その次の日、夫は遠出する必要があるとかで、朝早く起きてきた。そしてあわただしく朝食を食べると、ルカを連れて出かけてしまった。その前に、リンを今日と明日は外出禁止にしたので外へ出すなとだけは言っていったが。……そういうことだけは、いつも忘れない。娘の誕生日を憶えているかどうかすら、怪しいのに。
 普段どおりの時間に、リンが朝食を取りに食堂に入ってきた。昨日とは服が変わっているし、石鹸の香りがするところをみると、シャワーを浴びて新しい服を着たのだろう。
 昨日のことがあるのか、リンは表情が暗かった。私としても、どうにかしてやりたいとは思うのだが……一体どうしたらいいのだろうか。
 私はリンに、怪我をしてないかどうか訊いてみたが、それはなかった。夫は怒鳴り散らしたり物を捨てたりはするが、基本的に、手をあげることはしない。
 夫は出かけていていないと言うと、リンは目にみえてリラックスした表情になった。だがその一方で、どうも何かが気になるようで「今日どこかに出かける予定とかあった?」と訊いてきた。私が聞いていないというと、更に悩み始めた。……どうしたのだろうか。
 リンは悩みながら食事を終えると、自分の部屋に戻ってしまった。私は一人の食堂で、しばし物思いに沈んだ。今日の食事とおやつはどうしようか。今日はリンは家にいるわけだし、何か好物でも作ってあげよう。リンの好みはわかっている。……一方で、ルカの好みはわからない。出したものは好き嫌いなくなんでも食べてくれるのだが、食べる時の表情や態度がいつも変わらないので、結局、何が好きで何が嫌いなのかがわからないのだ。ハクはあの調子だし、引きこもってからは家族と一緒に食事をしたことがない。深夜に冷蔵庫を漁っているようなので、いつも食べられるものを入れておくようにはしているのだが。
 ……こんなことだから、いけないのだろう。
 私はキッチンに向かった。お手伝いさんが洗い物をしている。
「奥様、何か御用ですか?」
「お菓子を焼こうと思うの。だからそれが終わったら、掃除の方に取り掛かってちょうだい」
「かしこまりました」
 冷蔵庫を開けると、中を見た。基本的な材料はいつも揃えてある。何を作ろうか。どうせなら気分が浮き立つようなものを作ってあげたい。
 色々考えた末、私はサントノーレを作ることにした。華やかで豪華で、見た目からして特別な感じがするお菓子だ。当然リンも好きなのだが、手間がかかりすぎるので、さすがに年に一度ぐらいしか作ってやれない。とはいえ、基本的なお菓子の集合体なので、特別な材料は必要ない。
 決まったのでさっさと取り掛かることにする。手早くやってしまえばおやつの時間には間に合うだろう。必要なのはスポンジケーキ(一般的なレシピではビスケット生地を使うが、私は好みでスポンジを使っている。それに、スポンジの方が短時間で作れるのだ)シュークリーム、カスタード、泡立てた生クリーム、キャラメルだ。
 スポンジケーキを焼いて、カスタードを作る。その次はシュークリームだ。シューをオーブンから取り出したところで、私は、十二時を回っていることに気がついた。いけない、昼食の時間だ。私はキッチンを出て、リンの部屋に向かった。
「リン、今日のお昼は何が食べたい? お母さんはパスタにしようかなと思っているんだけど」
 ドアを叩きながら、そう声をかける。だが返事が無い。……寝ているのだろうか。
「……リン? 入るわよ?」
 一応そう声をかけて、私はリンの部屋のドアを開けた。だが、部屋はもぬけの空だった。
「リン?」
 私は廊下に出て、声を張り上げた。お手洗いなり洗面所なり学習室なり、家のどこか他の部屋にいるのかもしれない、と思って。だが返事は返って来ない。私は段々怖くなってきた。廊下を歩き回って、リンの名を呼ぶ。だがやはり返事が無い。
「奥様、どうかなさったのですか?」
 異常な気配を察したのか、お手伝いさんが飛んできた。
「リンを見なかった?」
「リンお嬢様ですか? いいえ、お見かけしていませんが」
 お手伝いさんが、困惑した表情で首を横に振る。まさか……。
「いると思ったのに……部屋にいないの」
 お手伝いさんが深刻そうな表情になる。そして、駆け出して行った。私はふらふらと階下に下り、居間のソファに座り込んだ。昨日の夫の説教は、いつもより長かった。そして、リンは何かを気にしていた。まさか……。
 悩んでいると、お手伝いさんが戻って来た。申し訳無さそうな表情をしている。
「奥様、家を隅から隅まで見て回りました――といっても、ハクお嬢様の部屋は別ですが――が、リンお嬢様はどこにもいらっしゃいません」
「……どこへ行ったというの」
 私は、ぼんやりとそう口にした。リンは外出する時、常に私にどこに行くのか告げて出かけて行く。リンが何も言わずに外に出るはずないのだ。
「奥様……」
 お手伝いさんが、心配そうな声をあげる。私は、リンの行きそうな場所を必死で考えてみた。だがリンの親しい友達といえばミクちゃんぐらいだし、ミクちゃんの家は距離があるから歩いて行くのは無理だ。リンが電車やバスを使うとは思えないし……。
 念の為に初音さんのところに電話もかけてみたが、見事に空振りだった。私は適当な世間話でお茶を濁して、電話を切った。


