第六章 馬鹿親子
レンが診察を断った一週間後、イルの部屋にて。
「え、青の国から?」
正式な断りはまだ入れていないが、頼んでもいない青の国からの医者が王宮を訪ねてきたとルナから聞き、イルは首を傾げた。更に彼女から医者が持って来たという黄の国からの手紙を渡され、度肝を抜かれた。
受取人がカイルである事は驚かないが、差出人が黄の国国王。つまりイルだったからだ。
俺、こんなの書いてねえぞ。
内心で呟く。天才である義兄ほど記憶力があるわけではないが、この数日間の記憶を失うまでに耄碌しているつもりは無かった。しかしそこに書かれている文字は紛れもなく己のものに見える上、止めに使われていたらしい蝋が形作る印も、王宮のものであることを主張している。
ここまで完璧な偽造品を作る事ができるのは、イルの知る限りレンしか考えられない。しかし彼にこんな回りくどい事をする理由は一つもない。診察を望むなら、誘われた時に了承すれば良かったことだ。
「あの、どうしますか?」
ルナが予定されていなかった来客と、そして自分の書いたはずの手紙を熱心に眺める王に困惑した声を上げた。迷ったが、わざわざ外国からはるばる来た友好国の有識者を、記憶に無いからと追い出すわけにもいかなかった。
「急で悪いけど、応接室に通しておいてくれ。俺はレンを連れて行くから」
一礼して去って行く女中を見送って、その足で親友の執務室に向かう。歩を進めている間にも思考は巡り、そう言えばここ数日仕事中にやたらとジンとアレンが部屋に居たとか、何故か金髪の少年はイルの書いた文章を興味深そうに見ていた事を思い出した。
まさか。
一つの推測が脳裏で形作られた時、ちょうど目的地に着いた。
「レン、ちょっと頼みがあんだけど、いいか?」
扉を開ける。子供の頃はノックをしろと毎回言われていた気がするが、革命直後とある事件があってから親友はそれを一切指摘しなくなった。
「何?」
机から顔も上げずに促されるが、どうにも言い方が分からない。しかも廊下を移動中の思考がまだ止まっておらず、筋金入りの頑固な義兄に軽率な科白を吐いた。
「青の国から医者が来たから、ちょっと目を見てもらって来いよ」
言い終わった瞬間失言を悟ったが、もうその時にはゆっくりと顔を上げた親友から途轍もない冷気が放たれていた。三日前から包帯が取れて、見た所眼球も揃っているが左目はどこか虚ろだ。しかしそれが返って恐怖を煽る。
「僕は断ったはずだけど?」
永久凍土も、この声音に比べれば常夏の如く暖かく感じるだろう。
「知ってるよ。俺も呼んでねえんだけど、なんでか俺が書いたらしい手紙を持って来ちまった」
正直イルとしても、レンが医学知識のある他の人間にしっかり目を見てもらうのは歓迎だった。この目の怪我に関して、親友はやたらと達観し過ぎているところがあるので、仕事やら国益やらを考えて無意識下で視力の回復を諦めているような気がしてならないのだ。
懐から手紙を出すと、レンは席を立ってそれを毟り取って開く。隻眼に灯る瞳が不信から困惑に変わるまで、そう長い時間はかからなかった。
「アレンだ。何やってるのかな、あの子は」
心のどこかでやっぱり、と思わずにはいられなかった。イルの知る限りレン以外不可能な事をやってのけるのは、やはり血の分けた子供であるアレンだけなのだろうから。
お前そっくり。と言わなかったのは英断だった。重苦しい溜息をついて黙り込んだ親友の肩を叩く。
「俺が言うまでも無いと思うけど」
「分かってるよ。今更追い返せないし、こんな事情明かすわけにもいかないね」
椅子にかけていた上着を羽織ると、レンはイルとともに廊下に出た。
「悪戯は懲りたと思ったんだけど、また始まったね。犯罪組織に乗りこんで行くよりはいいけどさ」
応接間に向かいながら、有能宰相はやけにずれた言葉でぼやいた。信じられない発言に一瞬冗談かと思ったが、呆れはあるもののその金の瞳は真剣だった。
「本気で言ってるのか? 後悔して償いたいと思ってるから、こんなことしたんだろ?」
「そうかな? アレンは気にして無いみたいだよ。王宮に帰ってからは一度もその話はしてないし、態度もいつも通りだ」
「え、嘘だろ?」
こう返しながらも、あの素直じゃないアレンならあり得ると思った。取り返しのつかない事をしてしまったと、誰よりも自覚して自責の念を持っているからこそ、それを相手に謝罪できないのだ。
許されないのが、怖いのだろう。ただでさえレンの壊滅的に不器用な言動の所為で、実の父を尊敬を通り越して崇拝しているにも関わらず、嫌われていると思い込んでいるのだから尚更だ。
「手のかかる奴だな」
こう言った相手は、父親だったか息子だったか。
「全くね」
