開店時間のほんの少し前に森はコックコートに着替えて髪をひとつにまとめて、厨房に立っていた。
「おはようございます。」
先に作業をしていたスタッフの女の子のあいさつに、森もおはようございます。と声をかけながら、手を洗った。
先に作業していた女の子は最近入ったばかりの専門学生だった。短い前髪に小柄な姿が年齢よりも幼く見えるけれど、仕事を覚えるのも作業速度も速い。朝の作業があらかた終了している事を確認しつつ、森も前日焼いて休ませておいたケーキを型から出して切り分けたり、と開店の為に手を動かした。
程なくしてホールで開店準備をしていた鳥海から、もうすぐ開店です。と声がかかった。
「今日は混みますかね。」
そうスタッフの女の子に言われて、どうだろう。と森は微笑んだ。
「一応、忙しい予定で前日に大目の仕込みにしておいたけど。グミちゃん。負けないでオーダーさばいていこうね。」
そう森が言うとスタッフの女の子は、はい。と元気よく返事をして、洗って氷水につけておいたレタスの水気を切り始めた。
開店してから程なくして、お客さんが入ってきた。鳥海がいらっしゃい。と親しげに声をかけるのが聞こえてきたので、ちらりと森が厨房から顔を覗かせると、入り口にいたのは常連客のカップルだった。物陰から顔だけ出している森に気がついて、彼らは微笑みながらそろって軽く頭を下げてきてくれる。森も会釈を返しながら、口元をほころばせた。
彼女の方は近所に住んでいる女の人で、一緒にいるのはその彼氏は、彼女を喜ばせようとこっそりここにケーキを習いに来たこともあった。
相変わらず仲がよさそうだなぁ。と森が思っていると、オーダーが入ってきた。春キャベツとアンチョビのパスタに、トマトスープとオムレツのワンプレートセット。遅い朝ごはんか早めのお昼だろうか。そんな事を思いながら森はフライパンを火にかけた。
スタッフの女の子にサラダやスープやらを用意してもらう傍らで、パスタを茹で始め、アンチョビとキャベツとベーコンを炒めて塩味のパスタソースを作って、その横で用意してもらった卵液に具を入れてバターを溶かしたフライパンで形よくオムレツを焼き上げる。
春キャベツの甘い味とベーコンとアンチョビの塩味に、トマトスープの程よい酸味に卵の濃厚な味。
出来上がった商品を、お願いします。と鳥海に渡して提供してもらい、新たに入ってきたお客様のオーダーを受け取り、再び森はフライパンを振るった。
例のカップルに食後の飲み物を用意して、丁度鳥海が他のお客様を接客中だったので、森が持ってゆくと、二人の会話が耳に入った。
「でさ、メーちゃん。あの、」
言いづらそうに彼氏のほうが言葉を紡ぐ。その歯切れの悪い様子に彼女のほうが怪訝そうに眉をひそめている。
「あの、今日、映画が終わったらさ、指輪を見に行かない?」
そう、思い切ったように彼氏のほうが言った。あらついに結婚秒読みなんだね。と森が思っていると、彼女のほうがそっけなく首を横に振った。
「何で!?」
と声を上げる彼氏に、彼女がほんの少し怒ったような表情で口を尖らせて言った。
「だってカイト、まだ私の事を、メイコって呼び捨てにできてないじゃない。」
「えー、、、。」
彼女の言葉に彼氏が不服そうな声を出す。なんて可愛らしい。もう少しこのやり取りを聞いていたいところだけど、と笑いをかみ殺しながら森は飲み物を提供した。
「どうぞ、ごゆっくり。」
そう森が告げて、背を向けると、だけど、と彼女が言うのが聞こえた。
「だけど、まぁ。指輪、下見ぐらいはしても良いかもね。」
照れと恥じらいと、くすぐったいような喜びを含んだ彼女の声に、彼氏のほうが喜び全開の声で、うん。と言った。
おめでとうございます。と厨房に入りながら森は心の中で呟いた。
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