その夜、きっと僕は疲れていたんだろう。
まともな教育も受けていない僕は定職には就けず、日雇いの仕事で得たほんの僅かなお金と疲れ切った体だけを抱えて、その日寝るための地面を探して路地裏をさまよう毎日。
その日だって、廃棄されたパンでもないかとパン屋がある通りに向かっていただけだった。
「もう、なんでそんなにしつこく追ってくるのかなあ!」
店の前で複数の人間に追われている黒ローブのひとが僕に勢いよくぶつかって、貧弱な僕はそのまま地面に倒れ込んでしまう。
「ああ、きみ、ごめんなさい! ちょっと……ああ、悪く思わないでね!」
その人の顔を確認するより前に、その人らしき腕に首根っこを掴まれて勢いよく引きずられる。連れて行かれた先はさっき僕が入ろうとしていた路地裏で、「ちょうどそこに向かおうとしてたからいいか」と「このまま死ぬんだな」の気持ちが同時に湧いてきた。
「この辺りでいいか……【壁よ】!」
行き止まりでローブの人物が何かを叫んだ瞬間、さっき通ってきた通路を塞ぐように、なんの音もなく土の壁が現れた。
まるで、魔法のように。
当然、そんな非現実的な光景を前にして、ああ疲れてるんだなと思った僕はおかしくはないはずだ。
「きみ、少し黙っていて」
何か言う前にその人に口を塞がれる。思っていたより強い力で顔面を抑えられているので、口だけじゃなく鼻まで追加で塞がれている。ああ、黙るって永遠にってこと?
新しくできた壁の向こう、僕らを追ってきたらしい人たちの話し声が聞こえて、それが遠ざかっていくのを感じ取る。ほうっとその人が息を吐くと、僕らを隠していた壁は跡形もなく消え去った。
「はあ、なんとか撒いた……って、顔色悪いよ大丈夫!?」
「ぷはあ! ……あのねえ、呼吸の手段を奪っておいて顔色悪いよなんて、よく言えたよね」
「ご、ごめんなさい! 必死だったから気がつかなくって……」
僕がその手を振り払って十分息を吸った後、その人の頭まですっぽり覆っていたローブのフードが捲れて、肩まではかからない長さの茶髪がふわりと揺れる。
「ねえ、その……さっきの、何?」
「魔法よ」
「魔法? なにそれ、そんなのあるなんて聞いたことが」
「でしょうね。魔法使いは今、ほとんど殺されて生き残っていないから。さっきの奴らに狙われてね」
「は、はあ?」
「ごめんなさい、巻き込んでしまって。こんな時間に路地裏を歩くなんて危ないわ。きみも早く家に帰りなさい」
「家なんて、ないんだけど」
え、と言葉を失う女性。まるで僕みたいな人間が存在することを知らなかったような顔。
「危なくても関係ない。どうせ明日生きてる保証もないような身分だから」
「……じゃあ、私の家に来ない?」
「君といると追われるって、さっき言っていただろ」
「それでも、ご飯と、雨の当たらない寝床は保証できるわ。きみ、名前は?」
「……カイト。変わり者だね、君も」
「私はメイコ。じゃあ、家に移動するから、付いてきて」
不適な笑みで彼女は手を差し出した。その手を取ったのは、この人と生きたいとどこかで思っていたからだ。
僕の手を強く握り返して、彼女はまた何かを唱えて魔法を行使した。
それから彼女の家にお世話になる形で、不思議な共同生活は始まった。
追跡を受けるのは夜に限らないらしく、表立って街を歩けない彼女の代わりに、僕が街まで買い出しに行く。買いに行くものは、薬を調合するための材料だったり、食材だったりした。とはいっても、魔法の知識がない僕には、最初は全て食材に見えていたわけだけど。
買い物で値段を誤魔化されないよう、馴染みの店やうまい買い方を彼女は教えてくれた。街で注目を浴びないような、普通の人間が着ているような服も用意してくれた。
街から帰ってきたら、温かい食事を用意してくれた彼女と一緒にご飯を食べて、あとは眠るだけ。
僕が家を出る朝と、帰ってきた夜は彼女が食事を作ってくれていて。固くなったパンを少しずつかじって一日を凌ぐような生活をしていた僕にとって、一日二回の温かい食事は想像もできないことだった。
固くて寒い地面じゃなくて、木でできた床の上にブランケットで包まって眠った。彼女は布団を用意してくれたけど、ふかふかすぎて落ち着かなく、眠れそうになかったのでブランケットだけ借りた。
寝転がって寝るのに慣れず、膝を抱えて座り込んだ状態で眠る僕を気遣ってか、彼女は同じ体勢で背中合わせになった。私も今日からこうやって寝る、と言い出して聞かないので、二人ともまともに布団で寝る光景は一度もなかった。普通は寝るのに適していないはずの体勢に、間違いなく彼女は体を痛めていたはずなのに、一度も文句を言わなかった。
