巡る因果
自身の悲鳴が耳に届き、リリィは目を覚ました。見慣れない天井が真っ先に映る。瞬いた拍子に涙が零れて、泣きながら寝ていた事に気付いた。涙を拭いながら身を起こす。
ここは王都外れに建っていた空き小屋。焼け野原となった貧民街の方へ逃げる最中に偶然見つけた廃屋だ。辺りに人気は無く、一時的に身を隠すにはうってつけだった。
やや離れた位置で仰向けになっているレン王子へ目を向ける。床に敷いた外套の上で目を閉じる彼は、まだ意識を取り戻していない。打ち込んだ手刀が強すぎたのか、それとも気絶したままの流れで眠ってしまったのか。後者であって欲しいと考えて、リリィは荒く息を吐いた。
「何で、今になって……」
レン王子に拾われてからほとんど見なくなっていた悪夢。家族も故郷も失った時の事は、十年経っても忘れようがない。いや、一生忘れはしないだろう。
黄緑の悲劇と呼ばれる虐殺事件。国境近くの町を襲ったのは黄の国だとされているが、真実はまるで別物だ。
どっちが勝っているのか負けているのか分からない、泥沼化した戦争。長引く戦に黄も緑も疲れ切って、士気は下がりきっていた。
そんな戦争末期、緑の国は最悪の下策に手を染めた。兵達の戦意を高揚させる為、黄の国の兵に偽造した部隊で町を襲い、民を虐殺し、それを敵国の仕業だと捏造したのだ。
自作自演の効果はてきめんだった。事実を知らない緑の兵達は怒りに燃え、黄の先兵を即座に全滅。そして、現場に駆け付けた黄の国騎士団長バルトを討ち取った。
緑の国はこの勢いに乗って黄の国へ攻め込むつもりだったとリリィは推測する。黄が責任を認めても否定しても、緑はそれを口実に戦争を続けていた。大義は被害者の自分達にあると主張して、終わらない戦争にうんざりしていた民衆の声を聞かずに。
誤算だったのは軍の要だった将軍がバルト団長と相討ちになった事と、黄の国王レガートが休戦を持ちかけた事だ。緑のウィリデ王や主戦派は相当地団駄を踏んだに違いない。宿敵を滅ぼす絶好の機会を得たのに、黄の国は休戦を提案したのだから。
戦争を継続すれば疲弊した民衆を敵に回すと、緑の馬鹿連中はレガート王の提案でようやく気が付いた。そして休戦協定が結ばれ、十年前の戦争は終わったのだ。
リリィは故郷を逃げ出してからの過去を思い返す。名字は東側に来てすぐに捨てた。名字を含めて名乗った途端、周りの態度が急に冷たくなったからだ。母が付けてくれた『リリィ』の名前だけなら、貴族の出だとばれる事は無かった。
緑の兵が町を襲った理由を把握したのは、あれから何年も経ってからだった。暇と余裕がある時に考えては、答えが分からずに思考を放り出すのを繰り返して、やがて辻褄の合う筋書きに辿り付いた。路傍に蹲ってその日を過ごしていた頃だ。
レン王子の元で働き出してから、緑の国が真相をもみ消しているのを知った。緑は虐殺事件の責任を黄の国になすりつけて真実を隠蔽し、自分達は被害者だと同情を引いているのだ。
憎くて堪らない、だけど八年は暮らしていて、父が生まれた西側。あの戦争を経て何か変わったかもしれないと僅かな期待を抱いたが、西側はリリィを更に失望させた。
相変わらず他民族を差別する排他主義。その上露骨な選民意識。レン王子の従者として初めて緑の国へ訪問した際、何も学ぼうとしない緑に落胆したのは昨日の事のように覚えている。
レン王子への傾倒は、西側に対する諦めの影響もあったのかもしれない。
「う……」
身じろぐ音と呻き声を聞き付け、リリィは我に返る。固い床が不快なのか、レン王子が顔をしかめて目を覚ました。天井を見上げていた彼は、ややあってから呟く。
