気が付くとオルゴールは止まっていた。
話し終えた老女がふう、と息をつく。青年が飲み物でも持ってきましょうか、と尋ねたが老女は静かに断った。
青年の膝の上にある音の止まったオルゴールに老女が手を伸ばす。青年に手渡してもらうと、老女はネジを巻きはじめた。カリカリとネジの音が響く。
「もう歳ね……この程度のお喋りで疲れるなんて」
冗談なのか本気なのか、少々気落ちした雰囲気の老女に、青年が言う。
「そりゃあこの歳で女子高生みたいに喋ってたら変ですよ」
「そうね、皺くちゃのおばあちゃんに今時の言葉なんて、似合わないわね」
くすくすと二人が笑い合う。優しい声に混じり聞こえていた歯車の音が止み、三度曲が部屋に響いた。
「好きになれましたか?」
小さな音色を邪魔しないように、静かな声で青年は話す。その表情はどこか不安が残るものの、確信を持つ顔だ。
そんな表情の青年を老女は見つめ、答える。
「聞かなくてもわかってるんでしょう?」
一度捨てられそうになったオルゴール。しかしそれからも変わらぬ音を奏で続けている。鳴らなかった日も勿論ある。両手でも足りない程だ。それでも今、この場に存在しているのは老女がそう決めたから。部屋に流れるメロディは誰にも止められる事なく音を紡ぐ。
それが、老女の答えだ。
老女はそれを言葉にすることはしなかったが、青年は何かを感じ、笑った。
老女が恥ずかしそうに目を伏せるのを見て、青年が話題を変える。
「しかし懐かしいですね。あの時はあれが一番大きな喧嘩かと思ってましたけど、今考えるなら小さなものでしたね」
お互いが声を荒げた争いはあれだけではなかった。それを青年は思い出す。
初めての喧嘩はオルゴールについて。しかしそれが最後だったわけではない。些細な事から大切な事まで、様々な事でぶつかりあったと青年は思う。それが共に過ごすという事なのだろう。
「何が一番大きかったんですかね?」
ふと青年が呟く。
青年にしてはただの思いつきだったが、老女はきちんと考え、返事を返した。
「貴方がオリジナルに憧れて、真似をした時じゃないかしら」
オリジナルとはVOCALOID・KAITOの事だ。青年はKAITOの種をアイスに植えるという特殊な方法で生まれた。元になる種はアイスに植えるとKAITOのようなものが生まれるからKAITOの種と呼ばれている。KAITOがいなければ、KAITOの種というものは存在しなかったかもしれない。だから青年にとってVOCALOID・KAITOは、特別な存在なのだ。
当時を思い出し、青年は首を傾げる。それほど大きな喧嘩だっただろうかと語る表情に、老女は続ける。
「大きかったわよ。何より、後を引いたわ」
老女は青年を一瞥し、窓の外を見る。外では木々が日に当たり風に吹かれてキラキラと輝いていた。
外を見る老女を青年は見る。優しい横顔を見つめるその眼差しはとても静かだった。
「……今も」
「はい?」
小さく口を開いた老女の言葉が聞き取れず、青年は聞き返す。老女は青年を向き、先程よりも大きな声で言った。
「今も、憧れているの?」
オリジナルに憧れ、喧嘩したあの日から青年はオリジナルに対して一目置いていた。それを見てきた老女は長年この問いを心に留めていたのだ。今でもKAITOになりたいという気持ちがあるのか。
真剣な瞳は穏やかに青年を射ぬく。
「憧れは、あります」
消えることはないでしょう。青年はぽつりと言った。
「でも、今は種KAITOであることが一番の幸せです」
老女が微かに驚く。
青年は綺麗に笑った。
青年の中でオリジナルはいつまでも尊敬の対象であり、憧れだった。それはこれからも変わることのない思いだと青年は考える。けれども青年には歳を重ね、成長していく上で己に対する誇りが生まれていた。青年の柔らかな笑顔には確かに誇りが表れていた。
何故ならと、青年は心の中で呟く。
「どこまでもついて行く事が出来ますから」
青年の言葉に老女の表情が一瞬曇る。しかしすぐに老女は笑った。優しく、切なく。
泣きそうな老女の手を青年が掴んだ。包み込むようにして握ると老女の体温がその手に伝わる。
「…最期に、歌って」
青年から顔を背け、老女は言った。
震える声に青年が目をつむる。
「何を、歌いましょうか」
青年の口から紡がれた声もまた、震えていた。
掌を包む力を青年が強くする。応えるように老女は握り返した。
オルゴールの緩やかな音だけが響く。
もう、終わりが近いのだ。
「私達の大好きな曲を」
その言葉に青年は声も無く頷いた。
暮れなずむ部屋の中。夕陽が部屋に差し込む。
部屋には甘い爽やかな香りとベット、それからその前に椅子が一つ。
一人ベットに眠る老女を柑橘系に似た香りが包む。老女の表情はとても穏やかで、微笑んでいるように見え、幸せそうだ。
ベットの前に一つの椅子があるが、誰も座ってはいない。ただ、椅子は僅かに湿り気を帯びていた。
老女の膝には蓋の開いた木箱が乗っている。もうネジを巻かれる事のないオルゴールは、音も無く曲を奏で続けていた。
思い出とオルゴール3・完(KAITOの種/亜種注意)
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