んだ想いと言葉が、涙となって溢れてしまう。
「ねぇ、ミクさん」
「何?」
「一つだけ、お願いがあるの」
「うん、なに?」
ルカは涙を拭いて、正面からミクを見つめた。
「これからも、ずっと友達でいてくれる・・・?」
「今更そんな…。私たち、一年生の時からずっと友達じゃない」
「うん・・・。うん、ありがとう・・・」
やっぱり、涙があふれる。
「ねぇ? ミクさんは今、幸せなの?」
「え・・・!?」
その質問にミクは戸惑いの表情を浮かべたが、しばらくして。
「・・・うん、幸せだよ」
ミクは恥ずかしそうに、そして嬉しそうにはにかむ。
「そう・・・。よかった」
涙を、もう隠さない。
「おめでとう。ミクさん」
「ルカさん…」
(そして、ありがとう―――)
涙をこぼすルカの体を、そっとミクが抱きしめた。ルカはミクの胸に顔を押し付け、しばらく泣き続けたのだ。
美しい青空と桜の下。
この瞬間だけは、ミクはルカだけのものだった。
いつかはこの夢から覚めるだろう。
しかし、それでもいい。
今日のこの気持ちを忘れないでおこう。
自分が変わる事ができるかなど、分からない、けれども、一つだけ言える事がある。
私は本当に、人を好きになったんだ。
これから生きる年月を考えれば、
きっとこの出来事など、ほんの一瞬の満開の桜のようなもの。
けれども、この想い出は、自分の未来に、彩りを与えてくれるだろう。
それはまるで、沢山の色をのせたパレットのよう・・・。
その一つ一つの色が、これからの新しい自分を描いてゆくのだ。
目を閉じれば、心の中に広がるこの季節。
桜のごとき短くも、愛しい青春の日。
輝いていた全ての想いを、
いつか思い出す日が来るのだろう。
それはきっと、決して遠くはない未来の話―――。
「――――ルカ先生?」
ハッと、私は目覚めた。
職員室の椅子で、春の暖かい光を浴びてウトウトとしていたのだ。
「お目覚めですか?」
「あ、はい。カイト先生・・・。スミマセン」
目の前には、自分が在学していた頃と全く変わらない、若々しいカイト先生の姿があった。
「今年の入学式も無事に終わって良かったですねー」
「あ、はい。そうですね」
「そう言えばですね。今日、入学式に遅刻しかけた子がいまして」
「はぁ」
「坂の下で困っているトコを、先輩の子が慌てて連れてきてくれたみたいですよ」
「あら、そうなんですか」
「ええ。例のアパートに住んでいる子らしいのですが・・・」
「へぇ、アパートの子ですか」
私は窓の外を見つめた。
窓の外には、例年通りの美しい桜が咲いている。
「今日が新しい春の日、か・・・」
私は椅子から立ちあがると、窓の側によって、見事に咲き誇っている桜を眺めた。
これから再びあの桜は、新しい青春を見届けるのだろう。
(今日も生徒たちを見守ってくれて、ありがとうございます…)
私が小声でそう言うと、
「何か言いました?」
カイト先生が不思議そうに私を見つめてきた。
「いえ、なんでもありません」
「そう言えば、今度の結婚式。ルカ先生は出席なさるのですか?」
そう尋ねられた私は、彼女のウエディングドレス姿を想像し、少しだけ苦笑した。
「ええ。もちろん――――」
その時は、二人に、今のこの学校の事をいっぱい話して上げよう。
私達の大切な思い出を残す、
あの時の春と変わらない、
桜色に染まった、この空の事を―――――。
『あの日の青。桜色』=終=
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