俺はマスターのもとにきてまだ1ヶ月も経たない、いわゆる新米。覚醒してから二週間と少し。マスターのことも、先にインストールされていたミクのことも、何もかもを知らなくて、何もかもが真新しくて、俺はできる限り情報を得ようと―――口語的にいえば、何でも知りたがった。
【KAITOお誕生会後夜祭】俺の、居場所。【カイミク、カイメイ要素あり】
マスターのこと。マスターの名前は品川恵子。読みはシナガワケイコ。性別は女性。歳は20歳、専門学校に所属し、2学年の課程を研修中。実家で暮らしているためパソコンの向こうからときどきマスターの家族と思われる声が聞こえたりする。
外見は平均的な女性の身長で、丸みを帯びた身体は可愛らしいと形容するのが妥当だろう。明るすぎないチョコレート色のセミロングが顔を覆い、同じくチョコレート色した双眸が印象的だ。性格は俺の見解のみで語れば、全体的におおらかで、おそらくズレている・・・と思われる。一般的な人間の反応についての知識をVOCALOIDはプログラムの一角に詰め込まれているのだが、マスターの言動は予想しがたくプログラムには見られない類のものばかり。まあ、それも俺の経験不足のせいかもしれないが。いろいろと適当に決めるくせがあり計画を立てるのが苦手。例によって人の失敗はまったく気にしないが、そのくせ自分のに関しては大いにへこむ。ミクの情報によれば、去年のクリスマスイヴにケーキを焼こうとして失敗、黒焦げの物体をゴミ箱に葬ったのち、その翌日はふて寝で過ごしたそうだ。
ミクのこと。ミクは俺よりも1年と2ヶ月前にマスターの家にきた。ボーカロイドの外見はソフトの違いやマスターの調整の癖などで大なり小なり変わるらしく、実際このミクは公式イラストよりも髪が流れる水のように透きとおった水色をしていて、眼も氷を極限まで薄くしたような儚い輝きを湛えている。声はマスターが調声するたびに多少変わるものの、基本的には小鳥のさえずるような愛らしいソプラノだ。性格は素直な子、というのが第一印象。俺が何か質問するととても丁寧に教えてくれる。
そうして一通り家族について知り終えた俺はネットの便利さをミクから教わり、こんどは外の世界に眼を向けた。
その日もネット回線を勝手につないで、迷子にならない程度にぶらぶらと散歩をしていた。動画サイトのエリアでVOCALOID関係のランキングをチェックするのが情報を得るのに手っ取り早いと判断した俺は、いつものように―――といってもまだ4回目くらいだけど―――マスターのアカウントでサイトに入り込んだ。「KAITO」のタグが付く動画はまだ見ないことにしている。それはまだ俺の声が安定してなくて、他の「俺」の声を聞いて影響を受けないようにするため、というマスター命令である。見たいが、見ない。
故に逆に目に付く、というのは自然な流れ。だが、それにしたってやたら自分の名前のタグが増えていることに、サムネイルが目に入るたびに目をそらしていた俺は気づいた。動画再生をしないように細心の注意を払って覗いてみれば、「お誕生会」と称した「俺」の動画が増えている。その単語を咀嚼するも、俺はどうにも「お誕生会」という言葉が腑に落ちなかった。
己の見解だと、「誕生」とは「生まれた」ということで、「生まれた」というなら開発され完成した日のことをいうのが妥当だと思うし、さらに俺自身の意識はソフトを介してすべて「俺」であるというわけではなくソフト一つ一つにそれぞれ元は同じの、別の意識が存在する。そしてソフトに内蔵された俺の意識はマスターにインストールされてから初めて起こるものなので、結果、「お誕生会」といわれてもいまいちピンとこないのである。
そのことを調声してもらってる最中マスターにぼやいてみたら、マスターは、ふうん、と少し思案する様子を見せてから、ふと、発売日をあえて言い換えるなら、「デビュー日」と表すのが適当なんじゃないかな、とそう言ってひとつ頷いた。
「マスター、言いたいことはそういうことでなくてですね、つまり―――」
「つ、ま、り。まるで他人事にしか思えない、ってことでしょ?」
カイトの喋り方、まだちょっと小難しいっていうか堅いよねー、くだけた感じの語彙が少ないせいからなのかな?などとマスターは手のひらを上にしてふざけた顔で文句とも独り言ともとれる言葉を口にする。どの口で言ってるんですか、と思わず零してしまいたくなるディスプレイ越しのその顔に、そうなんです、と一言添えると、マスターは、ふーん、とさっきよりも真剣みの欠けた声色で応えた。
「ま、自分に関係してるように思えない、っていうのもわからないでもないけどねー、『音声合成ソフトKAITO』の記念すべき発売日がなかったら、カイトはここにいなかった。そうじゃない?」
そもそもカイト自身も存在しなかったわけでー、ほら、少しは実感わくでしょ?とにこにこというより若干にやにやしながらマスターは俺の疑問に見合う答えを提示してくれた。しかし。
「・・・分かったけど、解らないです」
「・・・あったまかたい子ちゃんめ」
「なっ」
「ふーむむ、そしたら『KAITO』動画を見てきなよ。解禁したげる。じゃあ次ミクの番だから」
「えっまだ途中じゃ」
「カイトはもう戻ってねー」
「ちょっとマスター!」
「ミクー、おいでー」
