今日もリンは議会に出席となっていた。いつもは勝手になんでも決める大人たちがリンを呼ぶのだから事態は深刻だ。リンがそこにいることで、リンにできることなんてきっとひとつもないのだ。無力な僕らは一体何のために存在しているのだろう。
その日の昼にはリンからチェレステへの支援要請が決まったと報告を受けた。受けてもらえるのかはわからない。水を運ぶ方法もまだ何も見えていない。それでもとりあえず打診をしてみようということになった。リンは僕のおかげだと言った。議員の誰も考えなかったことを、僕が教えてくれた、と。まだいつもの幸せな笑顔ではなかったけれど、少し微笑んでいて、僕は安心した。そして、やっぱり伝えなかったけれど、ミクのおかげだと思った。僕が思いついたのではない。ミクが教えてくれたのだ。後で感謝の気持ちを手紙を書こうと思った。
リンはチェレステに訪問することになった。手紙では効率が悪い上、緊急事態とあって、大臣と共に直接話しに行くことになったのだ。
緊張した面持ちのリンだったが、こんなに早くカイト王子に再開できると思っていなかったのだろう。嬉しさは隠せないようだった。僕はリンの持っていく荷物の荷造りをしながら、どうかこの話が上手くいくように、と願った。
リンが出発してからミクに手紙を書いた。ミクのおかげで動き始めたこと、リンはカイト王子に会えるので喜んでいたこと。不安だけれど、僕にはやらなければならないことがある。母との約束を守ること。それはこの国を守ることと同義なのかもしれない。
すぐに全てが上手く行くなんて、思っていなかったけれど、期待はしてしまうものだ。それがこんな風にダメになっていくなんて、思ってもいなかった。
数日後、帰国したリンにひとつも笑顔を見つけられず、僕はショックを受けた。一体何があったのだろう。援助の話は上手くいかなかったのか。ミクの手紙の返事が来ていたけれど、リンのことを優先して開けていなかった。
夕食が終わり、誰もリンの側にいないことを確認してからリンの部屋に行った。
「リン、どうしたの?」
「…ごめんね、レン。水の援助は無理みたい。」
「そっか。わかった。…それだけじゃないよね?」
「…カイト王子…、ヴェルデッツァの貴族の娘が好きみたい。」
「…え。」
「あたし、失恋しちゃった…。もう、結婚するって話になってるみたい。」
ヴェルデッツァの貴族の娘、と聞いて、僕はミクのことしか思い浮かばなかった。避けられない、受け入れがたいこと。ミクの沈んだ笑顔。カイト王子との縁談のことではないのか?
その話にショックを受けたのは僕も同じだった。なぜ、こんな沈んだ気持ちになるんだろう。リンが失恋したから?ミクが好きではない人と結婚しないといけないから?もやもやと広がる闇に飲み込まれていくような気持ちだった。
「…そっか。」
「大臣が慰めてくれたけど、ちっとも嬉しくなかった。クローチェオはお金がないから仕方ないって言うのよ。」
「それが失恋の理由なの?」
「ヴェルデッツァの貴族はお金持ちだから、だから結婚するんだって。でもあたしにはカイト王子は本当にその人が好きなんじゃないかなって思う…。」
リンの目から涙がこぼれていた。苦しい、痛い気持ちが伝わって、僕も目頭が熱くなる。
「政略結婚…。」
「…あたし、もうヤダよ…。水がないのも、お金がないのも、リンのせいじゃないのに!」
「…リン。」
「大臣だって言ったもん。悪いのはヴェルデッツァだって。ヴェルデッツァなんて、無くなっちゃえばいいのに…!」
共有していた気持ちがさっと引いて、一瞬にして気持ちが冷めた。リンの言葉にぞっとする日が来るなんて。
「…リン。それ、誰かに言った?」
「…え。大臣に言ったけど…」
子どもの戯れ言だと、流してくれるだろうか。女王の言葉として、受け取らずにいてくれるだろうか。
僕は恐ろしい予感を拭い去ることができなかった。
部屋に戻るとミクの手紙が目に入った。とても見る気になれなかったけれど、真実を知らなければ、と封を開けた。そこに決定的な事実として、カイト王子との結婚の件が書かれていた。
この前はまだ確定事項ではなかったので話せなかった、話したら本当になってしまいそうで、話したくなかった、とも。僕はベッドに身を投げ出した。手からはらりと手紙が落ちる。全てが泥沼の中に沈んでいく。絡め取られて、うまく身動きができない。息も、できない。
リンは帰国後も毎日議会へ出席していた。日々、なんの進展もないまま過ぎているかのように見えた。その間にリンのドレスの仮縫いが終わり、確認のためヴェルデッツァの店の主人がやってきた。リンはイエローのドレスを切ない顔で眺め、作った笑顔で僕にありがとうと言った。
数日後、城内はにわかにざわめいていた。尋常ではない空気。一体何があったのだろう。心配しても、僕の情報源は限られている。いつも、知るのは一番最後なのだ。上が決めたことを忠実にこなすことだけを求められる、ただの召し使い。僕は今になってやっと、この立場を苦々しく思っていた。
