―絶対なもの。
だし巻き卵。遠く高い澄んだ青空。ふわふわのシフォンケーキにホイップクリーム、それにお砂糖一つ分のコーヒー。水撒きした庭からやってくる湿った風。
絶対なもの。
お兄ちゃん、お姉ちゃん、がちゃ坊。
ごりごりごり、とがちゃ坊がひたすらにすりこぎですり鉢の中身をすりつぶしていた。ごりごりごり、ねりねりねり。と、磨り潰されて練り上げられているのはイワシのすり身。あの青くて目がぎょろりとしていて小骨が気になって、なんだか生臭い、難易度の高いあいつである。
その横でリリィは慎重な手つきで味噌を計っていた。きりりと長い金髪をひとつに結い真剣な表情そのもので、むしろ真剣すぎて寄り目になりながら計量をしている。大さじ、いち。きっちりとすり切りにして、それをがちゃ坊の手元のイワシのすり身の中へ入れた。レシピに書いてあった通り。ねぎはもう入れたのであとは生姜の汁を小さじで、に、入れればよい。
生姜の汁は薄く平らにして凍らせておいたものがある。だけど、小さじ2。一度解凍させてからキチンと計って入れよう。とリリィが大体の目分量で割って耐熱容器にそれを入れていると、横でがちゃ坊が名を呼んできた。
「リリィ姉ちゃん…」
何とも情けないその声に、リリィは、その弱音の理由を予想しながら、なあに、と言った。
「魚は苦手だよ、ぼく」
「知ってる」
「頑張ってもひとくちも食べられないと思うんだ」
「それは許さない」
がちゃ坊の言葉に端的な返事をして、リリィはレンジで溶かした生姜汁をきっちりと小さじで計ってがちゃ坊のすり鉢の中に入れた。そして再び磨り潰すよう促すと、しぶしぶといった様子ながらも、がちゃ坊は再びごりごりねりねりとすりこぎを動かし始めた。
魚が苦手ながちゃ坊のために、今日の献立はイワシのつみれ汁である。すりつぶしてしまえば、魚っぽく感じないだろう。という考えでの献立。けれど磨り潰そうがなにをしようが、魚は魚である。どうしたって魚が肉や野菜になったりはしないのである。本来ならがちゃ坊は手伝うのも嫌だっただろう。それでも当番から逃げ出さなかったのは、そんな事をしたら長兄のがくぽからゲンコツか落ちてくるからだ。
ごりごりねりねりと、がちゃ坊がすり鉢を練る手伝いをする横で、リリィはてきぱきとつみれ汁に入れる具材を切ったり、他のおかずを作ったりした。レンコンやゴボウや、茄子なんかを切ったりするその手つきは馴れたものだ。
肉じゃがを煮崩した、とかわかめだらけの味噌汁を作った、とか卵焼きを焦がした、とか。そういう失敗をよくするリリィだが、実際のところは料理が下手なわけではない。むしろ作るのに馴れた洋食などはいつも美味しく作れる。だがしかし、自分でも分かっているのだが不器用なのだ。初めて作る料理は必ずあともう一歩、というような失敗をしてしまう。
自分でも嫌というほどそれがよくわかっているので、リリィは馴れない料理を作るときは慎重に調味料を量ったり火加減や煮込む時間ものすごく気を使ったりする。だがしかし、その慎重さが逆に裏目に出る場合もあるのだから、料理とはなかなか侮りがたいものである。
「ねえリリィ姉ちゃん。ぼく、生臭いの苦手だよ」
まだぶつぶつとがちゃ坊が後ろ向きな発言をしながらすり鉢ごとイワシのすり身を手渡してきた。そのすり鉢の中身は良い感じに磨り潰されて練り上がっている。もうあとは煮立てただし汁の中で下ゆでをして、汁物の具にすればいいだけだ。
「ねえ、姉ちゃん。やっぱり、ぼく生ぐさいの、苦手だよぅ」
それでも何とかイワシを回避したいのだろう。がちゃ坊が駄々をこねるように再び同じ言葉を重ねた。ほとんど、というかほぼいつもの場合が幼く可愛らしい弟なのだけど、こうやって駄々をこねられると少しイラっとくる。
男ならば覚悟を決めなさい。ときつい口調でリリィはがちゃ坊の文句を遮るように言った。
「私だって生臭いの苦手だけど。でも、これはこういうものなの。美味しくなくても身体にいいの。だから残さず食べるの、分かった?」
「…」
思わず自分もイワシが苦手な事を言ってしまいながら、リリィがそう強い口調で言うと、がちゃ坊は返事こそしなかったが、しぶしぶといった様子で頷く。
と、そんな二人の様子が耳に入ったのか、居間で洗濯物を畳んでいたグミが台所に顔を出してきた。
「何、リリィ。大声出して。生臭いの?」
そう言って、グミがリリィの手元にあるすり鉢の中を覗きこんだ。
上手に練れてるじゃん。なんて言いながら指を突っ込み、おもむろに生のままのつみれを一口ぺろりと舐める。こんな生臭いものを、生のままで食べるなんてさすがお姉ちゃんだ。そう吃驚しているリリィに、これ、生姜入れた?とグミが訊ねた。
「生姜、汁でもいいけど。入れた?」
「うん、ちゃんと計って入れたよ」
そう返事をしたリリィにふむふむと頷いて、もうちょい入れても良いかもね。とグミは言った。
「私や兄さんは丁度良いかもだけど。あんたちにはやっぱり生臭く感じるとおもうよ。レシピよりも多く生姜の汁を入れても良いんじゃない?それか、あれだ。この間おすそわけでいただいた梅干し。あれの実を叩いて混ぜても良いかもね」
「え、ちょ、お姉ちゃん、それってどれくらい入れればいいの?何グラム、とか」
グミに何気ない調子で言われた料理のポイントに慌ててリリィはそう訊ねた。その問い掛けに、グミはうーん、と首をかしげながら、てきとう?と言った。
「そんなの、何となく、で大丈夫だよ」
「何となく、って、なにそれ。ちゃんと教えてよ」
と顔を顰めるリリィに、ごめんとグミはからりと笑って、梅干しならば一個分で大丈夫だよ。と言った。
「リリィは几帳面に考え過ぎだなぁ」
「お姉ちゃんがてきとう過ぎるんだよ」
もー、とぷりぷりと怒るリリィにグミはごめんごめん、とやっぱりてきとうな調子で笑ってそう言って。
でも適当な事を言うくせに、ぐみの言うことに間違いがあったことなど一度もないから。わかった。とリリィは笑みを浮かべて頷いた。
そんな二人の横で、がちゃ坊がやっぱり今日はイワシかぁ、とこっそりため息をついていた。
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