夢の中で、わたしはタイスになっていた。場所はタイスの部屋。中央に大きなベッドが置いてあって、わたしはそこに座っている。
 どうしてわたしは、ここにいるのだろう? 考えてもわからない。わたしは立ち上がって、部屋の中を歩き回った。がらんとしていて、ほとんど何もない。壁際に、大きな鏡がかかっているぐらいだ。
 わたしは鏡の前に立った。鏡には、当然わたしの姿が映っている。胸元の開いた裾の長い衣装を着て、宝石のついた装身具をたくさん身に着けた姿だ。……ルカ姉さんの方が似合いそうね。十代のわたしじゃ、衣装の派手さがどうしても浮いてしまう。
「誠実な鏡よどうか答えて。わたしは……」
 何を訊きたいんだっけ? 考えたが出てこない。わたしは苦笑した。これじゃあ鏡の方でも困ってしまうだろう。もっとも、この話は白雪姫じゃないから、鏡は喋ったりはしないのだけれど。残酷に、真実を映すだけだったはず。
 わたしはそっと手を伸ばして、鏡の表面に触れてみた。その瞬間、鏡の表面がさざなみのようにゆらめいて、映像がぼやけた。
「……え?」
 ゆらめきはすぐに収まり、鏡の表面は元に戻った。でも、そこに映っているものは、わたしじゃない。
 お母さんだ。でも、今よりももっと若い。ソファに座って、編み物をしている。そこに走ってくる、リボンを着けた四歳くらいの小さな女の子。両手に、しっかりと一冊の絵本を抱えている。
「ねえ、ママ。えほんよんで」
 ……あれは、わたしだ。今より、もっとずっと小さかった頃のわたし。
「いいわよ。さ、こっちいらっしゃい。何を読むの?」
 お母さんがわたしを抱き上げて、膝に乗せる。鏡の中のわたしが、絵本を手渡す。
「あのねぇ、これ!」
「あら、また『シンデレラ』なの? 今日は別のにしたら?」
 鏡の中のわたしは、首を横に振る。
「ううん、これがいい」
「わかったわ。それじゃあ読むわね」
 お母さんが絵本を読もうとする。でも、鏡の中のわたしは膝を滑り降りる。
「あ、ちょっとまって! うさちゃんをとってくる!」
 駆け出していく、鏡の中のわたし。やがて戻ってくる。その手には、ピンクのうさぎのぬいぐるみが抱えられている。
 ……うさちゃんだ。
 鏡の中のわたしは、もう一度お母さんの膝に乗って、自分の膝にはうさちゃんを乗せている。お母さんが、にっこり笑う。
「うさちゃんにも聞かせてあげるの?」
「うん!」
「じゃあ読みましょうか。『むかしむかし、あるところに……』」
 ……あの頃は、こんな毎日が当たり前だった。
 わたしの前で、もう一度映像がぼやける。再び映像が鮮明になった時、今度はさっきとは違う光景が映っていた。
 さっきよりも、少し成長したわたし。顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっている。隣にはお母さんがいて、必死でわたしをなだめている。
「ほら、もう泣かないの」
 鏡の中のわたしは泣きやまない。
「ね、いい子だからもう泣くのはやめて」
「だって……ママ……」
 鏡の中のわたしは相変わらず泣き続けている。途方にくれるお母さん。そこへ、お父さんがやってきて、泣いているわたしを怒鳴りつける。
「いつまで泣いているんだっ! お前はもうじき三年生になるんだぞ! 絵本やぬいぐるみなんかもう卒業しなさいっ!」
 鏡の前でわたしは、はっとなった。これは、あの日だ。鏡の中では、八歳のわたしが、更に激しく泣き出している。
「リン、いい加減にしないか!」
 ……やめてよ。
「あなた……そんな大声出さなくても……」
 自分の方が泣きそうな声で、お母さんがそう言う。でも、お父さんの返事は、確か……。
「お前は黙ってろ。自分の腹を痛めたわけでもないくせに」
 お母さんは、それ以上何も言おうとしない。鏡の中のわたしが、お父さんに向かって叫ぶ。
「パパなんか……パパなんか……大っきらいっ!」
「親に向かってその口の聞き方はなんだっ!」
 顔を真っ赤にして、お父さんが叫ぶ。鏡の中でわたしが、ひきつけでも起こしたかのように泣き叫んでいる。
「あなた……リンはまだ小さいんですから……」
「ルカがこれぐらいの年の時は、もっと聞き分けが良かったぞ。お前が甘やかすから、こうなるんだ」
 鏡の中でお父さんが、わたしの腕をつかんで引きずっていく。泣きわめくわたしを、お母さんが泣きそうな表情で見ている。
「もうやめてよっ! こんなもの見たくないっ!」
 鏡の前で、わたしは叫んだ。八歳だったわたし。三月のあの日、お父さんは、わたしの絵本やぬいぐるみをみんな捨ててしまった。大事にしていたうさちゃんも、たくさんあったお気に入りの絵本も、全部、全部、捨てられたんだ。
「リン、お前はしばらくそこで反省してろ。いい子になるまで、出してやらんからな」
「いやあっ! 出してっ! 出してっ! ここはいやあっ!」
 お父さんの前で泣き続けたわたしは、罰として暗いロフトに放り込まれた。薄暗いその場所が子供心に怖くて、ずっと泣いていたけれど、誰も来てくれなかった。泣き疲れて眠ってしまって、目が覚めたらロフトは真っ暗になっていた。わたしはパニックを起こして、それから、確か……。駄目だ。この先は思い出せない。この鏡を見てれば映るだろうけれど……。
 わたしはうつむいた。こんなこと、ずっと忘れていたかった。もう見るのはよそう。鏡に背を向けて、歩き出そうとする。顔をあげて、はっとなった。いつの間にか、部屋の中に他の人がいる。
 それは修道士アタナエルだった。
「タイス、逃げてはいけない」
「嫌よ! あんなもの見たくない!」
 わたしは叫んだ。アタナエルがわたしの手をつかむ。
「きちんと向き合うのだ。さもなければ、私のように、信じるものを失うことになる」
「わたしのことなんか放っておいてよ!」
 あなたの信仰なんて、わたしは知らない。わたしに構わないで。放っておいて。
「それはできない。私は修道士アタナエルで、君はタイスだから」
「わたしはタイスじゃないわ」
「君はタイスと同じように逃げている。逃げるのはやめて、向き合いなさい」
「できないわよ! わたしの中には何も残ってないの!」
 だって……みんな、取り上げられてしまうんだから。
「やりなさい。心をガラスに閉じ込めるんじゃない。君はあの詩人みたいに、若くして自殺したいのか!?」