「あの……奥様、何か食べた方が」
 お手伝いさんが、遠慮がちに声をかけてきた。時計を見る……二時だ。ああ、私はずっとここに座っていたのか。
「……リンは?」
「お戻りにはなっておられません」
 どこへ行ってしまったのだろう。家出してしまったのだろうか……それならまだいい。頭が冷えれば戻って来るかもしれないし、少なくとも生きてはいるのだから。だがもし思いつめすぎて、線路にでも飛び込んでしまったら……。
 私は首を横に振り、悪い想像を追い払った。最悪のことばかり考えていては駄目だ。
「奥様、なんでしたら警察に……」
「まだいなくなって数時間だし、リンはもう高校生よ。取り合ってはもらえないわ。事故にでもあったのなら、その時は向こうから連絡が来るでしょうし……」
 便りが無いのはいい便り。自分で自分にそう言い聞かせる。リンはきっと、戻って来る。
「……奥様、言いづらいのですが」
「何?」
「キッチンがあのままになっていますが……」
 ああそうだった。リンに作ってあげようと思っていたケーキが途中だったっけ。あの子がいないのに、ケーキを焼いてどうなるの?
 だが、私は立ち上がって、キッチンに向かった。調理台の上は、私がリンの部屋の様子を見に行った時のままだ。幸い、ラップがかかっているので乾燥はしていない。一度中断して、昼食の準備を始める予定だったからだ。……助かった。
 私は、作業の続きに取り掛かった。生クリームを泡立てて、一部をカスタードと混ぜる。生クリームを加えたカスタードをシューに詰め、生クリームを塗ったケーキの上にシューを飾る。後はキャラメルだ……焦がしすぎないようにしないと。リンは蜂蜜色のキャラメルが好きだから。
 やがてサントノーレは完成した。いつもと比べると、少し歪んでいるかもしれないけれど……でも、サントノーレはサントノーレだ。私は完成したサントノーレにケーキカバーをかけると、冷蔵庫に入れた。……これで、いつリンが帰って来ても出してあげられる。


