「で、何で私も手伝わなきゃいけないんですか?」

海斗が教室を脱走してから数分後、流架は楽歩に連れられ中庭を歩いていた。
左右を高等部と中等部の校舎に挟まれたこの中庭は、学校の名物と言っても過言では無い程美しい。中央にある噴水を囲むように設えられた花壇には色とりどりの花が植えられ、綺麗に整備された芝生の上には大きな樹木も生い茂っている。
その樹木の傍で急に足を止めた楽歩は、きょろきょろと辺りを見回しつつ流架の質問に答えた。

「急いで海斗殿に芽衣子殿の心意を伝えねばならん。流架殿も、海斗殿探しに協力してくれ」
「ほっとけばいいじゃないですか」

幾ら突き放されようが、酷い事言われようが、どうせけろりと忘れて直ぐに芽衣子に近寄って来るに違いない。先程、鼓膜に深刻なダメージを受けた為か、流架の中での海斗の好感度は急激に下がっていた。

「海斗殿はああ見えてうたれ弱いから、心配だ…」
「見れば分かります」

いつもへらへら笑いながらアイスを貪るあの男子から、実は百戦錬磨の屈強で強い男なんです、なんてそんなイメージが抱ける筈が無い。
寧ろ、逆だ。

「大体、海斗さんが勝手に勘違いして騒いで私達にも迷惑かけたんですから…」

流架がえんりょもへったくれも無い口調で、海斗に対する文句を並べようとした時だった。

何の前触れも無く流架の唇に宛がわれた楽歩の大きな手が、その言葉の続きを奪った。


「んっ!?」

動揺に、鼓動が一際大きく跳ねる。驚いて視線を上にやると、楽歩が自分の唇の前で人差し指を真っ直ぐ立てていた。流架が静かになったのを確認してからその口を塞いでいた手を離し、楽歩は流架の背後をちょいちょいと指差す。

「?」

訝しげにそちらに目をやった流架は、楽歩が自分の口に手を当てた意図を理解した。




* * *

背中を押す感情に任せて、僕はがむしゃらに走っていた。このまま全速力で走れば、教室まで後一分くらいで着くだろう。



早く、早くめーちゃんに伝えないと!



焦燥ばかりが胸に募る。今、この事実を知っているのは僕だけだ。そして今、めーちゃんを護れるのも僕だけなんだ。
ぐっと歯を食いしばり、走る速度を速める。
その時、猛スピードで走っていた僕の視界の隅を、見間違いようの無い茶髪の彼女が横切った。

「!」

慌てて足を止め、乱れた呼吸もそのままにして首をそちらに巡らす。中庭を分断するように敷かれた、高等部と中等部を繋ぐ屋根付き廊下の隅に設置された自販機の前に屈み込む彼女を見た途端、呼吸と同様に心臓まで大きく跳ねた。

「めーちゃん!」

気づけば、口が勝手に彼女の名を呼んでいた。
めーちゃんは紙パックを片手にゆっくりと腰を上げ、僕に視線を合わせる。

「海斗…?」

その眉間に、ぎゅっと皺が寄る。それだけなのに、胸がズキンと痛んだ。心臓をぎゅううっと握られたみたいに苦しくて、息がつっかえる。言わなきゃいけないのに、清輝先生は危ないって伝えなきゃいけないのに、声が出てこない。



言ったら、もっとめーちゃんに嫌われる。



その確信が足に鎖のように絡みつき、僕はその場から動けずにいた。

「何よ海斗?」

名前を呼ぶだけ呼んで黙りこくった僕を不審に思ったのか、めーちゃんはてくてくと近づいて来た。僕の目の前でぴたりと足を止めると、探るような目で僕を見上げる。濁りの無い澄んだ瞳に、心が見透かされそうだ。
鼓動が、耳鳴りのようにうるさい。汗で、手の平の中がべとべとする。僕は時間をかけて少しずつ空気を吸い込むと、震える声で言葉を紡いだ。

「め…めーちゃん…あの…」

地面に視線を向けながら、ぎゅっとズボンを握りしめる。何かを握りしめていないと、足が勝手に逃げ出してしまいそうだ。

「き…清輝先生にはち…近寄らない方が良いよ…」




言えた!



