例のしつこい子も、それ以上後を追いかけてくるようなことはなかった。まともな感性の持ち主なら、この後はむしろ逆方向へ行くだろう。しつこい子はともかく、ユイとチカはまともなはずだし。
充分距離を取った辺りで、俺は巡音さんの肩を抱いた腕を外した。巡音さんはまだ顔が赤い。
「……ごめん、変なことに巻き込んじゃって」
「ね、ねえ……何だったの、今の? あの子たち、中学の同級生って言ってたけど……それに、わたしとデート中って、どうしてそういうことになったの?」
巡音さんは、軽いパニックになっていた。えーと……。
辺りを見回すと、すぐ近くにジュースとかを売っているスタンドがあった。テーブルと椅子も何組か置いてある。
「ちょっと座ろうか」
俺は巡音さんを引っ張って、椅子の一つにかけさせた。なんか飲む物でも買うか。スタンドの方へと向かう。
「巡音さん、何飲みたい?」
「あ……じゃあ、オレンジジュースを」
俺はスタンドでオレンジジュースとコーラを一つずつ買って戻ると、巡音さんにオレンジジュースを手渡した。
「……ありがとう」
受け取ってから、巡音さんははっとした表情になった。
「あ……お金……」
「いいよ、これぐらい。迷惑料ってことで」
そう言うと、俺は巡音さんの向かいの椅子に腰を下ろした。
「でも……」
「だからいいって。で……さっきのことだけど」
ジュース代ごときでもめるのが嫌だった俺は、強引に話を先に進めることにした。
「さっきの子たちは、俺の中学の時の同級生。で……まあその、なんていうか……そのうちの一人と、俺、前につきあってたわけ」
巻き込んじゃった手前、ちゃんと説明はしようと思ってたんだが……いざ話し始めてみると、非常に話しにくかった。なんでだろ。
「さっきずっと喋ってた、背の高い子?」
「いや、それじゃないよ。髪を垂らしてた子の方」
言ってから、「それ」は無いかなと思った。……いやいいか、どうでも。
巡音さんは視線を落としている。また考え込んでいるらしい。こういう時はせかさない方がいいので、俺は黙って巡音さんがもう一度話し出すのを待った。
「どうして……わたしとデートをしている振りをしたの?」
ようやく口を開いた巡音さんは、こんなことを訊いてきた。
「一緒に回らないか、って言われちゃってさ。ユイ――あ、俺の前の彼女の名前ね――は嫌がってたけど、あの背の高い子、しつこくって。デート中だって振りをしたら、諦めてくれるだろうと思ったんだよ」
異常に察しが悪くて苦労したけど。あれだけやったら、大抵はデート中だと思うだろうに。
「え……別れたのに?」
怪訝そうな表情で、巡音さんが疑問を口にした。まあ、確かにそう思うだろうなあ。
「そうだよ」
「それなのに、どうして?」
えーと……多分、最初から全部話さないとわからないだろうな。はあ……気が重いけど、やるしかないか。
「長い話になるけど、いい?」
巡音さんが頷いたので、俺は前提となる事情を話した。ユイとつきあっていたことや、別れた理由についてだ。別れてからはずっと会ってなかったのに、こんなところで再会してしまったことも。
「俺も気まずかったし、ユイもそうだったと思うんだけど、あの友達の子がえらく空気が読めなくてさ。なんかユイ、新しい彼氏とも最近駄目になったらしくて。話の流れで俺たちがつきあっていたことがわかっちゃったもんだから、どうも、よりを戻させようと必死になっちゃったみたいなんだよね」
あの変な生き物につきまとわれたせいで、妙に疲れた気がする。……まだ午前中だってのに。
「鏡音君の方は、それでいいの?」
「何が?」
「ユイさんのこと、まだ好きだったりとかしないの? マルチェロやマークは、別れてもまだ相手を想っていたりするけれど、そういうのは?」
いや、幾ら俺が『RENT』が好きだからって、そこまでは……。正直言うと、ここしばらくは思い出しすらしなかったんだよな。一年経ってるし。
「別にそういうのはないよ」
巡音さんは暗い表情で俯いている。……余計な気使ってんのかな、これは。
「大体、うまく行くとは思えないんだよ。俺とユイは、高校入ってからぎくしゃくしだしたわけで。問題原因がそのままなのに、勢いでより戻したって、また同じことの繰り返しになるだけだと思う」
歯車が噛みあわないような感じが、ずっとあった。何がいけなかったのかは、よくわからないけれど。だからユイから「他に好きな人ができた」と言われた時も、むしろ「仕方ないか」と思ったのを憶えている。
「でも……」
「あのね巡音さん、俺、あの場から逃げるのに巡音さんを利用したわけ。未練があったら逃げるなんて行動取らないってば。むしろ俺に怒っていいぐらいだから、そんな風に思いつめた顔しないでほしいんだけど」
何でこんなことになったんだよ。これもあの空気の読めない生き物のせいだ……多分。
巡音さんはまだ思いつめた表情をしている。えーっと……そもそも俺が巻き込んだわけだから、「この話はもう止めよう」って言うわけにも行かないよなあ。どうしたもんか……。
「あの……鏡音君」
俺が頭を悩ませていると、巡音さんの方が口を開いた。
「何?」
「恋をするのって、どんな感じ?」
この上なく真面目な表情でそう訊かれ、俺は返事に詰まった。……というか、それを俺に訊くか!?
