詩人は67階層目で朝霧草の白澄み紅茶を一口飲んだ。
「イア、ようやく起きたのですか」
 呼ばれた瑠璃色瞳の乙女は、静かな足取りでやってきて、それから、ぶんぶんと首を横に振った。膝下まで伸びた淡いベージュ髪は、少女が動くたび、ゆったりと揺れている。
 詩人がようやく大穴の入口にたどり着いたのは、一か月も前のこと。ちょうど大雨が降り出した日のことだった。乾季を一目見ておきたかったが叶わなかったようだ。今はもう紅茶の薄まる季節になってしまっている。
「冗談がうまいですね。雷が怖くて、ずっと宿から出られなかったものですから、食事を届けたのを覚えていますよ」
 少女は必死に否定するように、またぶんぶんと首を振る。詩人はくすりと笑って空を仰いだ。
「イア、見てごらん。これが噂の雨舞い踊る季節ですよ」
 少女が上を向くと、雨粒達は、ゆっくりと落ちてきて、彼女の知らない軌跡を辿りながら、紅茶の水面に幾つもの輪を生んだ。雨粒達は顔を濡らしていく。少女はわぁ、と感嘆を零した。
「雨?」
「雨はどこから降りますか?」
「雲?」
「それならば、今、雨は降っていませんね」
 少女は首を傾げた。宝石のような瞳はきょとんとしている。
 詩人は微笑んで味の薄まった紅茶を一口飲み、それから、もう一度空を見上げるよう勧めた。
 少女は空を見上げた。舞い踊る雨粒達の向こうで青い空が広がっている。
「今、私達が見えているあの青い空は、実は空ではありません。この大穴の周辺には魔鉱石が無数に埋まっているのですが、どうやらそれが水と同じぐらいの浮力を生み出しているそうです。けれども、ところどころ魔力が薄いところがあって、その小さな隙間を辿って雨粒は雷のように踊りながら落ちてくるのです」
 少女は顔を曇らせて身を縮こませた。余程雷が怖いらしい。
 詩人はまたくすりと笑った。彼女の頭を優しく撫でる。それから、淡い緑色に光る石を取り出した。
 少女は受け取って、物珍しそうに石を見つめる。
「近くの魔法具店で買ってきた石です。手に持って強く握ってみてください」
 言葉通り少女が石を握り締めると、ふと体がふわりとした。詩人が、机が、紅茶が、ゆっくりと下に落ちていく。けれども、そうではない。少女がゆっくりと浮き上がっていた。
 驚きと恐怖で少女はまた縮こまる。
「慌てて石を離してはいけませんよ。ゆっくりと握る力を弱めなさい」
 言われて少女が従うと、ゆっくりと詩人が近づいてきて、やがて足が地に着いた。そのまま、半泣きで詩人に抱きつく。
「おやおや、そんなに怖かったのですか。失礼なことをしてしまったようですね」
 詩人は少女を片手で抱きしめながら、一層味の薄まった紅茶を一口飲んだ。
「ほら、イア、見てご覧なさい」
 少女は抱きついたまま、顔だけを詩人が指さす先に向けた。
 大穴の深遠まで、無数の橋が幾重にも掛かっている。その上を馬車や牛車が走り、人々は少女と同じ石を持って、橋から橋へ飛び渡っている。
 彼女は詩人の手から抜け、地の淵に立って、下を改めて覗き込んだ。穴は底が見えないほど果てしなく続いている。太陽が注ぎ込まない大井戸の底で、緑の魔鉱石は、移動手段と灯りの両役を任されて、世界を若草色一色に染め上げている。
 わぁっと、少女の口から、思わず感嘆が漏れた。
「一緒に舞ってみますか?」
 ばっと振り返った少女の瞳は、眩しいほどに輝いている。
 詩人はもはや紅茶とは呼べない紅茶を飲み干すと、片手を差し伸べて少女の手を包み、もう片手には若草色の魔鉱石を握った。それから優しく微笑む。手をぎゅっと握り合い、手をぐっと握りしめ、地面をぽんっと蹴ると、二人はふわりと舞い上がった。
 折り重なる橋を、前に後ろに、右に左に、上に下に、飛び渡る。宙を跳ねても、風はあまりなくて、代わりに水滴が顔にぶつかっては過ぎ去っていく。
 不意に、石橋を走る無数の蔓が色を染めていった。焦げ茶色だったそれは、見る間に海よりも深いサファイア色へと大変色を遂げる。少女はまた感嘆をあげた。
「どうやら、雨舞い踊る季節も折り返しを迎えたようですね」
 詩人は新芽のように柔らかくなった蔓を撫でた。二週間前に比べると、宙の水滴は幾分減ってきたように見える。
「終わるの?」
「あと一月もすると雨は無くなって、蔓の葉は、落ちる代わりに魔力に乗って、宙に舞い上がっていきます。ですから、ここの人達は、落ち葉とは言いませんし、紅葉とも呼びません」
 少女は遠くを眺めながら、サファイア色の葉達が空舞う姿を想像した。けれども、詩人は少しだけ寂しい表情を浮かべた。
「残念ながら、もう旅立たなければなりません。来週にも次の町で五年に一度の大祝祭が始まるのです。演奏の時ですよ」
 詩人は少女の手を引いて橋の淵を一蹴りした。
「旅立ちの用意に戻りましょう。少し長居し過ぎましたね。イア、次の町ではあなたにも頑張ってもらいますよ」
「雷」
 少女はそれが全て悪いと言うように、頬を膨らませた。詩人はくすくすと笑う。
 二人は静かに宿へと消えていく。
 残されたティーカップの中身は、雨粒の水溜りに変わっていた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • 作者の氏名を表示して下さい
  • オリジナルライセンス

交橋鉱通奇観(こうきょうこうつうきかん)

※コラボ「こらぼらぼ」に投稿したものです


タイトル:交橋鉱通機関(こうきょうこうつうきかん)
メインテーマ:のんびりまったり
サブテーマ:異国風・奇観
イメージソング:優しい夜明け(.hack//sign)
文字数:約2000字



 初めましての方も、お久しぶりの方も。こんにちは。
 ヘルです。
 今回はコラボ「こらぼらぼ」のテーマ「Lazily and Relax」をメインテーマにしました。
 最初のイメージは「ベランダのような喫茶店で、旅人が紅茶を片手に一風どころじゃないぐらい不思議な大穴の町を見る」でした。
 ストーリー性はあんまりないですね。
 不思議な光景や異国さが出ていれば幸いです。

 ボカロということで、IAを採用しました。また詩人は「余音ジュン」をモデルにしました。


 読まれましたら、「読みました」一言でもいいのでコメント頂けると嬉しいです

閲覧数:198

投稿日:2015/01/06 18:42:23

文字数:2,131文字

カテゴリ:小説

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