第1幕─第2場─
『ほら、二人とも早く来なさいよー』
細くて砂利の多い森小道を走りながら、少しだけ顔を後ろに向けてリンが呼ぶ。
自分はすぐに追いつける速さなのだが、かなり遅れて走るミクが気になって全力は出せない。
隣国のミク王女は自分達より2歳年上だというのに、元からの天然さが加わって年下に見えた。
バラ色をしたリボンで二つに結んだ緑の髪が、えっちらおっちらと走る度にフンワリフワリと揺れ動く。
まるで蝶のようだと立ち止まって眺めていると、ミクがようやく追いついて大きく息を吐いた。
『レン君とリンちゃんはすごく速いんだね!すごいよ!』
額の汗を拭いながら、素直に感心して言うミクにレンは微笑んだ。
リンは体力の無いミクをからかって速く走っているのだが、当の本人が気づいてないんじゃ無駄骨もいいところ。
しかも、意地悪されているというのに、小さくなるリンの背中を本当に羨ましそうに見ているのだ。
油田の権利を争い、汚く相手を陥れることしか教えられなかったレンにとって、ミクは初めて出会う人格だった。
裏の無い笑顔と、代償を求めない言葉がこの世に存在することを教えてくれた初めての女の子。
相手より有利に立ち、いかに屈服させるかを生きがいにしている姉とは違い、皆と助け合って生きたいと願っている。
ミクの傍にいると、自分が教えられてきた事がどれだけ汚いものなのかを実感せずにはいられない。
けれど、緑の国より狭い領土の黄の国は、そうやって財力を高めて周囲の国から身を守らなければ生き残れないのだ。
こうしてミクと月に1度だけ遊ぶ交流会も、戦争を起こさせないための予防策だと分かっている。
財力のある黄の国は、いずれ緑の国の兵力を追い越す事ができるだろうが、周囲に聳える青の国と赤の国には敵わない。
この二つの国は友好的な緑の国をいたく気に入っているし、黄の国が孤立しないようにするためには、緑の国と結ぶ束の間の和平は重要だった。
けど・・・。
『・・レン君?』
返事の無いレンを訝しがって首を傾けるミクに、レンは手を差し出した。
『もうちょっと先に花畑があるんだ。あと少しだから頑張って歩こう』
ミクは華が咲くようにパッと頬笑み、
『うん!頑張るね!』
何の疑いも持たず、レンの手を取った。
自分より身長の高いミクだが、その手が自身の手より一回りは小さな事にレンは驚いた。
こんなにも頼りない細く小さな手で、ミクはいずれ国を治めなければならないのか。
懇意な親戚も無く、自分のように兄弟も居ない。
ミクの母親は病弱で、次の子供は到底望めないと大臣に聞いたが、野心も持たないミクが王座に就くのは拷問に近いだろう。
握ったミクの手を見ながら思考していたレンに、
『レン君の手って、私より大きいねぇ。私の手がスッポリ入って・・守ってもらってるみたいだよ?』
すごいね、すごいね。そう繰り返しながら、ミクが無邪気に笑う。
少しはみ出てはいるが、確かにレンの手の平はミクの手を包んでいた。
レンはその手を優しく引っ張って花畑へ誘導しながら、
『守ってあげるよ。姉さまと同じように・・ミクも守ってあげる』
心の中で想うより早く、その言葉はレンの口から音となって流れた。
そして、産まれて初めてレンは誰かに策謀を持たず微笑む事を覚えた。
こんなにも穏やかな気持ちになったのは、初めてだった。
一番近しいリンと居る時でさえ、こんな優しい気持ちになった時は無い。
まるで、ミクの笑顔が共鳴を呼ぶようにスンナリと身体の中へ入ってきたように思えた。
闇の中に浮かぶ月のように、ミクはレンが本来持っていた性格を呼び出す。
ただ暗闇だけだと思っていた心に、ずっと隠れていた月。
照らす光のように微笑むミクと歩きながら、レンは温かな気持ちが幸せというものなのだと気付いた。
また会いたいと願う素直な気持ちが、嬉しさなのだと・・・。
鋭い梟の一声で、レンはフッと眼を開けた。
周囲の黒に目が馴染まず瞬きを繰り返し、大きく息をついて状況を把握する。
夢、か・・・ずいぶん懐かしい夢だな・・・。
記憶が当人の覚えていない細かな部分までもを引きずり出した、感触さえ在るような夢だった。
陽光を浴びて輪を湛えるミクの髪の色までが、ついさっき見たように錯覚してしまう。
夢の中で見たミクは何年も昔の姿だったが、その愛らしさは最後に会った時と変わらない。
いや、むしろ歳を重ねるごとに白磁の肌はより白い緻密さを極め、清廉な頬は化粧をせずとも淡い桃色に染まっているではないか。
唇は果実のように瑞々しい滑らかさを持ち、歌うように発するソプラノの声はセイレーンのごとく皆を魅了する。
年頃の女性らしく丸みを帯びた上肢を浅ましい目付きで凝視する輩はパーティの都度に増え、その度にレンの仕事は増えていった。
隙あらば言い寄ろうとする貴族連中を探し出しては事前に牽制し、脅しが効かなければ下級貴族へと地位を貶めてパーティに出席できないようにした。
一番最近のパーティでは、とうとうミクの身体そのものを狙い、城近くに馬車を潜ませ連れ込もうと動きまわる貴族連中さえ出てきたのだ。
金の力で何でもできると信じ込んでいる上流貴族の首をそぐため、レンはパーティが始まる直前まで多忙さに寝る暇すら無かった。
馬車をニセの連絡で遠方へと追いやり、首謀者はでっち上げの情報で牢屋へと閉じ込める強硬策。
あまりに時間と余裕がなく、今回は少々やりすぎたかもしれないと感じはしたが、ミクを守るためならば手段は問わないという信念が曲がる事は無かった。
去年より、綺麗になってたな・・・。
女性の・・・いや、ミクの美しさには底が無いように思える。
レンの周りにいる貴族の女といえば、臭いが鼻につくほどの香水をつけて、何とか男の気を得ようとする醜いハイエナだとしか思えないのに。
・・一言でいいから、傍へ行って声を交わしたかった。
しかし、今のレンにはミクと話せない理由が多すぎた。
元から我儘のすぎるリンが青の国の王子を好きになったのだが、青の王子といえば緑の国との交流が盛んでミク自身とも仲が良い。
どちらかといえば兄弟のような仲の良さだと信用できる筋から情報を得ているが、リンにそんな情報を流したところで信じるはずがない。
緑の国が邪魔だとまで言いだした今となっては、レンがミクと片言を交わそうものなら緑の国が自分の持つ全てを奪うとまで思い込みそうだ。
常に自分が頂上に立っていなければ気が済まないリンからミクを守るため、レンはあえてパーティでミクを無視し、常時リンの傍へ立つことによって姉の機嫌を損ねないよう注意を払い続けた。
同じ年頃の貴族らをはべらせ、それらの人間を壁にする事によってミクへ近づかないよう骨を折り、それでも・・・また来年まで会えないミクの姿を目の端に捕えるのは忘れなかった。
目の裏には、閉じればすぐに思い出せるほどの鮮やかさでミクの顔が焼き付けられている。
ただ惜しむらくは、パーティでの笑顔が創りものだったこと。
ずっと見てきたレンには分かる、我慢した作り笑い。
昔のように心から笑わせてやりたいと願う気持ちが、夢の中に現れたのかもしれない。
レンは天蓋に落ちる月の光にミクを想い、再び目を閉じた。
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