窓を濡らす細い銀の糸を、ぼんやりと眺めていた。
繰り返される雨音。ひっそりと微かに鼓膜を揺らす、絶え間ないノイズ。思考ノイズと称される、ボーカロイドには本来不要な思考の残滓。
カイトはそれをよく知っていた。現マスターであるアキラに引き取られる迄、その音は日常的に響いていた。
レンの悩みを聞いたからか、窓を濡らすやわらかな雨の為か、久しぶりにその事実を思い出した。
「……お兄ちゃん、どうしたの?」
ソファーでぼんやり物思いに耽っていたカイトの鼓膜を、そよ風みたいなソプラノが揺らした。
心配そうな緑の瞳に静かに微笑み、カイトは妹の頭を撫でた。ミクは隣に腰掛けると、カイトの手に手を重ねる。
「何か悩みがあるなら、話して欲しいな。あの、私じゃ頼りないかもしれないけど、いつもお兄ちゃんがしてくれるみたいに、私もお兄ちゃんの役に立ちたいの」
真っ直ぐに訴える翠の瞳は、どこまでも澄んでいる。カイトは迷ったが、少しだけ妹に甘える事にした。
「たいした事じゃないんだよ、前のマスターを思い出していただけなんだ」
「前の、マスター?」
「うん、僕の最初のマスター。ミクは今のマスターが初めてだけど、僕が最初に仕えたのは別の人なんだ」
「そうなんだ。どんな人だったの?」
本来は落ち着いたアルトがひび割れた、甲高い声が耳の奥で響く。
ボーカロイドの記憶は劣化することなく、今も鮮烈にその声を思い出す事ができる。カイト、と呼ぶ声に籠められた幾つもの複雑な感情。
「……そうだね、とても賢い女性だったよ。夫婦でボーカロイドを所持していて、旦那さんはMEIKOの、奥さんは僕のマスターだった。夫婦で今のマスターと似たような仕事をしていたんだ」
「お姉ちゃんも一緒だったの?」
MEIKOの名前に反応して首を傾げたミクに、カイトは苦笑した。
「いや、めーちゃんとは別のMEIKOだよ。外見はともかく、性格も性能も結構違うから、会えば間違えることはないんじゃないかな」
同じ鳥籠に閉じ込められていた同僚は、姉と称するには距離がありすぎた。あのMEIKOは、多分彼女のマスター以外何も見えていなかった。カイトは勿論、彼女のマスターの妻であるカイトのマスターの事も。
「十年、一緒に過ごしたよ。だけど家族にはなれなかった。最初はチームを組んでいたんだけど、気がついたらマスターと旦那さんは一緒に仕事をしなくなっていた。マスターは旦那さんと競うようになってしまった」
設計コンセプトから攻撃に優れるMEIKOと、防御重視のKAITOは、チームを組んだ方が効率がいい。だが、マスターは頑としてチームを組まなかった。様々なスキルをカイトに与え、必死にMEIKOに――旦那に負けないように、それだけを目的としていた。
「どうして、夫婦なのに競うのかな……仲良くした方が嬉しいことや楽しいことがたくさんあるのに」
しょんぼりしたミクの頭を撫でて、カイトは兄としての言葉を口にする。
「競争心そのものは向上に繋がるから、必ずしも悪くないんだよ。ただ、前のマスターはそれが行きすぎてしまったんだ」
競争心等という可愛いものではなく、彼女にあったのは嫉妬と憎悪を糧にした復讐だったのだろう。
彼女がMEIKOのマスターになり、旦那がカイトのマスターになれば違ったのかもしれないが、今さら考えても意味のない仮定だ。
「前のマスターは最後は病気になって、僕を維持できなくなった。だから、僕は今のマスターにもらわれたんだ」
正確には、廃棄処分寸前で拾われたのだとカイトは声に出さずに付け加えた。
心を壊したマスター同様、カイトも壊れていた。絶え間ない思考ノイズ、歌おうとしても出ない声、新たなマスターを受け付けられない壊れたボーカロイドと化していた。
そんな厄介な存在を、アキラもアカリもメイコも、当たり前みたいに家族として受け入れてくれた。
「お兄ちゃん……辛かったね」
「うん、でも昔の話だよ。今のマスターはとてもいい人だしめーちゃんとも仲良くやれてる。それに」
泣きそうな顔をしているミクの頬にふれ、カイトは笑った。
「ミクに、会えた。僕はミクのお兄ちゃんになってたくさんの幸せをもらったから、大丈夫なんだよ」
兄という役割を与えられ、初めて自分は誰かに何かを与えられる側になった。
『お前が、兄としてミクの面倒を見るんだ』
アキラのそんな一言で始まった関係ではあるけれど、無垢で何物にも染まっていない女の子と過ごす日々は、カイトにとって新鮮で喜びに満ちたものだった。
メイコはマスターのサポートもあったし、二人はいつも電脳空間にいられたわけでもない。必然的に、ミクは誰よりもカイトに懐いた。
お兄ちゃん、お兄ちゃんとひよこみたいに後をついて回る妹は、微笑ましいと思えた。ただただ可愛くて、必要とされるのが嬉しくて、笑ってくれるとカイトまで自然に笑顔になってしまう。
気付いたら、ミクはカイトにとってかけがえのない宝物になっていた。
「わたし、お兄ちゃんにしてもらってばかりで、何も返せてないよ?」
困惑したように、自らの無力を嘆くように、ミクが瞳を伏せる。長い睫の影に、濡れた翠が垣間見えた。
「そんなことない。今だって、僕を心配してきてくれたんでしょう?」
ミクの滑らかな頬を両手で挟んで、視線をあわせる。
無垢な翠の瞳は、いつも真っ直ぐに向けられる。何の打算もなく、同情や憐れみでもなく、心から慕ってくれる女の子。兄妹というかけがえのない絆に、縋っているのは自分のほうかもしれないとカイトは思う。
「ミクは、僕の支えだよ」
心から告げた真実に、ミクは瞠目してから花が開くみたいに微笑んだ。
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