「何だ、ここ……?」
上半身を起こすと同時に全身が痛む。肩や首を回して、レンは怪訝な表情で左右を確認した。何故か傍にいたリリィに驚き、立ち上がる彼女に向かって口を開く。
「リリィ、どうなって」
気を失う前の状況が脳裏を駆け抜け、レンは慌てて周囲を見渡す。自分の他にいるのはリリィだけだ。
双子の姉がいない。片割れの姿が見えない。胸の内がざわめく。
「リンは……、おい! リンはどうした!?」
王子の外聞や秘密をかなぐり捨てて問いかける。遅かれ早かれリリィに話さなくてはいけない事、今更リンを偽名で呼ぶ気も無かった。
食って掛かる口調で言われ、リリィは無言で目を落とす。粗末な部屋を静寂が包み、認めたくない現実がレンに圧し掛かる。
「なあ、リンはちょっと出掛けてるだけなんだろ? 少し経てば戻って来るんだろ?」
願望なのは承知の上。それでもレンは努めて明るい口調で聞いた。しかしリリィは思い詰めた表情で答えない。唇を一文字に結ぶ彼女へ、レンは縋るように声を上げた。
「答えろ、リリィ!」
王子の命令とも取れる叫びに視線を上げ、リリィは声を震わせて答える。
「リンは、ここにいません」
短い一言。それで充分過ぎた。レンは見えない鈍器で殴られたような衝撃に襲われ、嘘だと胸中で連呼する。しかしリリィの態度に偽りはない。彼女は言葉を続けた。
「多分、もう革命軍に……」
悪ノ王子として捕まった。説明を最後まで聞かなくでも分かっていた。だけど他者に告げられるのは想像以上に重く、頭の中が真っ白になる。
リンが、殺される。俺の代わりに。俺のせいで。
視界の隅に映った剣へ手を伸ばし、レンは勢いよく立ち上がった。外套を踏みつけて小屋の入口へ駆け出そうとした瞬間、肩を掴まれて足を止められる。
「どこに行くつもりですか」
感情を押し殺した質問に、レンは振り向きもせずに返す。
「リンを助けに行く。手を離せ」
「レン様を王宮へは行かせません。ここに隠れていて下さい」
左手首を握られて押さえられる。リリィの言動は身を案じての事だと理解していた。だが苛立ったレンは感情任せに吠える。
「うるさい離せ! リンが捕まってるのに指くわえてろって言うのか!」
強引にでも前へ進めない。いくら武術の心得や身長差があると言っても相手は女子。年下でも男の自分がどうしてリリィを振り解けない。
認めたくなかった。リンが犠牲になるのも、リリィに敵わないのも、悪ノ王子の己が死に損なったのも、全部。
「俺なんか生きる資格無いだろ!」
「いい加減にして!」
背後から怒声が響き、不意に体を引っ張られて反転させられた。唐突の行動に驚く間もなくリリィと向かい合わせになり、胸倉を掴まれて壁に押し付けられる。
「てぇ……」
背中を叩き付けられて一瞬息が詰まり、衝撃で思わず剣を取り落とした。壁が軋む音を耳に入れながら、レンは眉を寄せて怒鳴る。
「何するんだ!」
邪魔するなと睨みつけてもリリィは怯まない。彼女は両手を離さないまま、レンの目を見据えて言い放つ。
「そうやっていつも自分の命を軽く扱って! リンや近衛兵隊がどんな気持ちで王宮に残ったか分かんないの!? 貴方を命懸けで守った人達は、貴方が犠牲になるのを望んでない!」
「なっ……」
相手の腕を掴むレンは絶句する。王宮から脱出する寸前に見たリンと、間近のリリィの姿が重なった。
「貴方は沢山の人を助けて守って来たのに、どうしてそれから逃げようとするの? 何で目を逸らして認めようとしないの!?」
「お前、何言って……」
レンが反論しようと口を開く。自覚の無い王子に、今度はリリィが苛立つ番だった。
