少女のような小さな手。貧しい娘の白い手は貧民街の者としては色艶も良く、美しい。
慎ましく暮らしてはいるが貧困に喘ぐ人々の中にあってまだ食べる物があると言う程度の裕福さは保っている。
かつて化け物を有した魔女の姿。現在では町娘程度の暮らしを以前と変らぬ場所で過ごしている。
「ありがとう」
呪文のように毎日同じ言葉を同じ方角に向けて同じように言う。
かつて自分を主人と慕い、尽くした機械の青年に対しての感謝の言葉。時折流れる雫は懐古の証。
もうどれほど経っただろう。風の噂に聞くかつての化け物は見目麗しき美青年として評判も良く、今や多くの子供達に愛される領内最大の保育施設の責任者として活躍していると言う。
かつて貧民街の貧しき民だった娘は今や娘の歳を過ぎてすっかり大人の装いになっていた。
住む場所こそ変えてはいないが貧民よりは町女に近く、かつて歩くこともままならなかった娘が今や自ら少し遠くの街まで買い物に出かける程となっていた。
時折過去を振り見てはかつての行いを考える。噂に聞くかつて自分に仕えた機械の青年を想うと涙が出た。彼の幸せを願い自らのマスターIDを彼の中から消し去って、縛りを解いたあの日、機械の青年と自分の間に繋がりが無くなった。
もう世話してもらう事もないだろう。生活に困らない程度の金を受け取り、結果的には大事な家族を娘の頃に女は領主に売ってしまった事になる。
幸せの形はそれぞれだ。願う形もそれぞれだ。思い描いたそれが必ずしも幸せとは限らないし思い描いた以上の幸せもないかもしれない。
自由が幸せと呼ぶなら売った事は果たして幸せに繋がる道だったろうか。
かつて領主は互いの幸せのために彼を自由にすべきだと解いた。
アンドロイドは進化したロボット。マスターIDがあればアンドロイドはIDを元に主人を認識し、仕える忠実な僕となる。逆に、マスターIDさえ無くしてしまえば誰かの僕となる事もない。自らの意志で考え、行動する事ができる人間に良く似た自立性機械となる。
領主はキカイトにダミーIDを使用して主人のいない自立したアンドロイドにするよう提案した。それがキカイトの幸せと解いて。
寂しさは人故か。これは人のエゴかもしれない。
キカイトを置いて領主の館を出たあの日、かつて主人だった女は自分に仕えたアンドロイドも自分と同じく寂しいと感じているだろうかと考えた。
寂しさも悲しさも、いずれ乗り越えなければならない壁である。喪失感は恐らく最初だけだろう。
弱り果て、何もできなかった自分をここまで面倒見てくれた最初で最後の機械人形。その愛おしいアンドロイドに未練がないわけではない。しかし彼には永遠の時、自分には限られた時しかないと女は理解していた。
人間には寿命がある。それもかなり短い。特に栄養等に問題のある生活をしている貧民にとってその寿命は短い域を越えて儚い。自分もいつ倒れるかわからない。それならばいっそ先に自立させてあげた方がよほど優しいではないか。ただ繋ぎ止めておくだけでいるのは主人のエゴでしかない。そしてそれはアンドロイドの人権を無視した行為とも言えるのではないだろうか。道具としてではなく、家族として共に居るならばマスターIDなど無くて良い。もしかしたらこの考えの方がエゴなのかもしれない。答えのでない問いは女の中でいつまでもぐるぐると回り続けた。
何度繰り返してもあの日の光景が目に浮かんでは目にたくさんの涙を溜めた。
朗報を聞く度「よかった」と安堵する。孤独の中で日々想う。彼は今何を思い、何をしているのかと。
人形造りはかつて化け物と呼ばれた機械と同じく黄色い人形を拵えた。
かつて自分を「マスター」と呼んだ青年のような精巧な造りのアンドロイドだ。このアンドロイドは双子で、名をリン、レンと言った。姉と弟の設定だ。姉は自立して動くアンドロイド。弟は自立しては動かないただのロボットだ。この二人の設計は少々特殊だった。
