賓客らを迎える広間の明かりは、その歴史ある屋敷にはいかにも似合いの抑えた明るさだった。
無数の光を灯す銀の蜀台は華美ではないが隅々まで磨きこまれ、瞬く炎が揺らめくたびに天井や調度の片隅に不思議な影を作り出す。
壁際に下ろされた幕の向こうでは、既に集まった客人の会話の邪魔をしない程度に管弦楽の音がゆったりとした曲を奏で、あとは衣擦れと客人同士で交わされる挨拶や会話の声だけが、さざ波のように辺りに満ちていた。
今宵、一堂に集ったのは、名立たる名門貴族から新たに身を立てたばかりの新興貴族まで様々な顔ぶれ。
家柄も権勢も年齢も多様な彼らに共通していることは、たった一通の招待状によって選ばれた者たちだということだった。
白い薔薇を添えて届けられた、その封筒に導かれた客人らが、この屋敷の門を潜るのは実に二十年ぶりのこと。
首都を離れ、馬車で二刻ばかりは掛かるような距離にあり、それも故あって長く門戸を閉ざしていた古屋敷からの久方の招きは、その所有者たる家名ゆえに国中の貴族の話題を攫った。
――ボカロジア。
古くはこの地に存在した大帝国の公爵家とその領土に端を発する、周辺諸国でも有数の歴史を持つ大国の君主一族が家名である。
自らの治める公爵領を公国として独立させた初代大公から始まり、賢君と名高い名主を多く輩出する一方で、輝かしい歴史の裏に常に疑惑の黒い影を纏う、明暗共に名高き一族――。
その光と影をあらわす最たるものが、かつては夜毎に催された、かの一族の夜会だった。
当時、貴族たちの間で『死の夜会』と囁かれたそれは、夜会に招待された大勢の客人らの中から、決まって一人の死者が出るという曰くつき。
その死の要因は様々でありながら、夜会の後、数日から数ヶ月の間に呪いの如く客人の誰か一人に必ず降りかかるという。
無論、そのような事態が幾度も重なれば、謀の気配を疑いたくなるものの、どれもが事故や諍い、老衰や病死と相応の理由を挙げられては、疑惑は疑惑の憶測を出ないまま。ましてや、かの家以外でも、同様に催される夜会は数多く、その中にもそれなりに後ろ暗い影がみえるとあっては、滅多なことを言えば自らの身にも災いが降りかかりかねないと口をつぐむ者が大半だった。
何より、そのあやふやな疑惑をねじ伏せて余りあるほど、かの家の招きにあって犠牲を免れた客人らには、それぞれに華々しい栄達が約束されていた。故に、かの一族に含むところのない者は、こぞって招待を待ちわびてもいたのである。
その歓喜と恐怖とに彩られた夜から、二十年――。
長い沈黙を破って届けられた、白い薔薇と招待状は往時のままの優美さで世に姿を現した。その影にかつてと変わりない薄暗さをも纏いながら。
招きに応じ、集まった客人らもまた、かつての如く一様に期待と不安の入り混じった瞳で、招かれたもの同士、互いを探り合う様子だった。
ともすれば不穏にもなりかねないその影を繕うように隠しているのが、人々の顔の半ばを覆う仮面――屋敷の門を潜る際、客人ひとりひとりに手渡されたもの。
羽や宝石で美しく飾られたそれらを、半数ほどは勧められるまま身につけ、半数ほどは戸惑いがちに手の内に弄んでいる。
「変わった趣向ですな」
口々にそう言いながら、ちらちらと人々の視線が向くのは広間の奥の一角。
設けられた席は、恐らく当主の座であろうが、未だ空席のままにある。
そろそろ頃合かと思われるのに、いっかな姿を現さない主賓に、客人の一人が懐中時計の時刻を確認して、首を捻った。
「どうしたと言うのでしょうね、お支度が遅れてでもいるのでしょうか」
「まさか。ボカロジア家ともあろう方々が」
独り言に近い呟きに、別の声がまた呟く。
「ですけれど、あの方とは違い、ご妻子は……ほら。こういったことに不慣れでいらっしゃるでしょうから」
微量の毒を含んだ笑いに続いた者。眉を潜めた者。
それぞれに貼り付けた笑顔の仮面の下から、悪意や好意の影が微かにちらつく。
その合間を影のようにすり抜けて通り過ぎた、一組の男女の存在に気づいた者はわずかばかりだった。
これもやはり仮面に素顔を隠した、背の高い男性と、その腕に手を掛けた連れの女性。
ありふれた組み合わせながら、女性の方はドレスの上からゆったりとした薄絹を幾重にも重ね、結い上げた髪からも同じように薄絹を垂らした、どこか異国を思わせる見慣れない装い。顔立ちは仮面に覆われて定かではないものの、薄絹越しに透ける身体の線は細く華奢で、まだ年若い少女かと思わせる。