少なくとも義兄は後者だと受け取ったらしく、同意して苦笑いした。
「ほれ、行って来い。すぐに結果は報告しろよ。お前んとこの部屋で待ってるからな」
応接間の前に着いた。話が理解できるかはともかくとして、診断は聞きたいのでゆっくり話したい。それならこのまま親友に付き添えばいいのだし本来そのつもりだったのだが、残念ながらイルにはこれから天才少年と個人面談の予約が入ってしまった。
「待ってるなら執務室の方がいいんだけど。すぐ仕事に戻りたいから」
優秀な宰相の事、どうせ仕事自体は午前中に終わらせているはずだ。義弟の予想としては、レンはこれ以上本を読んだら知識の詰め込み過ぎで頭が爆発する。
「そうか、お前の部屋で待ってるから、来いよ」
まあこれはほとんど冗談なのだが、義兄やその息子と同じくらい素直じゃないディーのそれとない話によると、今の親友は目を使い過ぎないに越した事は無いらしい。少しは休め、馬鹿兄貴。
「……分かったよ」
これ以上抵抗しても無駄だと悟ったらしく、親友は頷いて扉に手をかけた。
「一応言っておくけど、視力の回復は期待しないでね」
「前にも言った通り、それは分かってる」
レンが応接間に入室する姿を確認して、アレンを探し始めた。
親友は普段ほとんどアレンに構わない。毎晩深夜に愛息子の寝顔を見に行ってはがっつり一時間眺めている馬鹿親だというのに、覚醒している息子には言葉の一つも滅多にかけてやらない。
いつだったかジンとアレンが『馬と鬼ごっこ』計画のために、王宮とその直結の憲兵隊保有の馬を全て王宮中庭に放牧した事があった。怪我人こそ出なかったものの、憲兵隊の巡回はストップし賓客を迎えに行くはずの馬車は出られなくなり、動ける人間全員で本来の仕事を投げ打って捕まえて、その後諸国への謝罪文書きに追われた時は、さすがに二時間正座させて説教した。
その時に、事実上最も後始末に奔走させられた宰相にも何か言ってやれと強く要求したのだが、相手は頑なに首を縦に振らなかった。
レンはアレンがジンとどれほどの悪戯をしようとも、一切叱ったりはしなかった。ジンの子供じみた目的はともかく、それを叶えるための方法はアレンの知能犯的策謀によるものだ。掏り、誘導、果ては歩哨の何らかの弱味を握っての、脅迫まで。
その手口はもう笑うしかないくらい、レンのやり方と同じだ。イルはもちろんそんなアレンを叱るのだが、目に見えた効果は無い。親友に何か言うように諭しても、首を横に振るばかり。
『僕も仕事で同じようなことも、それよりもっとえげつないこともしてる。でもそれが僕の守りたいもの、守るべきもののためだから止める気は無いから、偉そうに怒れない。
そもそも何と言っていいか分からない。レオンハルトに子供の頃や今まで言ってもらった言葉、全部覚えてるんだ。けれど、それを本気で思えることを尊敬していて、どれだけ羨ましくても納得はできない事が多い。
僕は君やアズリやレオンハルト以外の誰にだって嘘をついて騙して生きているし、今後もその生き方を変えられない。けれど、だからこそ息子には嘘をつきたくない』
親としてはエゴだと思う。けれど、レンの過去と現在の生き方を知っている義兄を責める事が、イルにはどうしてもできなかった。そして同時にあの親子の面倒は出来る限り見ようと決めた。
アレンやジンの自室、ネルソン家共有広間兼イルの仕事場、王宮書庫……
他にもアレンの立ち入りそうな場所は一通り見たのだが、金髪の少年の姿は見つからない。そろそろ診察も終わるだろうし、レンも約束通り部屋に戻るはずだ。その時にはアレンと話し終わっていたい。
すれ違った可能性も考慮してもう一度探し直しと廊下を曲がると、なんとレンが診察をされている応接間の前で金髪の少年を発見した。
「アレン?」
蹲っている姿を見て体調でも悪いのかと焦るが、膝を抱えた小さな身体からは断続的に嗚咽が漏れていた。イルの接近にも気が付かないらしいが、泣いている理由はなんとなくわかった。
アレンは賢い。レンの目の状態がどうしても知りたくて、しかし直接尋ねる勇気が無かったものだから他国からの医者を計略で呼び寄せた。その話を聞くことが目的で、彼らの治療を当てにしているわけではなかったのだろう。
気にしてないわけない。敬愛する父を己の悪戯から危機に追いやってしまって、そして片目の視力を失わせておいて、気にしないわけが無いのだ。
「アレン」
震える背中に手を置く。驚いたように跳ね上がった顔は、涙と悔恨でぐちゃぐちゃに歪んでいた。口を利く前に引き寄せて抱き上げて、柔らかい金髪の頭を撫でながら足音を殺して歩き、ハウスウォード家の広間に入る。
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