屋敷へ帰った直後、待ちかねたように怒り狂った父に呼び出された。
「お前には失望した」
押し殺した声で父は言い放った。大変結構なことだ。
暗く陰気な部屋。暗色で統一された部屋。正直、彼女と数分前まであっていたことが嘘のようだ。
しかし、そんな思いにうつつを抜かしていてはさらに父の不興を買う。僕は首をかしげて問い返した。
「何か不手際をしましたか?」
問いかければ、ふんと鼻を鳴らし、父は頬杖をついて手の甲に顎を乗せる。
「小娘に言われなかったか? ずいぶん信頼されているようだ」
僕へのいやみよりも、彼女を小娘呼ばわりしたことの方がかちんとくる自分自身に嘆息しつつ、形だけでも謝罪の言葉を舌に乗せた。
「申し訳ありません、教えていただけませんか」
「宮廷内でうわさが広まりつつある。あの小娘を陛下が見初めたとな」
「……まさか」
僕は小さくつぶやいた。その声が聞こえたのかそうでないのか、父は押し殺したように唸る。
「見初めただけならいい。すでに奴へ求婚の打診までなさっていると、そこまで言う愚か者もおる」
父の言葉は右から左へ抜けていった。あの娘が、後宮に入る……?
……王妃に、なる……?
「何のためにお前をあの小娘につけたと思っている? こういう事態を回避するためだろう? いったい何を遊んでいた?」
「遊んでいた、わけでは」
あまりのことに思考が付いていかない。あの少女が、籠の中で大切に閉じ込められて育った小鳥が、さらに大きな籠へ移る。
もはや僕が目にすることも許されぬ大きな大きな籠へ移る。
口の中で消え入りそうなほど小さな声で反駁を試みたが、思考の伴わない言い訳が父に通用するはずがなかった。
「ならば何をしていた? 小娘から事前に事情を聞いていれば、このような事態は避けられたはずだな?」
「いろいろ、聞きだしてはいたのですが……彼女は、父親から何も聞いていないと」
「ならばなぜとっとと放り出してこない? すでに深い関係にあるのならばともかく、この状況であの娘を見張ったところで何一つ得るものなどないとわからんか。お前はそこまで無能か」
彼女を愛玩動物か何かだといわんばかりの父の言葉に、怒りも湧いてこなかった。家の盛衰など取るに足りない。ただ彼女が後宮に入る、その事実が激しく僕を打ちのめしていた。
それから父は、僕の落ち込みように何を言っても無駄だと悟ったらしい。早々に書斎を追い出された僕は、自室に入ってすぐにベッドへ倒れこんだ。
――これで、よかったのかもしれない。
荒れ狂う胸の奥とは裏腹に、頭の片隅でそんなことを考える。あの少女は、あまりに無垢過ぎた。僕のような人間に騙されて、後で泣きを見るよりは……僕の父のような人間にとらわれて、あの小さな胸がずたずたに傷つけられるよりは、悲しみや絶望を、どろどろした人の醜いものを目の当たりにして、あの瞳の輝きがすさんでしまうよりは、何も知らないまま陛下の庇護下へ入った方がいいのかもしれない。
しかし、そう考える一方で、胸やけを起こしそうなほどどす黒い感情が、僕の中に膨れ上がるのも感じていた。
あの娘の、あの宝石のような美しく輝く瞳に映るのが、僕ではなくなる。
あの娘の柔らかな唇に己の唇を重ねる権利を持つ者が、僕ではなくなる。
あの娘の鮮やかな深緑の髪に顔をうずめ、その華奢な身体を腕の中に閉じ込める権利を持つ者が、僕ではなくなる。
あの娘の、今だ男を知らぬ純白の柔らかな肌に初めて指を這わせる者が、僕ではなくなる。
それがなんだというのだと、あわてて押し殺そうと試みても、その感情は際限なくあふれて僕を焼き焦がす。初めから罠にかけるつもりで接していたのではなかったのか。父の言いつけで、仕方なくあの少女の相手を務めていたのではなかったか。なのに今や、あの娘が誰かに……しかも、もはや彼女をちらりと視界の端に移すことさえ許されなくなるほどの遠くへ連れ去ってしまえる相手に奪われると、そう思っただけで、どうしようもないほど抑えきれない感情にあっけなく暴走してしまいそうになる。
――ああそうだ。今更認めたとて何の意味もないけれど、僕は彼女の虜なのだ。愛していると、そうはっきり言い切ることができる。誰よりも何よりも愛おしい。誰よりも何よりも腕の中に閉じ込めて離したくない。あの舞踏会で再会したその瞬間から、罠にかかって朽ちかけた鎖にがんじがらめにされてしまったのは僕の方だ。しかもそれに今まで気づかなかったというのだからなお始末が悪い。
なんて愚かしいと僕は力なく笑った。噂と言っても父の耳に政敵である彼女の家の事情が入ってきているのだ。近々彼女の耳にも正式な縁談として、しかも、事後承諾の形で、入ってくることになるだろう。彼女もきっといつしか僕を忘れ、陛下のもとで幸福に暮らすことだろう。それは彼女にとって最も望ましいことではあったが、そのさまを見るのはさすがに辛いと思った。
外国に留学してしまおうか。そしてそのまま帰ってこなければいい。家を継ぐのは当分先で、そうしていやいや連れ戻されたときには、このどす黒く醜く愚かしい感情も、少しは浄化されているはずだ。
半ば本気で現実から逃げだそうとしていた僕の耳に、密やかなノックの音が響いた。顔をあげるのも億劫だったけれど応えないわけにいかず、僕はベッドから起き上がり改めてベッドへ座りなおすと、何気ない風を装って静かに口を開く。
「開いているよ」
失礼いたします、という小さな声と同時に素早くドアを開いたのは、僕が彼女と会うとき、その仲介を務めてくれていたメイドだった。
「『緑の君』がいらしてますが……」
「……なんだって?」
メイドが口にしたのは、僕との間で取り決めた彼女の呼称だった。彼女が来ている? まさか、でも、どうして?
