小さなカフェのテラスでカップを傾ける午後。目の前でルビーの色に輝く紅茶の香りを楽しんでいた深緑の髪の少女が顔を上げ、明るいエメラルド色の瞳を輝かせて、はにかんだ様に微笑んだ。
恐ろしいほどに整った幸福は、彼女にとってこれ以上に望むものなどないほどに満ち足りたときを与えてくれているらしい。
「大学を出られたお兄様にこんなところで再会できるだなんて、夢にも見ませんでした!」
嬉しそうに笑みを浮かべる少女。幼いころに、ほんの少し会っただけの、今は争いあう遠い遠い親戚筋。本当なら、今は会うことさえ許されない。僕は外国の大学を出て家へ戻り、そうして出席した舞踏会で偶然、彼女と再会し、そしてこうして個人的に会うまでになった。
幼いころに「おにいさま」と呼んだそのままに、彼女は今も僕を呼ぶ。彼女の父と、僕の父が、今どれだけ泥沼の醜い争いをしているか知りもせず。
……そうだ、彼女は知らないのだ。僕たちが出席した舞踏会で、なぜ僕たちが偶然出会うことができたのか。
偶然……偶然など、この再会に微塵もありえない。しかし、それは今、幸福の只中にある彼女にとってまさに「夢にも思わない」状況だろう。
なぜなら彼女は、大切に大切に、豪奢なかごの中で守られて育てられた、大切な、大切な……「お人形」なのだから。
僕の家は古くから続く貴族の家系で、王の覚えもよく、権勢の衰えも知らない。だがそんな家に生まれれば、当然他家との権力闘争を知らずにおく事は許されず、僕はいまだ父の生気が溢れんばかりであるにもかかわらず……いや、そうであるからこそ、父と、父の敵対する家との権力抗争に巻き込まれた。
相手の家はもともと我が家とその源流を同じくし、僕が幼いころ――確かあの家にも一人娘がいたはずだ、一緒に遊んだ記憶がおぼろげに残っている――には、それなりの親交があった。それが、僕が大学を出て家へ帰ってきてみれば、互いに憎みあい、足の引っ張り合いをしている。一体何をしたらここまで憎しみあうことができるのか、僕には理解しかねるのだが、それでも我が家の……将来的にはおそらく、僕が次期当主を務めるのであろう家の現当主であり、政治手腕に長けた父の主張を、僕が聞かないわけにいかなかった。
「あの家には、お前と歳の近い娘がいたな」
ある日書斎に僕を呼びつけた父は、一言二言僕の近状を興味もなさそうに問うた後、今思い出したとでもいうようにそういった。深いブラウンがしみこむようになじんだオークのワークデスク。背後に書籍の詰まった同色の書棚を従えて、沈み込むように座ったまま、目の前で立たされその声を聞いていた僕を見上げる父の瞳は、息子である僕が言うのもなんだが、ぎらぎらとした生気にまみれて、あと数百年は楽に生きられそうな印象だ。もしかしたら僕が先に死ぬのではないだろうか。
父の言葉に返事をしながらそんなつまらないことを考えて、僕は内心ぞっとした。否定する要素が見つからない。
しかし、そうならば僕がこの家を継がずとも、そのうちもっと優秀な人物が現れてそのうち怪物のようなこの父を退け、この家をしっかりと守っていってくれるような気もするけれど。
家具という家具をワークデスクと同じ素材、同じ色で統一した、広いくせに色彩の乏しい、その上ありとあらゆるものが僕を威圧する――もちろん、その筆頭となっているのは僕の目の前でまさに今、僕に威圧的な視線を投げている、僕の父親だ――この部屋で、父は僕に何を命じようというのか。
「おっしゃる意味がわかりません」
小さな声でそう答えると、興ざめした、とでも言うように父は鼻を鳴らした。
「何のために大学まで出してやったと思っている? 王家との繋がりが深ければ深いほど我らの権勢もまた大きくなる。娘という存在がどれだけ重要かわからんか」
一応正しておきたいが、僕は別に父の期待に沿いたくて大学を出たわけではない。だが父にとって僕は将来的にこの家を継ぐ予定のある、自分の政治抗争を有利に進めるツールであるというその露骨な表現に、僕自身抗弁するだけの甲斐性はなかった。
「……その娘と、接触を?」
しばらく黙り込んだ後、僕の返事を待っているらしい、同じく黙り込んだままの父を見返し、口を開く。彼女から相手の家の事情を聞きだす、あるいは、彼女が王と接触を果たす前に、僕という虫をつけてしまうか、もっと露骨に言ってしまえば、僕という名前で彼女という玉を傷物にしてしまえということらしい。