「オペラにもバレエにも、恋を扱ったものってたくさんあるんだけど……わたし、実感が無いからよくわからないの。恋をするのがどういう感じかって」
まあ、そりゃあ……映画だって恋愛を扱ったものは多いし。それ以外の映画でも恋愛が出てくること多いし。ついでに言うなら学祭でやった舞台にも恋愛シーン、あったし。けどなあ……それを俺に訊かれても困るぞ。
「初音さんとはそういう話をしないの?」
女の子同士でする話じゃないのかなあ、そういうのは。初音さんは女の子らしい趣味だし、その手の話題が日常的に出ていそうだけど。
「ミクちゃん? 少しはするけど、ミクちゃんもまだ誰かとつきあったことはないから……」
ふーん、そうなのか。じゃあ、クオにもチャンスはあるのかな。あれ、ちょっと待て。
「初音さん、つきあった経験ないわけ?」
あんなにモテるのに。少なくとも、クオに「初音さんとの仲を取り持ってください」と頼みに来た奴が大勢いたのは確かだ。全員クオに「自力で告白できない奴に、ミクとつきあう資格はない!」って、断られたけど。
「ええ」
「告白されることなんてしょっちゅうじゃないの? ほら、初音さんって目立つだろ。確か去年も今年も、学祭のミスコンで一位だったし」
巡音さんは首を横に振った。え?
「ミクちゃん、告白されたことなんて一度もないはず。前に言っていたもの。一度くらい、ドラマか漫画みたいな告白をされてみたいなあって」
うーん、初音さんの周りで何が起きているんだろう。まさかとは思うが、クオが影で何かやってるんじゃ……。
「そういうわけだから、わたしの周りに、現実に恋愛した人っていなくって……」
俺が初音さんの周りの状況について考えている間に、話は元に戻ってしまっていた。
「お姉さんは?」
姉貴は恋愛に興味が無いのか、今のところ男っ気無しの生活を送っている。が、ユイとつきあっていた当時、俺の方が相談を持ちかけたことならあった。お姉さんから、何か聞いたりとかはしないんだろうか。
「ハク姉さんは女子高だったし……ルカ姉さんは婚約してるし……」
巡音さんのところはお姉さん、二人いるのか。二人だから上に名前つけて呼んでるんだな。
「婚約者がいるんなら、恋愛したってことじゃ?」
「ルカ姉さん、お見合いなの」
「…………」
ひょっとして家と家の結婚って奴か!? 今時、そんなことをやっているところが現実にあるとは……。
「で、でも、婚約したってことは、相手の人が気に入ったんだろ?」
「お父さんが強く薦めてたから……わたしのところは三人姉妹だから、長女のルカ姉さんには婿を取って会社を継がせるって、神威さんなら、申し分ないって」
もはや俺は話についていけない……。というか巡音さん、そういうことをなんでもないみたいな口調で話さないでくれ。いや、巡音さんのせいじゃないけど。
「繰り返しになるけれど、わたしの周りには現実に恋愛をした人っていないの。だから、こういうことを訊ける人がいなくって……恋って、どんな感じなの?」
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