とある都市で最も栄えていた街、ティクリード。
商人は活発に商売をし、港では貿易船が行き来し、子供達は元気に街中を駆け回る。
そんな活気的であった街で、建物が少ない瓦礫の一角の紅色の壁に『時忘人』である僕――アゾレスは凭れかかっていた。
『時忘人』というのは昔友人につけられたもので、時間を忘れたようにゆっくりしているからだそうである。
まぁ、時代を無視した古風な民族衣装を身に纏っているからかもしれないが。
ここに至るまで行き交った人々は皆、誰ひとりとして僕に目を留めなかった。
まるで存在していないかのように。
しかしそれも仕方ないと思った。
どのすれ違う人も、死人のごとく蒼白だったのだ。
数年前、この都市でサートゥンの海戦が勃発した。
ティクリードは栄えていたので、それ相応の被害が街を喰らい潰した。
そしてここは、『時忘人』の名付け親である友人――ワイズの故郷。
長期に渡る戦は終わったというのに、彼とその仲間達は、未だ帰還していない。
一体、何処で何をしているのだろう。
大規模な戦争そのものは終わったけれど、人里離れた緑一つ生えていない焼けた集落の跡地で、小さな戦いを繰り広げ続けているのだろうか。
何にせよ、僕はただ彼等を待ち続ける。
『時忘人』は、時を気にしない。
腰に差している古びた剣に右手でそっと触れ、小さく祈りを捧いだ。
ふ、と。
その瞬間、当たり前のように動いていた時が、止まった。
それと同時に、かつての記憶がフラッシュバックする。
まだ幼く、街外れの村で暮らしていた、平和なあの頃が――。
僕等は、確かに其処に居た。
すると、一塵の風が凪いで現実に引き戻す。
我に返って、僕ははっと気づいた。
彼等へのこの祈りが、もう届くことはない、と。
何故先刻の出来事でこう思うようになったのかはわからない。
わかっているのは、瞳から溢れた温かい液が、泡沫に消えるように消えて逝くことだけだった。
あの時聴いた声は、もう聴こえない。
いや――思い出せなくなっていた。
あの、不可視な障害(かべ)によって。
記憶が曖昧になるほど、繋がっている糸が絡まっていく。
次第に僕自身もその糸に絡まれた気になり、動かずして立ち尽くしていた。
そうこう思索に耽っているうちに、日没が訪れた。
橙の太陽が沈み、真っ赤な月が浮かぶ。
赤というより紅で、哀しげに哀愁を漂わせている。
それは僕をひどく感傷的にさせた。
時を忘れる――それは、時に置き去られたともいえよう。
どちらにせよ、時との距離があることは明確だ。
起きて、祈って、眠る。
毎日これを繰り返す。
不思議と空腹は感じなかった。
共に力を合わせて戦い続けている彼等は、風の吹かない渇いた戦地で、空腹のあまり倒れたりしていないだろうか。
…想っても、推測しても、祈っても、意味はない。
答えなど返ってきはしない。
僕はただ、待っていればいい。
僕には、戦った記憶がある。
今はこうして待っている身だが、かつてサートゥンの海戦に参戦していた。
しかし、戦の最中に気絶してしまった。
そして目覚めたら、ティクリードの丘陵にある誰かの墓前で、横たわっていることに気づく。
背中を預けられる仲間――つまりワイズらと疎遠になってしまったのは、それが原因である。
故に、この街には僕一人しかいない。
あの見慣れた懐かしい顔は、一体、今何処に――…
ある夜、夢を見た。
あの現象とは別の、普通の夢を。
しかし、夢というにははっきりしなさすぎている。
真っ暗で何も見えず、波が押し寄せては引き返す音だけが聴こえていた。
目覚めて、すべてを思い出した。
僕は、『大切なものを探す』という記憶をなくしていたのだ。
その『大切なもの』とは、僕の存在意義。
こないだ、記憶の糸に絡め取られて動けなくなったが、それが特異だったのではない。
僕が動いていること… それこそが、特異。
動けなかったのは、僕だけが異質だから。
認めたくなくて、ずっと、抗い続けてきた。
本当は、自分の周りの時は、ずっと前から止まっている。
本当は、何一つ聴こえてなどいなかった。
今まで耳にしたのは、脳が意識を汲み取って作り上げた幻聴。
それほどに、聴こえないはずがないという意識が強かった。
試しに、左胸に手を押し当ててみる。
案の定――
『僕ノ心臓ハモウ、動イテナドイナカッタ。』
ここで漸く、死んでいるのだと悟る。
時が止まっていたのと同じように、僕自身も止まっていた。
自覚したからだろうか、風が凪いでも、もう体に届くことはなくなっている。
生きていないのだから、泣いても当然涙は出ないし、声も出ない。
ただ動作だけで『泣く』ことを表現(あらわ)す。
虚像の剣を、虚像の手で握り締める。
嗚呼――僕の居場所は、此処なのだ。
誰がそれを否定しようとも、僕は此処だと誇張し(いい)続ける。
死んでいるとはいえ、特別な想いがなければ、わざわざ身を馳せたりしないだろう。
何か未練があるから、この地に自縛しているのだ。
消えてしまう前にもう一度、目覚めたあの丘陵へ向かった。
道中、誰ひとり気付くこともなく。
死んでいるのだから当たり前だが。
体は既に、半透明となっている。
――着いた。
以前と変わらない、緑がひとつも無く殺風景な渇いた丘陵。
機械のような動作で、墓前に跪いた。
彫られている名前は、『Azolef』。
僕だった。
音の無い声で自分の名前を読み上げると、風が僕を消し去った。
僕は何処に居ても、時を忘却し(わすれ)て、ただただ彼らを、待ち続ける。
End.
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