……そんなことをしてしまえば、この家もただではすまないだろうに。
だがそれだけ、事態は切迫しているということか。
「意図してお前が会いにいっては勘付かれる。うまく機会を設け、ぎりぎりまで娘にもお前の正体を勘付かせるな。娘に知られた後も……わかってるな?」
無茶な要求だ。そう、思いはしたものの、僕に拒否権は皆無だった。
「……努力、してみます」
しかし、とてもお任せくださいと胸をたたく気にはなれない命令に、自然と僕の答えも後ろ向きになる。それを聞いた父はまた不興げに鼻を鳴らした。
「わしを失望させるな。わしの未来がなくなれば、お前の未来もまたないのだ」
一蓮托生を宣言されてこれほど絶望を覚える相手もいない。だがそれを口には出さず、僕は静かに頷いて踵を返した。
その数日後、偶然を装ってセッティングされた舞踏会の席で、僕たちは「偶然」再会した。
「お兄様のお父様と、私のお父様も、きっといつか仲直りしてくださるわ。そうですよね?」
弾んだ声で明るい未来を語る少女。子供らしい無垢さと、女性らしい美しさが並存する芸術的な美。再会した瞬間に当時の仲睦まじさを思い出してくれたらしい彼女に、出会ってすぐ「幼いころに一緒に遊んだ、お兄様でしょう?」などといわれたときは、本当に動揺した。正直、おぼろげにしか記憶にない幼い少女が、まさかこんなにも美しい女性に変貌することになるとは。その驚きと、その少女が親しげに僕を「お兄様」と呼ぶ事実に、一瞬自分が彼女に声をかけて振り向かせたことも忘れて返事をし損ねたくらいだ。慌てて僕の家と彼女の家の関係を説明して、できることなら今日ここで再会したことは伏せてくれないかと頼むことができた程度。われながら、情けない話だ。
だが、そこから先は不気味なほどにうまく行っている。
彼女は僕たちが「偶然」再会したということに何か特別なものを感じていると言うのか、僕が、家の関係にかかわらず、また会うことができればいいのにとつぶやくと、本当にそうだと強く同意を示した。実際こうやって僕の呼び出しに答えて素直に連れ出されてくれる。
僕は紅茶のカップをソーサーに戻し、静かに微笑んだ。
「……本当に、君のお父様と僕の父上が、手を取り合ってまだお若い陛下を支えるようになれば、どれだけこの国のためになるか」
「もう、お兄様ったら口を開けば『この国のため』ばかり」
つんとあかい唇を尖らせた少女は、左右に分けて結った深緑の髪をさらりと揺らしてほう、と小さくため息をついた。
「……私は、早くお二人が仲直りしてくだされば、お兄様に会うときも、こうして隠れることなどしなくていいと思っていたのに……」
「何か……言ったかい?」
彼女の小さなぼやきはもちろん僕の耳に届いていたけれど、それは聞こえないふりをして、僕は首をかしげて聞き返す。その瞬間、彼女は恥ずかしそうにほほを赤らめ、僕から視線をそらした。
「な、何でもありません、なんでも……」
「――そう、なら、いいのだけど」
言ってから、僕は紅い紅茶の映える真っ白なカップの弦に指をかけ、言葉を継ぐ。
「君の家の方は、何か変わったことはないかい?」
さりげなさを装って問いかけた言葉に、僕が何を目的としてそんなことを聞いているのか知りもせず、彼女は小さな頭をかすかにかしげて見せ、それからやわらかな口唇を開いた。
「さあ……ただ時折、使用人たちが慌ただしく仕事をしているのが見えるくらい……。でも、いつものことと言ってしまえば、それまでなのですけれど」
「……近々、何か特別なことでもあるのだろうか。心当たりがないのかい?」
ええ、とうなずく少女の申し訳なさそうな顔色に、なぜだか胸が痛んだ。
「こうして気遣って下さるお兄様には本当に申し訳ないことなのですけれど、お父様はお仕事のことになると、私やお母様にも話をして下さらないから……」
僕の問いかけを純粋な好意だと思っている、無垢で穢れを知らない籠の鳥。それは愚かでしかないのだけれど、その信頼をまっすぐにぶつけてくる可憐な少女を、僕は愚かと嘲ることができなかった。むしろその純真さがまぶしくて、自分の方が惨めな生き物であるような気がしてくる。実際、父の言いつけでこうして間諜のまねごとようなことをやっている時点で、僕の立場は危うい上にこの上もなく惨めなのだ。そして何よりも、なぜか僕は、彼女を呼び出し、彼女と人目を忍んで話をする、という行為を、いつしか楽しむようになっていた。