彼女が時々見せる魔法はすばらしくて、だけど人に害を与えるようなものではなかった。咳をとめる粉薬や、花が元気になる肥料。それらは魔法を使って効果を少し高めたもの。魔法そのものでは、先日見せた土壁を出現させるものや、重い荷物を軽々と運ぶための筋力の補助、明日の天気を知るものがあった。
「自分と、誰かの生活を助けるだけの、ささやかなことしかできない」と彼女は自嘲気味に笑った。昔の魔法使いは、天気を変えたり地面を割ったり、もっとすごいことができたのだという。そういう人のことは魔女と呼ばれて恐れられていたのだとか。
彼女の力を、彼女のような人間を滅ぼそうとする人たちがいることが不思議で仕方なかった。
彼女曰く、僕にも魔法を使うための力が少しあるらしい。彼女が扱うようなものは難しいけど、まじない程度の簡単なものなら、知識さえつければ僕にも使えるかも、とのことだった。
ひとらしいまともな知識さえ足りていない僕には、と遠慮したけど、いつもお世話になってばかりで、僕から彼女へは何も返せていなかった。ささやかでも僕も魔法が使えたら、彼女の負担を減らせるかもしれない、と彼女から魔法を教わることにした。
彼女の家にある古い本を引っ張り出して、言葉の意味と共にその術を教わった。苦労の末、種火程度の大きさの火を出すことができるようになった。僕の努力と運次第ではここから炎を大きくすることができるかもしれないらしい。ひとまず、寒い冬に暖炉で温まるための種火は、僕が用意することになった。
十月最後の日、それは彼女たち魔法使いにとっても大切な日なのだという。何か魔法使いの伝統があるのか、と聞いてみると、魔女やお化けに仮装した人々で溢れるその日の街は、人混みに紛れて行動しやすいので追われにくいから、というのがいちばんの理由らしい。
他の魔法使いと堂々と会えない故に、その日は彼女も街に行くことになった。
だけど。
ささやかだけど安定した生活は終わりを迎えた。
魔法使いを捕まえることに躍起になっている追手は、今年からは一般人が大勢いる街の祭りの途中だとしても、一般人への被害さえ気にせず、彼女を襲った。
彼女は捕らえられてしまった。一緒にいた僕も、魔女に誑かされた人間だと捕まえてしまった。
彼女がさっきまで会っていた、同じ魔法使いだという女性も捕らえられた。
すぐに殺されるのかと思ったけれど、彼女のような存在は希少だ。魔法使いが少ない今は尚更。
彼女が「魔法使いは見つかれば殺される」と言っていたが、真実は「魔法使いは捕まえられれば、死ぬまで利用される」だったらしい。
魔法使いを利用して、非人道的な実験を、奴らは彼女に行なっている……らしい。
別々の牢屋に入れられているから詳しいことはわからない。僕のことも魔法使いだと認識している奴らは、僕にもいろいろな実験をした。段々怪我の度合いが酷くなる体に、何かを混ぜられた少ない食事と過酷な実験は、僕の精神を追い詰めるには十分だった。
苦しい時は、彼女との日々を思い出して、なんとか正気を保っている状態だった。
施設に火を放って、全て壊して彼女を助け出す、なんてことは所詮叶うことのない夢だ。手のひらの上で揺れる小さな灯火は、吹けば一瞬で消えてしまうマッチの火より儚い。
そもそも、自由に魔法が使えたのならば、彼女を始めとした魔法使いがとうになんらかの行動を起こしているはずなのだ。
僕一人でどうにかできるほど、世界は狭くなかったんだ。
ある日、実験の一環で、僕は記憶を消す薬を飲まされた。何の薬かはいつも事前には知らされない。いつものように散々抵抗して、固い床に押さえつけられて、無理やり飲まされた。
彼女と暮らして毎日食事をとっていても、それはここ数ヶ月の話。ずっと日陰でパンを少しずつかじって生きてきた僕の体に、大勢の普通の男に抵抗できる体力なんてなかった。
わけもわからないまま副作用で苦しんで、痛みから気を逸らすために彼女のことを思い出そうとしたところで、段々と彼女と過ごした日々を思い出せなくなっていることに気がついた。
……誰のために生きたいと思ったんだっけ。誰に助けられたんだっけ。誰と一緒に、逃げ出そうと思ったんだっけ。
大切な誰かがいた。忘れてはいけなかった誰かがいたはずなのに、もう何も思い出すことはない。コンクリートの壁に背中を預けて、ずるずると崩れ落ちる。どうしようもない虚しさと寂しさでこみ上げてくる涙。
なぜだか、背中を挟んだ壁の向こう、同じように誰かが泣いている気がした。
僕は、生きていて、幸せだったんだろうか。
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