「だからできないの!」
 自分自身の絶叫で、目が覚めた。わたしは驚いて、身体を起こした。いつもと同じわたしの部屋だ。
「……夢、だったんだ」
 嫌な夢。わたしは暗い気持ちのまま、ベッドから抜け出して、時計を見た。いつも起きるよりちょっと早い時間だ。でも、もう一度寝る気にもなれない。このまま起きてしまおう。
 寝巻きの上にガウンを羽織って、部屋の外に出る。行き先は洗面所だ。鏡を見る……ひどい顔。わたしはため息をつきながら、冷たい水で顔を洗った。少しはましになっただろうか。
「あら、リン。今日は早いのね」
 ルカ姉さんだ。今起きたところみたい。わたしと同じように、寝巻きの上にガウンを羽織っている。
「目が覚めちゃって……おはよう、ルカ姉さん」
「おはよう。終わったのなら、そこいいかしら?」
 わたしはルカ姉さんに場所を譲った。ルカ姉さんが顔を洗い出す。わたしは自分の部屋に戻った。
 今日こそは学校に行かなくちゃ。いつまでもぐずぐずと休んでいるわけにもいかないし。クローゼットを開けて、制服に着替える。……早い時間に起きたから、時間が余ってしまった。わたしは部屋の椅子に座って、ぼんやりとしていた。そうしていると、どうしてもさっきの夢が頭に蘇ってくる。
 ……逃げないで、向き合え、か。タイスは、何と向き合ったんだっけ?
 わたしは立ち上がると、CD棚から一枚のCDを取り出した。ヴァイオリンの有名な曲を集めたCDで、「タイスの瞑想曲」も収録されている。わたしはCDをプレーヤーにセットして、瞑想曲の番号を押した。
 ……何度聞いても綺麗な曲だ。ヴァイオリンが、優しくて甘くて、いたわるような旋律を奏でている。一分半を過ぎた辺りから、少しテンポが早くなって、何かを動かすかのような激しさを少しだけ見せて、それから、また、甘く優しい音色に戻っていく。
 わたしはタイスの瞑想曲を聞きながら、ドレッサーの前に座って鏡を見た。第二幕で一人になったタイスは、派手な生活を送っていても、自分の心は満たされないと歌う。そして、自分の美貌は永遠に衰えないのよね? と鏡に問いかける。もちろんそんなはずはない。現実から目を背けたくても、現実を突きつける。それが鏡の役割だ。
 その時、月曜の朝、鏡音君に言われたことを思い出した。
「巡音さんには自分の意見ってものが無いの?」
 わたしは不意に怖くなって、鏡の前から離れ、CDを止めた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第十四話【鏡よ、答えて】

 鏡という小道具はかつては虚栄の意味合いが強かったのですが、近代に入ってから「真実を映す」という意味合いで使われることも多くなりました。この『タイス』でもそうですし、私の好きなG・マクドナルドの作品にもそういうシーンがあります。

 余談ですが、『タイス』の衣装は、特にこれといって決まっているわけではありません。私が見たことのあるものは2008年度のメトロポリタン(タイス役はルネ・フレミング)と、2002年度フェニーチェ(タイス役はエヴァ・メイ)のものですが、双方でかなり衣装は違っていました。

 2008年度メトロポリタン→http://www.theepochtimes.com/n2/index.php?option=com_content&task=view&id=8683

 2002年度フェニーチェ→http://1.bp.blogspot.com/__fNwlx_au8w/TDZNSBxg9zI/AAAAAAAAAsI/NZemZ0Fx9bA/s1600/Thais.png

衣装はメトロポリタンの方が素敵なんですが、キャストはフェニーチェの方が良かったです。アタナエル役のミケーレ・ペルトゥージがハマりすぎ。メイのタイスも声がピッタリでした。

 最後の方でリンが聞いている「タイスの瞑想曲」は、こういう曲です。→http://www.youtube.com/watch?v=mXuzLRVi6qk

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投稿日:2011/09/06 20:56:12

文字数:3,629文字

カテゴリ:小説

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