「ここへは来ないようにと言い含めたはずだが……彼女は今?」
「失礼かとは思いましたけれど、人気のない納屋の裏へお連れしました」
納屋に一貴族の姫君を通す使用人など聞いたことがないが、この場合このメイドの判断は正しい。父に見つかろうものならその瞬間に彼女の未来は閉ざされるだろう。この国の最高権力者の傍らに立つことはおろか、まともな結婚さえできなくなる危険性がある。
それはそれでいいではないかとまたどす黒い感情が胸の内に広がったが、それを無理やり抑えて、僕はうなずいた。
「……わかった、ありがとう、後は僕が行こう。君は元の仕事へ戻りなさい」
「かしこまりました」
丁寧に一礼して出ていくメイドを見送った後、僕は知らないうちに止めていた息を一気に吐き出す。なんて軽はずみな行動に出たのだ、あの少女は。もうじき陛下のもとへ行く娘が、同じく結婚前の男、しかも彼女の家と敵対する家の後継者と会っていたなど、これほどのスキャンダルはない。父という屍食獣に見つかる前に、うまくいって帰さなければ。
ドアを少し開けて左右をうかがう。誰もいないことを確かめて滑るように部屋を出ると、足早に納屋へ向かった。広大な庭園の奥、門の内側とはいえ、最も外からはいりこみやすく母屋から監視しにくい納屋へ通したというメイドに感謝しながらも、庭を突っ切るその時間がもどかしい。人の視線がないか周囲に気を配りながら納屋の裏へ回った僕は、すぐに白く輝くような少女の影を見つけた。
「お兄様……!」
小さな声で叫んだ少女は、まっすぐに僕の胸へ飛び込んでくる。そのやわらかな感触に夢心地へ堕ちそうになった僕は、あわててその腕をやんわりとつかんで少女をひきはがした。
「ここへは来てはならないと言っておいただろう? 特に今の君は……」
言いかけて口ごもる。彼女は顔を伏せ、悲しげに口を開いた。
「……そう、やっぱりお兄様の耳にも届いていたのですね」
「君が陛下から求婚を受けたと、そう言う噂なら、もう耳にしている」
押し殺した声でそう答えると、目の前の少女はかぶりを振った。
「ひどいわ、お父様ったら、私の気持ちなんて関係なく、突然私を後宮へ押し込むつもりなのです!」
それは、と僕はうなずいた。「普通、そうと求められて、拒絶する娘はいないからね」
嘆き悲しむ彼女の様を見ていたら、なぜだかあれだけ押さえつけるのに苦労していたはずのどす黒い感情が、静かに凪いで行くのがわかる。この娘が頼りにしているのはこの僕なのだ、父親ではなく、母親でもなく、もちろん陛下でもなく。しかし、次に彼女が口を開いた瞬間、僕の思考は完全に停止した。
「お兄様、どうしてそんなに心無いことをおっしゃるの? この人と決めた方から離れて陛下のもとへ行くなんて、どうしてそんなことがこの私にできるのですか?」
悲しみに潤むエメラルドの瞳。別れ際、「この人と決めた方にするのであればはしたない行為ではない」とうそぶいてみせ、僕の頬にくちづけたあの意味を、僕は半ば無理やり別の意味に思い込もうとしていた。彼女が僕に懐いているのは、幼いころにともに遊んだ幼馴染としての感情なのだと。あの口づけは友愛のしるしなのだと。
「他の娘がどれだけ後宮に憧れていようとも、私の気持ちは変わりません。私は陛下のもとへなど行きたくない、ずっとお兄様のお傍にいたいの……!」
違うのだ、と目の前の少女は切なく訴えていた。覚えず僕が彼女を一人の女性として見てきたように、彼女もまた、僕を一人の男として見ていたのだと。自覚無自覚の違いはあれど、想いの種類は同じだったのだと。
それにこの上もない喜びを感じる能天気な僕をしかりつけるように、いけない、と脳の片隅で激しく警鐘が鳴り響いた。このままにしておいては、僕共々この可憐な小鳥は罠へ堕ちる。翼をへし折られてからでは意味がない。諦めさせなければ。何としてでも。
「お兄様、一生のお願いです。私を連れ出して。連れ去ってください、あの鳥籠から……!」
喉が渇いてひりつく。やっとのことで、僕は押し殺したような声を絞り出すことに成功した。
「――駄目だ」
「どうして!?」
少女は絶望の悲鳴をあげる。すがるように腕を掴まれ、揺さぶられるままになりながら、僕は溢れそうに涙をためたエメラルドの瞳から目をそらした。
「……連れ出して、どこへ行く? 君のような箱入り娘が、両親の庇護下を離れて生活していけるわけがないだろう?」
