おぼつかない足取りで自室へとたどり着く。
「ミク様?どうなさいました」
扉を押し開き、出迎えてくれた侍女の優しく気遣う声に、ミクは糸が切れたようにその場に座り込んだ。
「ミク様!?」
「ローラ・・・お兄様が」
どこか呆然としたままの声音に、駆け寄った侍女の顔に動揺が浮いた。既にどこからか知らせを聞き知っていたらしい。
「・・・クリピアの件でございますか」
ミクは力なく頷いた。
「どうかしているわ・・・。最初に自分でクリピアをけしかけておいて、いまさら国益を潰してまで和平だなんて。それだって、どうして、お兄様ご自身が出向く必要があるの。いくら顔を知っていて、言葉を交わしたことがあっても、敵地の真っ只中なのよ。それに、それに・・・いきなり求婚なんて。確かに、王女は美しい人だったけど・・・」
混乱した心のまま、まとまらない言葉が零れ落ちる。
何から何までミクの理解を超えたことばかりなのだ。
「どうしてなの・・・、お兄様の考えがわからない」
のろのろと両手で顔を覆う。
ショックだった。
今までミクは、誰よりも兄の考えを的確に読み、その意図を理解してきた。そのつもりだった。けれど、これまでミクが彼の意図を違えず読み取れてきたのは、彼がミクに気付かせるつもりがあったからだ。
恐らく今回、彼はその真意をミクに知らせることをやめたのだ。それだけでもう、ミクには兄の意図が見えない。今まで、どれほど手加減されていたのかを痛感する。
「私は、とうとう見捨てられたのかしら」
「ありえません!」
怯えの滲むミクの言葉を、ローラが強く否定した。
「そんなことはあり得ませんわ! 求婚の件だって、きっとクリピアとの和平をより確実なものにするためでしょう。カイザレ様は、ただ、この国にいるミク様の御身を心配されているのですわ」
「だったら、どうして求婚なの・・・!別に結婚を申し込まなくたって、いくらでも和平の方法はあるはずじゃない」
ミクは頑なに首を振った。
こんなことは今まで一度もなかった。
これまでどんな浮名を流そうと、どんな美姫にもどんな身分の高い令嬢にも、かの人が自らその手を差し出すことなどなかったというのに。
どうして急に。
「私が逆らったから・・・?」
思い通りに動かなくなった駒は捨てて、王女を懐柔するつもりだろうか。
それこそ王女を落とせば、戦争すら起こす必要もなく、あの国が手に入る。例えミクが彼の思うように動かずとも、あの国の兵力があれば、この国だって簡単に落とせる。ただひとつ、彼自身の幾ばくかの自由と引き換えに。
それでも良いと判断したのだろうか。
――それとも、まさか本気で・・・?
「何を、考えているの・・・お兄様」
じわりと冷たい不安が胸を這い登ってくる。
兄の心が見えなくなったのはいつからだろう。
ちゃんと目を合わせてくれなくなったのは。気持ちを伝える言葉をくれなくなったのは。
時おり覗かせる、ミクを遠ざけるような態度に気付いてからは、本当の我が侭なんて言えなくなった。
歳を追うごとに次第に兄との距離が離れていく気がして、その距離を埋めたい一心で、ミクは兄が身を置く政治の世界に目を向け始めた。
けれど政治の手を読めるようにはなっても、彼の態度は一向に変わらず、その気持ちもわからないままだった。
それどころか、兄の意に従っているうちに、自分がどんどんただの道具になっていくような気さえしていた。
心の奥で燻っていたその疑念は、突然命じられた結婚に一気に芽を吹いた。
毒を煽り離宮で目を覚ましたミクに、彼はまず叱責と事の次第を尋ねた。無事を喜ぶ言葉も、手を握ることさえしなかった。無事で良かったと言ってくれたのは、ろくに言葉も交わしたことのなかった人だ。
もうこれ以上、膨れ上がる疑心を見ない振りで誤魔化すことは出来なかった。
兄にとって自分が何なのか、はっきりさせたかった。たとえ彼の意に反してでも。
それなのに。
「ずるいわ・・・。いつも、あなたは大切なことは何も教えてくれない」
思いの届かない歯がゆさに、今ここには居ない相手を詰るしか出来ない。
ミクはただ、言葉が欲しかっただけだ。
いつもミクがその意を汲むのではなく、彼の言葉で明確に示して欲しかったのだ。彼の望みを、彼の気持ちを。今、何を思っているのかを。
無茶を心配する言葉でも、逆らったことへの怒りでもいい。ただ、正面から向き合って、正直な気持ちをぶつけて欲しかっただけなのに。
「答えをくれる価値さえ、私にはないの・・・?」
やるせなさに唇を噛む。
彼にとって、本当に自分は何なのだろう。
そして、何より――
「クリピアのリン王女・・・」
その名を口にすれば、舞踏会の夜、楽しそうに談笑していた二人の姿が蘇る。
愛らしい少女だった。あれで審美眼の厳しい兄が、手放しに賞賛するほどの。
咲き誇るような華やかさを持った、それでいて屈託の無い笑顔が可憐な少女だった。
政治には何ら興味のないという、天真爛漫な黄金の姫君。