その台詞を言った途端、喉に詰まった魚の骨が取れたみたいな安堵と爽快感が、僕を束縛したいた焦燥と恐怖を弾き飛ばしてくれた。ほっと肩の力を抜き、僕は漸く視線をめーちゃんに向ける。

「…またその話? いい加減にしてよ海斗」

明るい感情が優勢に立ったのは、ほんの一瞬だけだった。たちまち緊張に体が強張り、嫌な汗がどっと噴き出してくる。

「勘違いもいいとこよ。清輝先生とあたしは別に特別な関係でもなんでもないし、清輝先生は生徒に手を出すようなふしだらな先生じゃないわ」

違う…僕の言いたい事が、言わなきゃいけない事が、伝わっていない。

「違うよめーちゃん! 清輝先生は危険なんだって! このままじゃめーちゃんは…」
「何がどう危険なのよ? 偏見で人の事悪く言うのは最低よ」

めーちゃんの目が、段々細くなっていく。

めーちゃんの事を思って言ってるのに、何で聞いてくれないの? 何で清輝先生の味方ばっかするの?

悲しさと悔しさに、じわりと視界が滲む。

「めーちゃんの馬鹿! 僕の話、ちゃんと聞いてよ!」
「誰が馬鹿ですって!?」

ああ、やってしまった。あんな事言ったら、めーちゃんは一層僕の話を聞いてくれなくなるじゃないか。
涙のカーテンの向こうで、怒りに眦をつり上げためーちゃんは、内心で頭を抱える僕の胸倉を掴んでぐいっと引き寄せた。

「元はと言えば、海斗が変な誤解をしたのがいけないんでしょ!? なのに、先生を悪く言うとかお門違いだわ!」
「だって、僕聞いたんだよ! 清輝先生が『咲音さんって良い体してますよね』って言ったの!」
「あんたこそあたしの話を聞きなさい! 勘違いだって言ってるでしょ!?」

駄目だ。喧嘩に発展してしまっては、もうどうしようもない。制御の効かなくなった口から、言葉が勝手に飛び出していく。

「僕はめーちゃんが先生に変な事されないか心配して言ってるんだよ!?」
「だーかーらー! 違うって言ってるじゃない!」
「まず静かに僕の話を聞いてってば!」
「その前にあたしの話を聞きなさい! アレは兄貴の…」




その言葉ごと、僕は薄いピンク色の唇を自分の唇で覆い隠した。



その時の僕は怒りに支配され、何も考えていなかった。只、めーちゃんに話を聞いて欲しい。僕の思いを分かって欲しい。その一心だった。

「っ!?」

めーちゃんが一瞬で石のように硬直し、僕の胸倉を締め上げていた手の力が緩む。



めーちゃん、あのね…



と話そうとしたけど、めーちゃんの口を覆ったままじゃ自分も喋れない事に思い至り、柔らかな温もりから唇を離す。そして、目玉が零れ落ちそうなくらい目を見開くめーちゃんの両肩に手を置くと、僕は彼女より先に口を開いた。

「めーちゃん、あのね…確かに僕にはめーちゃん程の力は無いけど、僕だってめーちゃんを護りたいんだ。めーちゃんに幸せでいて欲しい…ずっと笑っていて欲しいと思ってるんだ。だから…」

そこで一旦止めて、僕は急にうんともすんとも言わなくなっためーちゃんの顔色を伺う。
めーちゃんは薄く開いた唇をわなわなと震わせ、真ん丸と目を見開いたまま、穴が空くんじゃないかってくらい僕の顔を凝視していた。

「めーちゃん…?」

電池が切れたロボットみたいに動かなくなっためーちゃんが流石に心配になり、顔の前で手を振ってみる。いつもは白くて綺麗なその顔が、段々と酸性の液体を垂らしたリトマス紙みたいに真っ赤に染まっていく。

