戻ってきた渡会医師は不機嫌そうだった。とても、再び薫さんの病について聞くことはできそうもなかった。ただ、宣言通り傷を縫うための道具は持って来たようで、持っている革のホルダーからは銀に光る針が見えた。
渡会医師はそのホルダーから針を抜くと、そのまま俺の傷を縫おうとした。
「ま、待て、麻酔はどうした!?」
「あぁん、いらんだろ。と言うか、あいにく持ち合わせがない」
血の気が引いた。まさか麻酔もなしに傷の縫合をされるとは思っていなかった。想像するだけで苦痛が脳を刺激してくる。
想像だけで苦しむ俺を見て渡会医師は呆れを混じらせたため息をついた。この医師は心底俺が嫌いなようだ。
「その足が使い物にならなくなるのと、一時の痛みを我慢するのとを天秤に掛けて判断しろ。ワシなら間違いなく後者を選ぶが……さぁ、どうする?」
俺が選ぶ道は一つしかないようだ。俺は観念して足を渡会医師の方に伸ばした。
「縫ってくれ」
クセなのか、聞き慣れてきたフンと言う音を鼻で鳴らすと、渡会医師は白いガーゼのような布を俺によこした。まぁ、どう使うかは予想がついている。
「大声で叫ばれるのも嫌だからな。それを噛んでおけ」
そんなこんなで治療は始まった。
ここまでの痛みが存在することに驚いた。針が皮膚を、肉を貫きそのあと糸が嫌な感触を残しながら通っていく。それが一度なら我慢もできるだろうが、何度も何度も続く。俺は叫び逃げ出したい感情を押し殺した。ここまで、一秒が長く感じられた時は今まで体感したことがない。
それでも、終わりはやってくる。渡会医師が最後の一針を縫い終わり、糸を結んだ時、俺の意識は限界を迎える寸前だった。
渡会医師は糸を切って俺の顔を見てねぎらいの言葉を掛けてくれた。その表情は少し感心したようだった。
「少し見直した。で、お前の部屋は用意してある。肩を貸してやるからついてこい」
そう言って俺を無理矢理立たせた。俺は口のガーゼを取って心からのお礼を言った。
「ありがとうございます」
「礼ならお嬢様に言え。お嬢様がそうするようおっしゃったのだ。幸か不幸か、お前の部屋とお嬢様の部屋はふすま一枚で隔てられているだけだ。そこで礼を言え」
そんな会話をしながら俺と度会医師は廊下を歩いた。廊下は少し薄暗かったが、手入れの行き届いた感じの良い廊下だった。やはり、この家の主、つまり薫さんの家族が名家であるのは間違いないようだ。
突き当たりの部屋に通された。六畳の部屋だった。中央に布団が敷いてあるだけで内装は殺風景だが、縁側から見える庭は美しかった。それを見てもここがただの家ではないことが分かる。入って左手にはふすまがあった。おそらくこの向こうに薫さんがいるのだろう。
「お嬢様、伊波一を連れてきました。おそらくひと月もすれば全快するでしょう」
渡会医師がふすまに向かって話しかけるとふすまがぱっと開いた。
当たり前に薫さんがいた。血に濡れ、土がついて汚れていた服はまた、真っ白いものに着替えられていた。薫さんは穏やかな笑みを浮かべて、こちらを見ている。
「そう。ありがとう度会。伊波さんも遠慮せずひと月ほどはゆっくりしていって下さい」
しとやかに座った薫さんは深く頭を下げた。こちらが思わず恐縮してしまうような美しい会釈だった。
「では、わしは失礼させてもらいます。また、何かあれば二階にいますのでお呼び下さい。伊波、お前は絶対安静にしとけ。下手なことをすればどうなるかは自分で考えろ」
そう言って渡会医師は部屋を出た。部屋には俺と薫さんだけになった。
俺は言いたいこと聞きたいことを言葉にした。
「ここまでしていただいてありがとうございます。でも、どうしてこんなにも親切にしてくれるのですか?」
俺の感覚ではたまたま出会ったけが人にここまでの待遇を提供する薫さんの親切ぶりが正直信じられなかった。ここまで、いい人が存在しても良いのだろうか。
俺のとまどうような気持ちからの質問にくすくすと笑うことで答えた。
「何がおかしいのです? 変なこと言いました?」
「いえ、少し自分でもおかしかったものですから。まぁ、なんだって良いじゃないですか」
心底おかしそうに、薫さんは笑っていた。自然と俺も笑みをこぼした。それで、俺は少し調子に乗ってしまった。
「そうですか。あともう一つ聞いて良いですか」
「えぇ、良いですよ」
「お病気なのは本当ですか? 無理をさせてしまったみたいで、すみません」
今日会ったばかりの人間に聞くものではなかった。ただ、ふと魔が差したように、この人なら聞いても差し支えないだろうと思ってしまった。言ったあとには後悔が残った。
薫さんは表情を曇らせた。
「えぇ、いわゆる不治の病らしいです」
俺は言葉を失った。何を言っても彼女の慰めにはならないだろうと分かった。
「伊波さんが気に病むことではありません。少し疲れてません? そろそろ寝ましょう。では、お休みなさい」
逃げるように薫さんはふすまを閉めた。
それから俺はその日なかなか寝付けなかった。
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