Prologe
「ねえ、紡。私、なんのために生きてきたのかな」
僕の前で、彼女──明菜は笑った。ひどく苦しそうに。
「ねえ、私のしてきたことって無駄だったのかな」
明菜の言葉に、僕はなにも返すことができない。
「じゃあ、もうなにもしないよ。だってなにをしても意味ないんだから」
ああ、明菜。君はなにも悪くないのに。
「僕は、明菜のしてきたこと──無駄だとは思わない」
「じゃあ、なんだって言うの?」
すばやく、明菜は僕を睨みつけるようにして言う。言いよどんだ僕をまるで諭すかのように、明菜は「いい? 紡」と先ほどとはうって変わった口調で続ける。
「あの人たちは、ただ自分のしたくないことを私に押しつけてきた──そう、それだけなの」
俯いた僕を、明菜が一瞥した気がした。
「だから、私はもう疲れちゃった。ずうっとあの人たちの面倒を見てきたんだから、当然よね」
ふふっ、とかわいた笑いは目に痛かった。
満開の桜が風にゆれ、ひとすじのしずくを隠すように花びらが舞った。
「この顔、よ」
明菜は自分の顔を指差すと、一瞬で無表情になった。
「──もう、やめるわ」
そのときを境にして、明菜が笑うことはなくなった。
君が笑わなくなってから1日
「帰ろう」
僕は彼女に言う。彼女は僕の幼馴染だ。
「私、これから部活あるから」
「今日、金曜か」
「うん」
「分かった、じゃあ──」
「──ばいばい」
いつもの明菜だ。変わったところはひとつだけあるけど、それ以外はいつもとなんら変わらない。
「ねえ、佐藤くん」
聞いたことのない声が僕を引きとめた。
「なに?」
振り向きながら言うと、見知らぬ女がいた。
「あのさ、明菜のことなんだけど──」
「──そういうのはさ、本人に直接聞けば?」
その女がなにを言いたいのかなんて、目を見れば一瞬で分かった。明菜の唯一変わったところと、その理由についてだろう。
「それができてたら、こうやって佐藤くんに話しかけてないよ」
なんてストレートな物言いをする女なんだろう。まあ、いいや。僕には関係ないや。
「そう、じゃあ頑張って」
それだけ言うと、僕は「ちょっと、佐藤くんっ!」とかいうその女の声を無視して180度回転すると歩き出した。
明菜の変わったところはひとつ。笑わなくなった、ただそれだけ。そんなの彼女の自由だ。あの女がとやかく言うことでも、詮索するようなことでもない。
僕の変わったところもひとつ。明菜の──笑わなくなったその表情がきれいだと思うようになった。これも僕の自由だ。思うだけなら、隣で見ているだけなら。
「ただいま」
「おかえり、紡──ねえ、聞いた? 明菜ちゃんち、離婚したんだって?」
好奇心旺盛というか、近所にひとりはいるような煩くて口の軽いおばさん──それが僕の母親。
「おい、いちいちそういうことを聞くな」
廊下を小走りでこちらに向かう母親を、リビングから諫める父親。
「だって気になるじゃない」
母親とは違ってなにごとにも冷静で(ある意味、無頓着の方が合っているかもしれないけど)、口数が少なく表情が怖いおじさん──それが僕の父親。
「だとしても包丁くらい置いていけ」
僕に「ねえ、紡は明菜ちゃんから聞いてたんでしょう?」とか「理由も聞いた? 聞いたわよね。紡、明菜ちゃんと仲良しだものね」とか早口に言う母親の手には、父親の言葉どおり──包丁が握られていた。それに驚くこともなく、母親のわきをすりぬけると「ただいま」と父親に一声かける。
「ああ、おかえり」
「ちょっと、紡っ!」
階段をのぼり、自室へと向かう僕を追いかけてくる母親。
「そういうのはさ、本人に直接聞けば?」
うしろを振り向かずに言うと、僕は自室のドアを閉めた。母親の「んもうっ」という声ののち、彼女が下におりていく音が聞こえた。
はあっ、とわざとらしくため息をつくと、僕は机にふせた。
今日はみんなが明菜のことで騒いでいた。僕にはそれが理解できなかったからなのか、すごく疲れた気がする。
「もういいや、寝よう」
僕はベッドに寝っ転がると、静かに目をとじた。まぶたの裏に、明菜のきれいな表情がちらちらと見えた気がした。
君が笑わなくなってから3ヶ月
長袖の制服の人が、極端に少なくなってきた最近。
もう明菜の表情に疑問や興味を持つ人もほとんどいなくなった。こうやって人間は慣れていくんだなと、人間を観察する恐竜かなにかになったような気持ちになる。
「帰ろう」
僕が明菜に言うと、明菜はきれいに頷いた。さらりと彼女の緑の黒髪がひとふさ、肩からおちた。
「ああ、そういえば」
帰り道で、明菜は突然に口を開いた。
「ん、なに?」
僕は前を見たまま、言った。
「今日の課題、解らないところがあったの。あとで教えて?」
「うん、分かった」
ふいに震える携帯。明菜はそれに一瞬驚いてから、スライドでロックを解除し、僕を一瞥した。うん、と頷くと彼女は電話に出た。
「──どうしたの?」
明菜と目が合って怪訝そうに訊ねられるまで、僕はずっと彼女を見ていたようで。
「なんでもない」
「ふーん?」
さして気にしてないようすで携帯をしまった明菜は、すっと無表情になった。
きれいだな、と思った。
君が笑わなくなってから7ヶ月
長袖の制服の人が、極端に多くなってきた最近。
紅葉した木々が風に揺れる。その光景はまるで、木々が紅い涙をこぼしているように見えた。
「ねえ、ここ…寄っていかない?」
明菜が指差したのは、町外れの公園。
「うん」
僕は短く返事をすると、公園の中へと進む。
「なにか──あった?」
とうとつに切り出したことに驚いたのだろう。明菜は目を丸くして、しばらく僕を見ていた。やがて観念したかのように口を開く。
「あの人たちから、連絡が来たの……」
明菜の口から語られたことに、さして驚きもせず僕は先を促す。
「うわべだけの謝罪と、自分のもとに来いっていう遠回しな言葉。それだけだった。私自身の心配なんて、一切してくれなかった……」
それが指しているのは前と同じこと。あの人たちは明菜と離れてみて初めて、彼女がどれだけ自分の生活を支えてくれていたか気づいたのだろう。そして連れ戻そうとしているのだ、言葉巧みに誘い出して。しかし、彼女は気づいている──いや、気づいてしまった。彼らが必要としているのは自分自身ではないということに──。
「なんなの……。私はあの人たちの、なんなの──? 道具?」
僕はなにも言わなかった。ただ、強く──強く握りしめられた手を、上から覆うようにして優しく包んだ。
沈黙が僕たちを撫でる。それは心地よい空間だった。
君の弱いところは僕しか知らない。他のやつらになんか、知る権利なんてない。
君の強く握りしめた手が燃えるように熱いことも──、もう片方の手が今にも凍りそうなほど冷たいことも──。
風はゆっくりと公園を通りぬけた。木々の涙が地面におちた。紅いそれは、君の涙のようだった──。
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同じくピノキオPの『 oz 』、『恋するミュータント』、そして童話『オズの魔法使い』との三つ巴ミックスです。
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