いつの間にか金や名誉の絡み合う駆け引きに慣れ、仮面の笑みを浮かべることに慣れた自分が疾うに失ってしまった、あの眩しいほどの無邪気さ。
・・・彼女ならば、隣に望むのだろうか。
これまでずっと傍で手を貸してきた自分のことは、見捨てても。
「ミク様、お顔が真っ青ですわ・・・どうか少しお休みください」
見かねた侍女が、懇願するように促した。
「身体はどこも大丈夫よ、ただ・・・」
瞼の裏の幻を振り払うように首を振り、ミクは胸を押さえた。
「どうして、こんなに苦しいの・・・」
胸の奥でざわめいている、これは何だろう。
はっきりとした姿は見えないけれど、ひどく荒々しく、醜く、恐ろしい何か。
とても良くない、外に出してはいけないものが、昏い奥底から這い出てこようとしているかのようだ。
初めて目の当たりにした、自分の中に存在する得体の知れない暗闇にミクは慄いた。
「私・・・、一体、どうしたの・・・」
戸惑うのは、これが全くの見知らぬ感覚ではないということだ。
思い返せば、今までにも幾たびか、これに似た何かを感じたことがある。
夜会で美しく着飾った相手と踊る姿を垣間見た時、少なからぬ情人がいると知った時、言い寄る女達の影を見た時。
だが、それは形にならないほど淡く、感じるのもほんの一瞬のことで、気のせいだと片付けてしまえる程のものだった。
彼がミクを見ていつものように微笑めば、いつだってすぐに霧散して、忘れてしまえた。
その奥に、こんなにも巨大で、暗く凶暴なものが隠れているなんて思いもしなかった。
自分が目を背けたいと願うものは見えないのだ、と告げた声が木霊する。
「ハクが目を逸らすなと言っていたのは、このことなのかしら」
苦く噛み締めるような呟きを聞きとがめた侍女が、眉を潜めた。
「あの者が何を・・・。いいえ、ハクの言うことなどに、ミク様がお気を煩わせることはありません!カイザレ様にお引き立て頂いているからといって、あの者は無礼が過ぎます。どうぞ、そのように思い詰めないで下さい」
「ローラ」
侍女の名を呼び、ミクは唇の端に微苦笑を刻んだ。
「あの人はいつも私に厳しいことを言うけれど、悪い人ではないのよ。私を対等に扱う人だわ」
「対等なんて・・・! 一介の家臣に過ぎぬものがおこがましいことです」
ローラが不快気に言い捨てる。
日ごろ穏やかで慎ましい彼女は、けれど主人を蔑んだり悪意を向ける者には、徹底して容赦をしなかった。
「身分のことではないのよ。あの人は対等の話が出来る人間だと、私を認めているの。不思議ね、身分が高くなるほど、相手は自分と同じ人間だとは思わないの。まともに話が出来る相手だと思われないのよ。それは見下されているのと、どう違うのかしら。ちゃんと同じ目線で話してくれる人は得難いの。私にはあの人と・・・あと、メイコくらいね」
ローラの瞳が揺れた。
どこか複雑な表情を浮かべて押し黙った侍女に気付き、ミクは瞳を和ませた。
「だからって、あなたがハクやメイコのようであっても、私が困るのよ。あなたがいてくれなかったら、私は何にも出来ないわ。ひとりで身支度も出来ないし、お茶の淹れ方ひとつ分からないんですもの。それに、時には愚痴や悩みを黙って聴いてくれる人も欲しいわ。ハクはとても黙って聞いてくれる人じゃないでしょうね」
細くたおやかな手を取り、頬を寄せる。この優しい手は、いつだってミクのために差し出されている手だ。
「いつも、あなたが私のために心を砕いてくれるから、私はとても安心していられるの」
「ミク様・・・」
「心配してくれてありがとう。でも、きっと知らないといけないの。この苦しさの正体が分からなければ、きっと、ずっとこれは続くんだわ」
決意を篭めた翠の瞳に見つめられて、忠実な侍女はとうとう折れた。
「・・・わかりました。でも、考え過ぎはお身体にも良くありませんわ。香りの良いお茶を淹れますから、少しの間だけでも、気分転換をなさってください」
「ええ、お願いするわ」
「すぐにお持ちいたします」
翳りを残しながらも何とか笑顔を浮かべた少女に安堵の微笑みを返し、ローラはその場を後にした。
控えの間で手早く茶器を揃え、湯を沸かし、ティーポットに手をかけて、その手が止まる。
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これでも4000文字超えたらとひやひやしました。
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ネガティブにぐるぐる悩むミクレチア嬢を書きながら、纏まらない文章に自分でもぐるぐる。
後編に続きます。
http://piapro.jp/content/cmkoq03e1n0gw28p
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