歳の頃は十四程の双子。自由な姉と従者のごとき弟だ。
いくらある程度の生活水準を保っていたとしても元がさほど強くはなかった体だ。人形造りの女は別れてからついに一度もキカイトを見る事なく病に伏した。
「もう一度、会ってみたかったな…会って、話がしたかった…」
病床の女は薄れ行く意識の中で黄色いアンドロイドを見た。それは幼い娘の顔をしたリンだった。
「兄さんってそんなに凄いの?私も会ってみたかったなぁ…」
無邪気なリンの声を最後に病床の女は意識を失った。
女はひんやりと冷たい感覚に意識を覚醒させた。
あれからどれほど経っただろう、周囲の様子は何一つ変ってはいなかったが体の調子は酷く優れない。衰弱しているのが自覚できる程衰弱した病弱な体。
病床の女は自分の額に乗せられたひんやりとする何かが人の手の形をしている事に気がついた。見れば手の主はよく見知った、見違えるほど美しくなった大切な黄色い家族。かつて領主に売り払った未完成だったアンドロイド。
酷く冷たい手は体温を感じさせない機械の手。全く動く気配も見せないかつての化け物は完全に人の姿へと変った停止中のキカイト。寝ているのか、故障してしまったのかは体の自由を失った元主人には確かめようが無かった。ただ、その美しい顔立ちとどこか安堵した表情に一滴涙が零れた。
『最後にあなたに会えて良かった。
あなたの顔を見る事ができて本当に幸せだった。
これが例え夢だったとしても、会えた事だけはこの胸に刻んでおく事にしよう。
これがこの目で見る最後の姿なのだから…』
ほんの僅かに残った体温が徐々に失われ、瞳に映る景色は徐々にぼやけて見えなくなる。
生気を失い、光をなくした瞳はもう何も映さない。
ピクリとも動かなくなった体、呼吸を忘れた肺はもう酸素を取り入れる事もない。
やがて腐り、土に帰る終わりを迎えた生物。かつて生きていた人だった人形ができた。
触れる額に熱を感じない。センサーが壊れたわけではない、それが最早熱を発していないのだと再起動したキカイトはかつての主人を見て悟った。
「涙があったら、泣くことができたでしょうか?目の前に居るのに、僕は結局あなたに会う事はできませんでしたね。あなたの最期を看取る事もできなかった、僕は親不孝者ですね。もっと早く来るべきでした。もっと早く自分の気持ちに気付いていれば…」
涙は出ない。悔しさに己の膝を渾身の力で掴んでいた。人工皮膚の下にある球体関節が悲鳴を上げた。
人の命令に背く不完全な機械、人に成り得ない不完全な人形。人のように悩み、葛藤し、正しい答えなどない物に苦しんで後の祭を知る哀れなアンドロイド。
誰がいつ、どこで間違ってしまったと言うのだろうか。
時代が認めない事がいけなかったのか。それともこれは人が犯した罪だと言うのか。
見えない涙が機械の頬をただ静かに伝っていた。
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ご意見・ご感想
日枝学
ご意見・ご感想
おおおおお良作! 読了しました! 振り落とされずに着いてきましたよー
個人的な大好きな作風 読めて良かったです! 良作ありがとうございます!
2011/06/23 22:43:33
鐘雨モナ子
ありがとうございます!
感想頂けるとはありがたい限りです><
こんな無名の駄文書きですから感想頂けるなんて夢のようなお話です^^
しかも良作とまで言って頂けるなんて光栄です!
他にも長文書いてたり、短編も書かせて頂いております。良ければ宜しくお願いします><
また次回がありましたら読んでやって下さいませ^^
2011/06/23 23:04:16