結論からいえば、そういう状況になってしまっている自分自身の方が、彼女などよりよほど愚かだというほかない。彼女に近づいた目的もそっちのけで、スリルのあるゲームを楽しんでいるのだから。
――ゲーム? いや、ゲームにしては僕の姿勢は熱意がこもりすぎている。なにより、彼女と会うその瞬間は、黄泉に続いているかと思われる暗澹と色彩のない僕の家……特に、父の書斎のあの陰気さを忘れることができた。彼女といれば、全ての色が命をもって輝きだす。特に彼女の瞳は宝石のように輝いて見える。
これはいったいどうしたことだ? 自分でも自分を扱いかねて眉をひそめると、僕はその顔色を隠すつもりで、ポケットに入れておいた懐中時計を取り出した。
「――いけない、もうこんな時間だ。そろそろ帰らなくては、君のお父様に勘ぐられてしまうね」
「もう、お別れなの?」
寂しそうに僕をうかがうその瞳に一瞬くらりとめまいを覚える。いけない。何を酔っているのだ。
立ち上がりながら、僕は表情を隠し、上からなだめるような微笑みを張り付ける。
「また連れ出すよ。君がそれを望むのなら」
「嬉しい……お兄様、まるで騎士様のようだわ!」
それは光栄だ、と僕は軽く応じた。連れ出す僕の気分はいつだって、姫を誘拐する盗賊だか山賊だかになったようで、ひどく情けないというのに。
――問題は、彼女にそうと言われ、まんざらでもないと思ってしまう僕の現金さなのだろうか。
「――お兄様」
馬車へ向かう少女をエスコートすると、幸せ以外を知らぬ彼女は深緑の髪を揺らして輝かんばかりの笑みをこちらに向けた。
「早く仲直りしてほしいと思うけれど、でも、たとえお兄様のお父様と、私のお父様がどれだけいがみ合っていたとしても、私はいつだってお兄様の味方よ」
言うなり、ふわりと微笑みを深くして小鳥のように僕の頬へ顔を寄せる。
一瞬だけ頬に感じたやわらかな唇の感触。麝香のはずなのに、森の中を歩いているかのようなさわやかささえ感じるコロンの香り。驚いて凍りついた僕からすぐに身を離し、彼女はいたずらっぽく微笑んで馬車へ乗りこんでいった。
「……そんなはしたないことをして、僕をからかうのはやめてくれないか?」
ようやく自失から覚めてそれだけ口にすると、馬車の中から振り返り、少し不満げに少女はほほを膨らませる。
「あら、この人と決めた相手にするのなら、別にはしたない行為じゃなくてよ」
言い終えると、彼女は僕の反駁を受け付けぬといわんばかりに戸を閉めてしまう。そのまま走りだした馬車を呆然と見送って、僕は複雑な気分にとらわれた。
小鳥は罠にかかりつつあるのかもしれない。籠の中で大切に育てられた、幸福を歌うことしか知らぬ可憐な鳥は、それが罠であることにも気がつかず。
あの美しい小鳥が罠にかかり、絶望と悲嘆の涙をこぼし、羽根をへし折られもう飛べなくなったその姿で、初めて絶望の歌を歌うその瞬間、父は勝鬨の声をあげるだろう。
その瞬間、僕があげる声はどんな声なのだろう?
小鳥をとらえた狩人としては喜ぶべきなのか。しかしあの美しい小鳥の羽根をへし折るよりも、新たなかごに入れて大切にしたい。
そこまで考えて、僕は頭を振った。なんて病んだ思考だ。あの娘が僕に抱いているのは、幼馴染の「優しいお兄様」への親しみであって、それ以上のものではない。ともかく今は屋敷へ帰り、父へ「異常なし」の報告を済ませよう。小鳥が罠にかかりつつあることなど、父に知らせる必要はない。幼いころに遊んだ「優しいお兄様」を、彼女は最低限憎からず思っているらしい、その程度で十分。
……それで、十分。
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*
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藍流
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