近頃、花魁は御機嫌である。
鼻唄を歌う姉女郎を見ながら、なつめは折り紙で遊んでいる。
國八の客である陽春が買ってきてくれたものだ。
「おや、可愛くできたじゃないか」
千代紙の蛙をひょいと摘まんで、國八は禿を誉めた。
「陽春さまが御手本を買ってきてくだっしたゆえ、わっちゃァ何でも作れんす。花魁、何でも言ってくだしゃんせ」
「ほんにかえ?なら、風船をお願いしようかね」
手を動かしつつ、なつめは國八の顔をこっそり盗み見る。やはり、穏やかな表情だ。
「花魁、陽春さまのことを考えておられんすか」
煙管を燻らせていた國八が、びっくりしたようになつめを振り返った。
「どうしてそう思うんだい?」
「楽しそうでありんした」
「まァ…なつめも女の子だね」
図星ということなのだろうか。國八はふうわりと笑う。
「わっちは、國八花魁の禿でありんすゆえ」
風船ができた。息を吹き込んで、膨らませる。
國八が手を伸ばしたので、そこを目掛けてそれを放った。
その時。
「國八、ちょいといいかい?」
座敷の外から声がして、國八が返事をすると、重右衛門が入ってくる。
手に何か持っている。
「なつめもいたのか。丁度いい、聞いとくれ」
國八となつめが座り直し、重右衛門は持っていたものを畳の上にそっと置く。
「國八、お前の父上から文が来た」
先ほどまであんなに楽しそうだった國八の顔が翳ったのを、なつめは見逃さなかった。
國八が受け止め損ねた風船が、座敷の隅に一つきりで転がっていた。
陽春は月に三度か四度、國八に会いに行った。当時そのくらいの頻度で通っていれば、それは立派な御大尽であった。
國八の方も、陽春の来るのを待っていた。遊女は、廓から出て自ら男に会いに行くことはできなかったのである。
そうして幾度も会い、他愛ないことを話す内に、陽春はあることを考えるようになっていた。
そして、そのことを一番に話さねばならぬのは、愛しい國八でも頼りの時之助でもなく、兄・陽雪なのであった。
「私は、近々還俗しようと思っております」
還俗とは、俗体に還ること、則ち、僧が僧をやめることである。
「…そうか」
「兄上、驚かれないので…?」
寺の一室で弟と向かい合った兄は、驚くものか、と半ば投げ遣りに言う。
「いつかは言い出すであろうと思っていたことだ…あの花魁を、身請けするのだな」
「はい」
今のままでは、月に数日しか顔を見られぬ。
生い立ち上、金には困らない陽春であったが、それでも吉原は毎日通えるような場所ではない。
吉原には、一晩で千両もの金が落ちると言われているのだ。
だから、もっと長く國八と一緒にいるには、國八を廓から出すしかない。
そのためには、陽春が僧の身分であってはならないのだ。
「それで、お許しを頂きたいのです」
陽雪は弟の目をじっと見た。
やると言ったら止めても聞かぬ弟である。
その弟が、見たこともないほど真面目な顔をして、そこにいる。
「…良かろう」
「本当でございますか!?」
分かりやすく喜ぶ陽春に、陽雪は言い含める。
「ただし、もう僧でなくなるからといって、還俗までの勤めを疎かにせぬこと。よいな、九三郎」
「承知しております、兄上」
勤めも何も、陽春はあまり寺のためになることをしなかったから、いなくなっても痛くも痒くもないのであるが。
勝手な弟だが、今はその勝手に手を出してはならぬ気がした。
黙って部屋を去る陽雪に、陽春は畳に手を付き、深々と頭を下げたのであった。
その日の夕刻、陽春は早速決意を國八に伝えにいくことにした。
吉原へ行くのにこれほど緊張した日もなかっただろう。中宿を出てからの駕籠の中で、何度か呼吸を調えた。
國八は、いつもと同じく座敷で待っていた。
「お前を身請けしようと思う」
そう言うと國八は、初会で会った時と同じように目を見開いた。
どういうわけだかそれは、愕然とも戦慄とも取れた。
「僧が遊女を身請けなどできぬから、私は還俗する。なに、生家の方で自由にできる金が千両ほどあるのだ。暮らしは何とでもなろう。幸い私もお前も一応の教養はあるし、二人で塾でもやってはどうかと思うのだが、どうだ?」
この廓から出してやりたい。自由にして、そして二人で暮らしたい。
陽春はそう思っていた。
身請けされれば、もう客を取らずともよい。よって普通遊女は、申し出たのが余程嫌な客でない限りそれを断ることはない。
しかし、國八花魁はやはり普通ではなかった。
「それはなりんせん」
「國八…?」
「わっちゃァ、ここで生きていくのでありんす。ここでやるべきことがおざりんす」
美しい顔には決意が満ちている。
いよいよ聞く時が来た、と陽春は思った。
これまで敢えて「何故」とは聞いてこなかった。それを尋ねるべき時が来たのだと。
陽春は深く息を吸った。
「やるべきこととは、何だ?お前は何故ここにいるのだ?」
國八も覚悟はしていたようだ。一度目線を膝に落とし、それから目の前の僧を見た。
「わっちの父親の名を聞いてくだっし」
「…何と申すのだ?」
「わっちの父親は…」
同刻。
時之助は、引手茶屋・千代田屋を出たところであった。
何も女と待ち合わせていたのではない。主人の又兵衛に、國八のことを聞きに来ていたのだ。
件の花魁が、どうにも気になる。長いこと市中で情報を売り買いして来た時之助の勘が、何かあると言っているのだ。
聞く限りでは、陽春と國八は睦まじく過ごしているようである。このままなら良い。しかし、何かあってからでは遅いのだ。
今となっては正式な主ではないが、陽春を危険に晒すわけにはいかなかった。
「だがまあ、あの親父も口が固えもんだ…」
千代田屋又兵衛は、何も知らないと言った。
三年前に駒乃屋に入った國八が、以来唯一通う茶屋なのだ。細見にも載らぬ花魁を不審に思わぬ筈がない。
駒乃屋重右衛門から何か聞いて、知っているに違いないのである。
重右衛門には、先日何も喋らぬと言われている。
仕方ないので、蕎麦でも食って帰ろうかと思い、見返り柳を過ぎて日本堤へ出た時である。
「田安徳川家、徳川斉匡様が十一男・徳川時斉殿とお見受け致す」
闇夜に紛れてしまいそうな黒装束の男が数人、時之助を取り囲んでいた。
「…お前さんたち誰だい?俺をその名で呼んでいいのは、今んとこ一人だけなんだがねえ」
黒装束の筆頭らしき男が前に進み出た。覆面をしており顔はよく見えない。
「我等は、将軍家斉様にお仕え致す者」
「公方様に…?それでその格好ってこたァ、お前ら、お庭番かえ」
先頭の男が頷き、光る物を取り出す。
時之助は僅かに身を強張らせた。
「丸腰相手に物騒じゃねえか。一体何の用だい?」
「簡単に申し上げると、國八花魁のことを探るのはこれ限りにして頂きたい」
「何だって…?」
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