「貴方のお陰で生きている人間がここにいる! 助けた命に胸を張れ、レン・ルシヴァニア!」
一気に伝えたリリィは下を向き、髪が垂れて顔が隠れる。彼女がどんな表情をしているのかレンには見えない。
レンの目に広がっていた険が引いて行き、力の抜けた手が両脇に下りる。俯いたままのリリィは、顔を上げずに訴えた。
「俺なんかとか、生きる資格ないとか……っ、そんな事言わないでよ」
肩と腕が細かく揺れている。痛んだ床に水滴が落ちた。
「お願い、だから……」
悲痛な涙声がレンの耳に届く。自身の言動がリリィを悲しませていたと痛感して、レンは目を伏せる。
否定される痛みにかまけて、自分を大切に思ってくれている人達に気付いていなかった。孤独に閉じこもって背を向けて、リリィや近衛兵隊の気持ちを考えようともしなかった。
手を差し伸べている人がいる。独りじゃないとリンが言ったのは、それを伝えたかったんだろうか。
「……ごめん」
謝罪を口にした直後、胸倉から力が抜けた。解放されたレンはずるずると腰を落とす。床に座った彼へ、軍服の袖で涙を拭ったリリィが頭を下げた。
「出過ぎた真似をしました。お許し下さい」
「良いよ。頭が冷えた」
レンは顔に手を当てて溜息を吐く。彼が落ち着きを取り戻したのを見て、リリィはレンから離れて床に屈み込む。踏まれて波打つ外套の傍に転がっていた鞄を引き寄せ、勝手に中身を確認させて貰ったと詫びを入れた。鞄に入っているのは、リンが持たせてくれた逃走資金である。
「買い出しに使わせて貰っても?」
「構わない。頼むよ」
許可を求められたレンは頷く。軍服姿のリリィが金を持っているか疑問であったし、王宮暮らしの自分が多額の金を上手く使えるかも怪しい。食料等の調達は、買い物に慣れているリリィに任せた方が安全だ。
「小屋から出ないで下さいね。付いて来たら駄目ですよ」
腰を浮かしかけたレンに釘を刺し、リリィは立ち上がる。メイド服姿の王子は、軍服を着た侍女に大人しく従った。
リリィの言い方はまるで子どもをあやす母親。もしくは弟や妹の面倒を見る姉である。仮にも主としてレンは叱責するべきなのかもしれないが、怒る気は湧いていなかった。
もう王子じゃない引け目からなのか、リリィの態度が王宮にいた時と変わらない事に安心しているからなのか、それはレン自身にも分からない。
入り口に歩を進めたリリィは、傾いたドアを開けようと手を当てる。
「あっ、そうそう」
彼女はレンに向き直り、微かな笑みを見せた。
「騒いでも誰の迷惑にもなりませんよ。周りは何もありませんから」
「はあ?」
レンは不審を露わにして首を傾げる。リリィはいきなり何を言い出すのだろう。一人で騒ぐ気も予定も無いのだが。
王都の様子も見て来ると呟き、リリィは外へ出て行く。ドアが閉まるのをぼんやりと眺めたレンは、かけられた言葉に返答する。
「訳分からん」
壁際から移動して外套の上に腰を落とす。独り言が廃屋に流れて数分。手の甲に雫が当たる感覚がした。間を置いてもう一度。雨が降って来たのかと天井を見上げたが、雨漏りなどしていない。壊れた小さな窓からは明るい光が差し込んでいる。
「何だ……?」
頬を伝う感触。無意識に手を当てれば指先が濡れていた。汗かと思ったが、擦って拭いても止まらない。
レンは潤んだ目を見開く。自分が泣いているのが信じられなかった。ずっと出なかった涙が両目から溢れている。嗚咽して堪えていたが、間もなく耐えきれなくなって号泣し始めた。
慟哭が響き渡る。六年前、リンと別れて以来の涙だった。
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