けれど、それよりも周囲の目を惹いたのは彼女の髪に飾られた、髪飾り――。
「あら……ねぇ」
「まぁ……」
真っ先にそれに注目したのは女性客らだった。
「蒼い薔薇だわ……」
驚きを含んだ言葉の通り、その髪飾りに使われている薔薇は、見事な深い蒼色をしていた。
彼女らの中にも、細工物はもとより生花を身に飾った者も少なくはないが、あのような色の薔薇は見たことがない。
「本物かしら、作り物には見えませんけれど」
「まさか。あんな種類の薔薇は聞いたことがありませんわ。でも、よほど腕の良い細工師を抱えているのね……一体、どちらの家の方かしら」
少しの羨望と多大な好奇心を持って伺い見る貴婦人たちの興味が、世にも珍しい薔薇から、その花を手中にするだけの財力と格式を持つだろう彼女の家柄に移る頃合、静かに広間の中央近くへ至った男女は歩みを止めた。
男の片手が上がり、それを合図に流れていた音楽が止まると、それまで彼らの存在に気付いていなかった人々の視線が俄かに集中した。
注目の中、先に仮面を外したのは男性の方だった。
露わになった容貌に一部の客人らがざわめく。
まだ若い青年の、怜悧な容貌。連れの女性の身に飾られた、その薔薇と同じほど、深き蒼を纏う髪と瞳。
公子、と囁く声がちらちらと漏れ聞こえる。応えるように青年が仄かな微笑を浮かべると、妙齢の貴婦人らがこぞって色めきたった。
「ようこそ、皆様。今宵は遠路をお越しくださいました。当主に代わり私より御礼申し上げます――」
耳馴染みの良い、もの柔らかな声が広間に響く。
公子と呼ばれた彼の身分は公爵子息ではない。公国の形式を取るこの国の、君主たる大公が子息である。
面差しは父親とよく似通っていながらも、鋼のごとき大公とは性質を異にする柔和さを持った青年だ。
老輩にはそれを軟弱と侮られる向きがあるものの、政策では能力重視の革新派として年若い官僚を中心に次第に支持を集めつつあると評判だった。
「――何分、今宵は私的なご招待のこと。久しく人を招く機会のなかった田舎家のもてなしではありますが、どうぞ心ゆくまで寛いでお過ごしください」
身分にそぐわぬ控えめな物言いが、それでも卑屈に聞こえないのは、その口元に刻まれた臆したところのない笑みゆえか。簡潔な挨拶の終わりと共に、止まっていた演奏が再び始まる。
軽快に鳴り出したそれによって、やっと始まりを告げた宴に、肩の力を抜いた客人たちの間で軽い笑い声と拍手が起きた。
そこかしこで始まった談笑に、青年の周りでも既に見知った顔の貴族らが言葉を交わそうと集まり出す。
その輪を一歩先に抜け、ひとりの貴婦人が彼に近付き、声を掛けた。
「お久しぶりですわね、カイザレ様。ご健勝で何よりですこと。……けれど、妙ですわね。今宵の主役は、大公閣下のご子息ではなく、ご息女だと聞き及んでおりましたのに」
吊り気味の眦に、くっきりとした目鼻立ち。仮面は不要とばかりに素顔を晒した、盛りを過ぎてなお衰えを感じさせない美貌の女性客に、若き公子は丁重な礼をもって応えた。
「お久しく存じます、侯爵夫人」
「今日は妹君はおいでになりませんの? それとも人前は苦手でいらっしゃるのかしら。皆、今宵は公女殿下にお会いしたくて、ここまで来ましたのに」
いかにも気の強そうな片眉を上げ、ちらりと彼の隣、未だ仮面を纏ったままの連れの女性に挑発的な視線を向ける。
「室内で仮面というのも随分と変わった趣向ですけれど、公女殿下はよっぽどお顔を見せるが恥ずかしくていらっしゃるのかしら」
女性が隣の青年を伺うように見上げた。
耳元に唇を寄せた青年の一言、二言の短い言葉に頷き、自らの仮面を取り払う。
途端、周囲から一斉のため息が洩れた。
「あれが、大公閣下のご息女か」
「さすが、ボカロジアのご一族はお美しいこと」
仮面の下から姿を見せたのは、連れの青年よりも、なお年若い少女だった。
年の頃は十三か十四か。長い睫毛に縁取られ、湖水のような深い色を湛えた大きな瞳が印象的だ。
結い上げた長い髪や、たおやかな仕草を見せる指先は紛れもない貴婦人の気品と優雅さを湛え、同時に危ういほどに細い首筋や頤が、抜け切らない年相応の幼さを伝えている。
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