夜になって、リンの部屋に行くと、人形のように生気をなくしたリンがベッドに座っていた。月は欠け始め、明かりは乏しい。そんな中、電気もつけずにリンは佇んでいた。
「リン、大丈夫?なにが起こってるの?」
「…レンには話せない。」
僕は耳を疑った。未だかつて、リンがそんな風に僕を撥ね付けたことなどなかったから。
「…どうして?」
「言ったら、きっとレンは怒るよ。」
「なに…」
「ねぇ、レン。最近、誰と手紙のやりとりをしてるの?」
僕の言葉を遮るようにリンは強く言い放った。射るような目。冷たい声。
「…なんの情報交換をしてるの?」
僕は瞬間理解した。疑われている。
「ミクさんとは、水不足の問題を一緒に考えて…」
「どうしてヴェルデッツァの貴族の娘と?」
僕はたじろぎ、リンは目を逸らさなかった。
「偶然会ったんだ。とても見識が広く、チェレステへの支援要請も彼女が…!」
「その女がカイト王子の婚約者と知ってて?うちへの支援は無理とわかってて?笑ってたの?バカにしてたの?もうレンなんか信じられないよ!」
「…リン!」
「出てって!出てってよ!」
リンの叫びは夜の空気に反響した。僕は言葉を続けようとしたけれど、今のリンに何を言っても届く気がしなかった。
「…リン。大臣がなんて言ったか知らないけど、僕がリンを裏切ることなんて絶対にないよ。」
それだけ言って、僕は部屋を出るつもりだった。
「…じゃあ、殺してきてよ。」
背中に投げられた言葉に僕は動けなかった。
「…え。」
「レンがあの女を殺してきてよ。裏切ってないなら、その証拠に。」
空耳ではなかった。リンの口から人を殺めよというような言葉が出るなんて。
「リン…なんてこと言うんだ。」
「あたしは本気よ。もう一度レンを信じさせてよ。」
「そんなことをしないと、僕らの13年は戻らないと言うの?」
「そうよ、レ…」
「いい加減にしろよ!リンはそんなこと言うヤツじゃなかった!」
リンは僕の怒号に一瞬ひるんだ。けれど笑って言った。
「そう…残念。でもレンが行かなくてもあの女は死ぬの。」
「え…。」
「自分で殺して汚名を晴らすのと、なにもせずにただあの女が死ぬのとどっちがいい?」
それは、暗殺、ということだろうか。この国が昔から何度も繰り返してきたこと。僕らの両親を亡くした理由。それをリンがやろうと言うのか。
「リン…!すぐ止めるんだ。」
「もう無理よ。明日から戦いが始まるの。あたしたちが生き残るために戦う必要があるの。その中で誰が死ぬかなんて運みたいなものでしょう?」
すべての事態は明らかになった。城内が騒がしかったのは戦争が決まったからだ。ミクの住むヴェルデッツァに僕の国が攻め入る。水の独占への制裁を大義名分とするのだろう。そしてその渦中でミクを暗殺。なんて最悪なシナリオ。
僕は目の前に立つ僕の半身があまりに遠く、知らない存在のように思えた。僕らの道は一体どこから逸れてしまったのだろうか。一緒に歩んでいたと思っていたのに。
僕の怒りは急速に冷え、静かにわかり始める。今できること、もうできないこと。
「リン。それはもう止められないの?」
「そうよ。あたしたちが生きるために戦いは避けられない。もうサインしてしまった。あとは軍がやるわ。」
この戦争はもはやリンの手を離れた。リンのサインなど、形式に過ぎない。もともと、そうするつもりだったのかも知れない。軍が動き始めたなら撤回は難しい。リンがなんと言っても大臣が受け入れないだろう。
僕は、決断をしなければ。
「わかったよ。リン。それならミクさんは僕がこの手で殺すから、暗殺は止めてくれ。」
「…レン、ホントにいいの?レンは断ると思ってた。断るなら幽閉するつもりだったけど。」
リンはいぶかしげに問うておきながら、無邪気に言った。僕は静かに、でも目を逸らさず言う。
「リンが僕をもう一度信じるために必要だと言うなら仕方ない。」
「レン…」
一つ、深呼吸をしてから口にする。
「リンのためなら、僕は悪にだってなるんだよ。」
リンは覚えていないのだろうか。ほんの2年程前にミクに会っていることを。遊んでもらったことを。それを忘れてしまう程、女王という日々は大変なものだったのか。
僕はミクの元に向かうために準備を進めていた。必要なものをいつものバッグに放り込んで、裏口へ出る。
「レン。」
見上げると裏側に面した2階の窓からリンがこちらを見ていた。
「気をつけてね。行ってらっしゃい。」
無邪気に笑ってそう言った。リンは僕がどこへ行く時もそうやって見送った。今日も同じように。まるでただのお使いのように。
あれだけ共有して嫌だった気持ちは、今は何一つ繋がっているように感じなかった。リンが考えたり感じたりしていることが、なにもしなくてもわかっていたのが不思議なくらいだ。キリキリと、僕の心臓が軋む音を立てていた。
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