「か…いと…」

暫くしてから、めーちゃんは絞り出すように声を出した。

「な…なに…?」
「あんた…何したか…分かってんの…?」
「へ?」

思わず、間抜けな声が漏れてしまった。

「何って…」

めーちゃんに指摘され、僕はそう昔の事では無い記憶を辿っていく。

えっと…僕は清輝先生は危険って言いたくてめーちゃんを探してて、見つけたけど全然話を聞いてくれないから…

そこまで思い出し、もう一度真っ赤になっためーちゃんの顔を見る。

「聞いてくれないから…くれないから…えっと…」

瞬間、今までに無いくらい体温が急上昇したのが自分でも分かった。かああと耳まで熱が上り、頭がくらくらする。恥ずかしさのあまり、血が沸騰しそうだ。



僕はとんでもない事をしてしまったんだ。



「えっと…その…僕は…めーちゃんに…めーちゃんに……きっ…ききききき…キスを…」

もう、まともにめーちゃんの顔を見れない。絶対、嫌われた。最低って思われた。

「ご…ごめん…」

俯いた僕の頬を、雫が幾つも伝う。



僕は一体、何がしたかったんだろう。



めーちゃんを護るとかカッコイイ事言っておいて、僕が本当に護りたかったのは、めーちゃんを独占する権利だったんだ。



もう、めちゃくちゃだ。



僕は…僕は…



「ばーか」

僕の大好きなその声が、耳をくすぐる。僕がゆっくり顔を上げると、めーちゃんは僕の額にぱちんとデコピンを食らわせた。

「男が簡単に泣くんじゃないわよ」

赤く色づいた頬を隠すように、めーちゃんは僕に背を向けた。

「お…怒ってないの…?」
「怒ってるとしたら、海斗があたしを信じてくれなかった事かしらね」
「え?」

どくん、と鼓動が高鳴る。



「だってあたしが好きなのは、あたしより強い男でも年上の先生でもない、頼りなくて世話がかかってほんとどうしようもないけど、誰よりも強くて優しい心を持つ、馬鹿なクラスメイトだから」



風が、僕とめーちゃんの髪と制服を悪戯に揺らす。不良と戦う時は大きく逞しく見えるその背中が、今は小さく儚く感じた。

「めーちゃん…!」

無意識に、僕はその小さな背中に手を伸ばした。
けど、

「調子に乗るな」

いとも簡単にするりとかわされ、僕の手は虚しく空を掴んだ。

「次、不意打ちしたらぶん殴るからね」

ふいっと僕から顔を背け、めーちゃんは早足で僕の真横を通り過ぎ、校舎の中に消えてしまった。

「めーちゃん…」

何とも言えない感情が、ウズウズと湧き上がってくる。
結局、僕の心配は全部杞憂だったんだ。少し赤くなった額に残る痛みが、その証拠だ。言い表せない喜びに、自然と口角が上がってしまう。
柔らかな感触が残る自分の唇を指でなぞったその時、背後でパキッと何かが割れる音がした。

「え?」

驚いて振り返ると、中庭に根付く樹木の影から紫と桃色の長い髪が僅かに覗いていた。

「え゛…!?」

何で…何でがっくんと流架ちゃんがあんな所に…

「ほら、流架殿が枝を踏むから気づかれてしまったではないか」
「わ、私のせいにしないで下さい!」

二人は僕を無視して、何やら言い争っている。
どうも、嫌な予感が頭から離れない。

「ふ…二人とも、何故そこに…て言うかいつからそこに…?」
「最初から」

ちょ…ちょっと待って。て事は…

「み…見たの…?」
「うむ、海斗殿が立派な漢(おとこ)になった瞬間、しかとこの目に焼き付けたぞ」

がっくんがはっきりとそう言った次の瞬間、絶叫が中庭に木霊した。





* * *

とん、と人気の無い廊下の壁に背を預ける。弾む呼吸と乱れる鼓動を落ち着かせる為に、一度大きく息を吸った。

そっと、自分の唇をなぞってみる。

アイスばっか食べてるから冷たいと思っていた唇は、予想外に温かかった。そして、自分の肩を掴んだその手の平は、いつもめーちゃんめーちゃんと鳴きながらすり寄って来るあいつと同じとは思えない程、大きくて力強くて、男の人の手だった。



『僕だってめーちゃんを護りたいんだ』



そう言われた時、嬉しいのか寂しいのか怖いのか、よく分からなくなった。



「ホント…馬鹿よね…」



ぽつりと呟かれたその言葉は、廊下に漂う静寂に溶けていった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

巡り会えたこの場所で 7

兄さんがちょっとがんばったようです。

閲覧数:398

投稿日:2010/04/21 20:41:59

文字数:4,839文字

カテゴリ:小説

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