 私はキッチンの椅子にかけて、ぼんやりとしていた。そろそろ四時になるから、夕食の支度を始めなくてはならない。もちろん、頼めばお手伝いさんがやってくれるのだが……。基本的にはどんな家事でも、私がやる必要はない。私も嫁いで以来、掃除や洗濯は任せきりにしている。だが料理だけは、なるべく自分が采配を振るうようにしてきた。もともと料理が得意だったこともあるが、娘たちに「どうやって作るのか」を説明できないものは食べさせたくなかったのだ。
 今日の食事、何がいいだろうか……。空が大分暗くなってきた。完全に日が暮れても戻らなかったら、やはり警察に連絡して……そう思った時だった。お手伝いさんが凄い勢いでキッチンに駆け込んできた。
「奥様! リンお嬢様がお戻りになられましたよ!」
 私は弾かれたように立ち上がると、キッチンから飛び出して玄関ホールに向かった。ホールでは、リンが所在無さげに佇んでいる。良かった、無事だったのだ。
「リン!」
 リンがびっくりした表情でこっちを見る。……どれだけ心配したと思っているのだろうか。リンの許へと駆け寄った私は、思わずリンの頬を叩いてしまった。
「一体どこに行っていたの!? 部屋にいないからものすごく心配したのよ!?」
 リンの細い両肩をつかむと、私は半泣きになりながらそう尋ねた。
「もしかしたら、最悪の事態になったかもって……」
 そんなことにならなくて本当に良かった。
「……ごめんなさい」
 瞳を伏せ、リンが謝る。
「謝るのはいいから、どこに行っていたのか言ってちょうだい」
「……柳影公園」
 私ははっとなった。柳影公園は、リンがまだ小さかった頃、よく連れて行った場所だ。車で送ってもらい、リンと二人で公園を散歩して、花を眺めたり鳥を眺めたり、ベンチに座って話をしたりしたものだった。
 そして……リンと二人だったのは、ルカとハクは誘ってもついて来なかったからだった。小学校高学年になる頃には、ルカは「勉強があるから、散歩は行けない」の一点張りだったし、ハクは部屋に閉じこもって一歩も動こうとしなかった。リンだけを特別扱いすべきではなかったのだろうが、「外に行きたい」とせがむリンには勝てなかった。
「その……家にいると、息が詰まるような気がして。新鮮な空気が吸いたかったの。連絡すればよかったんだろうけど、携帯を家に置いて来ちゃって……」
 リンの言葉は、私の胸に突き刺さった。……今のこの家の状態では、息が詰まるような気持ちにもなるだろう。
 私は唇を軽く噛んで泣きたい気持ちを押し殺した。私が、リンの前で泣くわけにはいかない。
「……リン、もう二度と、お母さんに何も言わずに家を出たりしないで。出かける時は、必ずどこに行くのか言ってちょうだい。いいわね?」
「う、うん……そうする。出かける時は、お母さんにちゃんと出かけるって言うから」
 噛んでふくめるように言うと、リンは頷いた。少しほっとする。一方、リンはやや困った表情で、こう切り出そうとした。
「あの……お母さん、お父さんは」
「お父さんには言わなくていいわ。昨日の今日だし……。お手伝いさんたちには、お母さんから口止めしておくから。リンは心配しなくていいのよ」
「……ありがとう」
 私は自分だけの独断で、このことは夫には話さないことに決めた。幸い、夫の帰宅の前にリンは戻ってきたし……。リンが言いつけを破ったと知ったら、夫は例によってひどく怒るだろう。……何をするかわからない。黙っておいた方がいい。
 リンは目に見えて安堵した表情になった。ああこの子は父親が怖いのだと改めて思う。
 戻ってきたことだし、おやつの時間にしよう。……柳影公園まではかなり距離がある。あの距離を往復したのなら、お腹が空いているはずだ。
「リン、おやつを用意してあげるから、手を洗ってらっしゃい」
 私がそう言うと、リンはすまなそうな表情になった。
「あの……お母さん、いいの? わたし、言いつけを破ったのに」
「いいのよ。おやつのことはお母さんの担当だから」
 夫がおやつのことを気にしたことはない。……いつだってそうだ。リンは納得したようで、手を洗いに行った。私はキッチンに行ってサントノーレとお茶道具を用意し、ワゴンに乗せて――クッキーのようなものならお盆で済ませるが、こういう時にはワゴンの方がいい――居間へと向かった。
 サントノーレを見たリンは驚いたようだった。私はサントノーレを切り分けて取り皿に乗せ、紅茶を淹れたカップと一緒にリンの前に置いた。
「いいから食べなさい」
 リンはすまなそうな表情だったが、サントノーレを食べ始めた。……ケーキを食べているうちに、段々表情が和らいでくる。甘い物を前にして、人間はいつまでもそう悲壮感に浸ってはいられない。
 サントノーレを食べ終えたリンは、明日キッチンを使ってクッキーを焼いてもいいかと訊いてきた。私がいつもお菓子を焼いていたせいか、リンは少し大きくなると、私の手伝いをしたがるようになり、小学校の高学年になる頃には、自分でもクッキーやケーキを焼くようになっていた。だが、高校に進学した頃から、その手のことをめっきりとやらなくなってしまっていた。
 リンの様子が以前よりも少しだけとはいえ、明るくなったことに安堵した私は、キッチンを使いたいというリンの頼みを承諾した。……何かを作りたがるということは、いいことのはずだから。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その十一【ほんの少しの優しさを】後編

 実際にはリンは十五を過ぎているので、離婚したとしてもカエさんが連れて行くのは可能なのですが(十五を過ぎると子供の意思を反映してもらえるようになるため)カエさんは法律には詳しくないためその辺りを知りません。
 まあそれに……リンだけ連れて出て行くわけにもいかないんですよね、この場合……。

閲覧数:925

投稿日:2011/12/06 19:43:55

文字数:5,284文字

カテゴリ:小説

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  • 苺ころね

    苺ころね

    ご意見・ご感想

    読んでますよ~

    ルカがちゃんと直ってくれればいいのですが・・・
    このままでは悲しすぎます・・・

    前から気になっていたのですが、
    失礼かもしれませんが目白皐月さんってどこか高貴な家の方ですか?

    サントノーレなんて聞いたこともありませんでしたし、
    「コンアトロー」とか「グランマルニエ」なんて聞いたことも・・・

    気に障ったらすみません

    2011/12/07 00:08:24

    • 目白皐月

      目白皐月

       納豆御飯さん、こんにちは。メッセージありがとうございます。

       ルカの役割はもともと補助線的なものとしてと考えていたので、実を言うと終着点は決めていません。
       まあ確かにこのまま結婚すると、子供ができた時に今までの負荷が全部表に出てきて、育児ノイローゼになって子供を虐待するか、あるいは「完璧な家庭」を追及しすぎて子供を潰してしまうかのどっちかだろうなあとは思うのですが……あんまりそういう話を書きたい気分にはなれませんし……。

       あ、後、私は別にそんなハイソサエティの出身ではありません。いわゆる「ミドルクラス」です。
       この作品に登場するお菓子の設定が細かいのは、単に私がお菓子焼くのが趣味だからです。カエさんはレシピ本を出せるクラスの人という設定なので、持っている知識は遠慮せずにどんどん投入しています。キャラクターの厚みを表現するやり方の一種なんですよ。

      2011/12/07 00:24:09

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