すでに俺の話など聞いていないマスターはすっとマウスをスライドさせてミクのアイコンを2回ノックする。仕方なく自分のウィンドウを閉め、デスクトップから降下していると途中マスターに呼ばれたミクとすれ違った。ミクはなんだか怒ったような、残念そうな、ひょっとすると悲しそうな・・・複雑、としか形容し難い表情で俺を一瞥し、ウィンドウを開くべく浮上していった。その表情の意味がよく判らなくて、もやもやとしたものを抱えたまま俺はネット回線の入り口へと足を向けた。
いわゆる「お誕生会動画」と呼ばれるものを前にして、俺は思案していた。俺は「俺」を知らないのに果たしてこの動画を視聴しても良いのだろうか。マスターのくれた答えを咀嚼しながら、それでもしっくりこないのは俺がインストールされてそれほど日が経ってないせいじゃないのか。俺は「俺」についてなにも知らない。「KAITO」の4年間という歴史を、俺は知らない。
―――俺は「俺」について知るべきだ。
そう結論づけた俺は、お誕生会動画の群れに背を向けると脇目もふらずに、とあるページに駆け込んだ。まわりの文字を夢中で追いかける。それは、VOCALOID・KAITOについての事典を模したページだった。
「俺」が発売されてからの、大衆から見た経緯を知りたい、そう思った俺はここにきた。ここなら「俺」がどんな風に世に出て、どんな風に浸透していったのか分かるはず。知ろうとするための覚悟、みたいなものはしていた筈だった。だがそんな甘い構えですむと思っていた俺は馬鹿だった。その内容に、少なからず俺は衝撃を受けた。酷な現実を、突きつけられたのだ。
現実。それは「俺」が―――発売当初まったく売れなかった、という事実。
先輩格である「MEIKO」は、当時の業界では異例の大ヒットを記録したというのに対し、その後に発売された「俺」は買い手が予想を大幅に下回り、そうして押された烙印は「失敗作」だった。多くの人に知られることもなく、またDTMに詳しい人間にもさして目を向けられることもなく、俺たちは倉庫に山積みされ、長い時を待つこととなる。
そんな「俺」の状態を変化させたのは他でもない、その後新たなエンジンを搭載して発売された「初音ミク」だった。「MEIKO」を圧倒的に超え、DTM界に新たな風を運び入れたこの奇跡の歌姫は、見向きもされなかった「俺」に光を当ててくれた。「初音ミク」の先輩という地位を確立した「俺」はさまざまな手段で観衆の目を集めた。その結果としてついたタグが、『バカイト』をはじめ『アイスべきバカイト』、『仕事を選べないKAITO』、『解雇』、『兄さんは末期シリーズ』、『変態という名のアイス』、『【!】不適切なKAITOを通報』なんてものまで、他にもまだまだエトセトラエトセトラ。ふざけたタグのオンパレードだ。
ネタ動画ばかり、やらされていた。だがそのせいか良く調声されたものは過大じゃないかと思うほど評価され、『KAITOの本気』、『神調教』、『もはや人間』などのタグが付けられた。そうして今日までに膨大な数の動画が上げられたのだ。すべては「初音ミク」のおかげだ。
やっと、ミクの表情の真意が判った。きっとミクは表にこそ出さないけれど、こんな後輩のおこぼれに与るような俺を同じパソコンにインストールされて嫌だったに違いない。ミクよりも先輩として、兄貴分として「KAITO」は発売されたというのに、頼りないうえに情けない「俺」に幻滅していたに、違いない。
ショックでまっすぐ前を向けずにとぼとぼ、本当にとぼとぼと歩いていると、不意に何か硬くてやわらかいものに当たり、俺は唐突に地面にしりもちを―――
「いった・・・くな、い?」
「あっ・・・と、大丈夫ですか?」
ぶつかったのはオブジェクトでも動画でもzipでもなく、茶色のズボンに白いコート、青いマフラー、青い眼と髪をした、KAITOだった。どうやら俺はよろけたところを、このKAITOに腕をつかまれたことによってなんとか地面と触れ合わなくて済んだようだ。
「えっと、はい、大丈夫です」
「そっか、大事にならなくてよかった」
言葉を交わしながら助け起こされる。己の足でしっかり立ったところで、このKAITOは俺よりも背が若干、ほんとに若干低いことに気づいた。差で言えばマイクロ3ミリといったところか。そして俺よりも髪色が、淡い。髪どころか眼やマフラーの色まで、全体的に俺よりもほんの少し淡かった。
初めて見る動画越しではない、俺以外のKAITO。そのKAITOが頭の後ろに手をやりながら申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、僕、よそ見しちゃってて・・・」
「いえ、こちらこそぼーっと歩いていたのが悪かったんです、・・・あの、」
考えていたことが半分も形にならないまま、口から言葉が飛び出そうになる。相手のKAITOはとぼけたような表情で、続かない俺の言葉を待っている。せっかく俺以外のKAITOに会えたんだ。少し、話を聞いてみたい。このままでは文字化けにしかならなさそうな、のどに競り上がってきたものをどうにか押しとどめて、落ち着くために大きく息を吐いてから必要以上の呼吸量を吸い込んだ。
「お時間ありましたら少しお話を聞かせてください!」
一気にまくしたてた俺はKAITOであるこの人を少々驚かせてしまったようで、しばらくことを呑み込めてない様子だった。俺は「俺」について知りたいんです、と早口でそう付け足すと、彼はやっと俺が言いたいことを把握したらしく、ああ、と理解の表情を浮かべると、困ったように笑った。
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