「そんなことはありません! 私はお兄様と一緒なら、どこへ行ったって、どんな苦労をしたって、きっと耐え抜きます、だから……!」
――限界だった。僕の言い訳など彼女の前では全く紙切れ同然なのだ。僕自身、彼女の思い通りに彼女を連れ去り、僕たちを誰も知らない遠い地で一緒に暮らせたら、などと空想めいた考えが胸をよぎってしまう。それでも僕は彼女の想いに応えられない。応えるわけにはいかない。その痛みに神経が侵される。狂わされる。
しかし、僕の痛みなどよりはるかに、連れ出し、逃げだした後、彼女に待っているだろう不幸の方が、よほど深刻だった。どちらを取る? 今彼女の願いを聞き届け、後でもろともに、僕の父か、あるいは彼女の父親の張った罠へかかるか、今彼女の羽根を僕の手で傷つけ、僕のとらわれた罠から遠ざけるか。
答えは見えていた。始めから迷う要素も、猶予もなかった。
「……君は本気で……」
なおもすがるような眼で僕を見上げていた彼女を真っ向から見返し、僕は歪んだ声をあげた。
「――え……」
僕の声に小さく戸惑いの色を浮かべる少女。その瞳が悲しみで染まるであろうことにぎしりと胸が痛んだが、それを無視して言葉を継いだ。
「本気で、君のような小娘を愛していると思い込んでいたのかい、この僕が?」
「……おにい、さま?」
何を言っているのか、彼女にはうまく理解できないようだった。悪夢を見ているようなまなざしで、呆然と僕を見上げている。
僕の口は傷ついて血を流す胸とは逆に、勝手に動いて彼女を嘲弄した。
「父上からの命令でね、君から君のお父様の情報を聞き出せと、そう言われていたのさ。そんな命令でもなければ、誰が君なんかと話を合わせる気になるものか。無知で、能天気で、君の周りに群がってくる人間がみんなみんな君に好意を抱いていると思い込んでいる。――言っておくが僕は、君を愛おしいと思ったことなど一度もないよ」
「そんな――ひどい……ひどい……!」
僕がすがりついた腕を乱暴に振りほどくと、彼女はされるがままに手を離し、その場で顔を覆った。
その震える細い肩を見て、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。悲しみにくれる小さな体を腕の中に閉じ込めて、今のはすべて冗談だと許しを乞うことができればどれだけ楽になるだろう。だがそうするわけにはいかなかった。朽ちかけた鎖で家に縛られ動けなくなるのは僕だけでいい。彼女にはできうる限り幸福のまま笑っていてほしかった。
「だがどうやら僕よりも君のお父様の方が一枚上手だったようだね。まんまとしてやられたよ。君はせいぜい陛下の寵愛を受けて、僕のことを忘れてしまうといい。これで僕も清々するというものさ」
そう言い捨てて、僕は踵を返す。振り返りもせずに、言い添えた。
「さっさと帰るんだ。こんな場所にいたらせっかくの求婚もご破算になってしまうよ。――ああ、君はそれが望みだったね。今でもそれを望んでいるなら、望み通り攫ってあげようか?」
返事はなかった。ただすすり泣く声が余計に僕を追い詰めた。やりきれなくなって一歩踏み出そうとする。だが、その一歩が出なかった。
袖をつかむ細い指。悲しいほどに弱弱しい力だというのに、僕は動けなくなってしまう。振り返ることもできずにいる僕の背中に、涙にかすれた彼女の声がかかった。
「……構いません。お兄様に何と言われても……。だから、お願いです、捕まえて、連れ去って……」
もはやかけるべき言葉は見つからなかった。僕は僕の袖をつかむ彼女の指を無理やり振り払って、ようやく一歩を踏み出す。それからはもう、振り返ることをせずに無理やり前へ足を出すことに専念した。
彼女のすすり泣く声が、いつまでも耳に残った。
ある毒薬にまつわる物語2
アウアウ度合いがさらにひどくなっている気がします。ええと……先に宣言させてください。悲恋です(今さら)
ええと、固有名詞は伏せます。タイトルにある毒薬についても。ですがここで一応紹介させてください。
モチーフになってるのは、KAITOとミクのオリジナル曲、黒うさP様の作曲された「カンタレラ」です。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2393562
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