マスターは自室に籠もったままついにその日、みんなの前に姿を現すことは無かった。
夜が明けて、朝食前。ナイトがマスターの朝食を用意している隙にタイトがマスターの部屋を訪ねた。
「マスター、すみません。また失敗して…整備お願いできますか?」
タイトはわざと自分の音声調整部をすぐ直せる程度に破壊してマスターに面会を求めた。いくら誰とも会いたくないと言った所でやはり誰かに何かあったら顔を出すのがこのマスターである。
明らかにおかしな声を出すタイトをマスターは渋々部屋に入れて調整を行った。
「少しの間喋らないでね。あんまり酷いようだったらすぐ手術だから」
マスターはタイトの状態を見て真剣な技師の目をした。タイトがスリープモードに切り替わるまで喋らないように指示するとマスターはいくつかの工具を用意した。
タイトの計画通りマスターはタイトを直してタイトの再起動を待っていた。
「起きたか。調子はどう?まだおかしいかな?ちょっと発声してみようか…」
マスターはタイトに調整用の楽譜を渡した。様々なキーを発する本当に調整用の楽譜だ。それでいてメロディーラインもしっかりしているから良くできた楽譜である。
「大丈夫そうだね。念のため今日はあまり喋らず、安静にしてなよ?あと、調整も良いけどこうやってすぐ失敗しちゃうんだから自分で勝手にいじるのは極力避けてね。タイトの努力と技術は認めるけど、やっぱり自分で自分を改造するのは無理があるよ」
マスターは呆れを含む笑顔でタイトの頭を撫でた。
タイトはなかなか頭の良いボーカロイドであった。カイトタイプは元来頭が悪いイメージを持たれているが実は潜在能力は他のタイプよりも高いと言われている。中でもタイトはこの家庭内の同機種の誰よりも切れ者だった。
「マスター…」
「ん?まだ何かあるの?改造の相談ならまた今度にして。今はそう言う気分じゃないんだ」
マスターはこの切れ者ボーカロイドに一定の信頼を置いている。ヤンデレと言われる彼の危険性は十分承知しているマスターだが、それでも彼の頭脳と発想は素晴らしい物が有った。補助パーツや部品の改良など、タイトの意見はマスターにとって貴重な財産だった。
「改造の計画じゃないんです。でもちょっと、気になる事があって…」
タイトの内心の黒笑いを愁傷のマスターが気付く訳もない。マスターはとりあえずタイトの話を聞く事にした。全てタイトの計画だとも知らずに―――。
マスターがゆらゆらとまるで生気のない様子で部屋を出た。ナイトの用意した朝食さえ手をつけず、マスターは地下室へと降りていった。
「マスター、どうしちゃったんだろう?」
あまりにも異様な空気にボーカロイド達はマスターが通り過ぎるまでまともに息もできなかった。それほどまでにマスターの気配は殺気を帯びて異様だった。カイコが一人心配そうにマスターの消えた辺りを眺めながら呟いた。
「…カイコ、マスターがお呼びだよ。整備室で待っているようにと…」
「おい、何でお前がマスターの言伝を預かってんだよ。カイコ、行く必要ないぜ?これは罠だ」
ゆらりと不気味なタイトからカイコがマスターからの言伝を受けるとアカイトが普段見せないような敵意剥き出しの表情でタイトに食ってかかった。
「これは心外だな。僕はちゃぁーんとマスターから言われた事を伝えただけ。それを罠だなんて…ふふ、暴力は良くないよ」
今にも殴りかからん勢いのアカイトを余裕の表情で見据えるタイト。アカイトに掴みかかられて地に足の付かない状態なのにタイトはこの余裕である。
「アカイト…」
カイコは不安でいっぱいだった。整備室とはカイコがカイコに改造されてしまったトラウマの部屋だったからだ。カイコだけではない、この家のボーカロイドは全員整備室で改造されている。あの部屋はボーカロイド達にとってロクな事が起きない近寄りがたい部屋だった。けれどマスターが本当に呼んでいるならば行かなければならない。アカイトはタイトが賢いことを知っていた。タイトの計略を警戒してカイコだけでは心配だとカイコと二人、整備室へ向かった。
「ふふ、バカなアカイト…さて、種も撒いた。水も撒いた。肥料まで与えて、もう全て僕の思い通り…マスター…僕はあなたの物、そしてあなたは…僕だけのモノだ…!」
あの優しげな青いロボットがこんなにも悪役面できるなんて制作者も考えた事がないのではないだろうか。そのくらい黒い笑みを浮かべるタイト。タイトは次の出番がやってくるまで茶の間の隅で事の成り行きを見守った。
整備室―――
薄暗い、不気味な部屋だ。周囲にはいくつか機械が並んでいる。中央には固そうなベッドが一つだけ。この部屋だけはいつ見ても変わらない、狭くて重々しい部屋である。
カイコとアカイトが部屋の中で待っているとマスターが部屋の中に入ってきた。
「…やっぱり、来たんだね…どうして?…」
「な?!何言ってんだよマスター!マスターが俺らを呼んだんだろ?」
明らかに様子のおかしいマスターを警戒してアカイトは自然とカイコを庇った。牽制するアカイトをマスターは冷たい視線で見つめていた。
「私はカイコを呼んだんだ。どうしてアカイトがここに居るのかな?」
威圧感のある声。はっきりと言わないまでも伝わる「出て行け」と言う雰囲気。こんなマスターにはカイコはおろかアカイトでさえ会った事がない。
マスターは目を見開き、更なる無言の圧力をかけた。
「アカイト、ここは…」
「あぁ…何かあったらすぐに呼べよ。こんなマスター、俺も初めて見る…」
狂気のマスターにカイコは震えた。アカイトでさえ我慢しているが内心震えが止まらない。
アカイトはゆっくりと、一つしかない出口から出て行った。マスターはアカイトが出て行くと決まってから終始カイコを見ていた。アカイトがマスターを見てもマスターはアカイトを一瞬でも見ようとはしない。やがて扉の閉まる音がするとマスターはそっと鍵をかけた。
「!?」
「さぁ、カイコ。これで二人きりだね…」
明らかに二人きりを喜ぶ様子ではないマスター。普段は優しいマスターがこんなにも恐ろしく思えた事などカイコはただの一度もない。最初に改造された時ですらまだ優しさを見せていた。なのに今は欠片もない。
「怖がることはないよ。ここには私たち二人だけ。本気を出せば機械であるカイコの方が強い。その気になれば私を殺す事だってできるだろう。君が壊れているならば…」
マスターの意味深な発言の意図もつかめぬまま、ついに話は本題へと移った。
「カイコ。君は以前から私の作った体が気に入らなかったようだね…隠さなくても良いよ、わかっているから。やはり前の体の方が良いのでしょう?それじゃぁ返してあげるよ、君の体…」
マスターは悪意のある表情でカイコ言った。明らかに善意ではない、何か裏がある。カイコはマスターの次の言葉を待った。マスターの視線はカイコの首元に向けられている。
「素敵なチョーカーだね。マフラーで隠れた首に時折キラキラと輝くそれ。良い色だ。好きだよ、その色…」
マスターの目は怪しく光る。囁きは鬼の気配を隠し、目は鋭く獲物を狙う。
「…強制はしないよ。ただ、本当に君の体を取り戻したいならそのチョーカーと交換しないか?と、提案しているだけだ。あぁ、手術が怖いならみんなに立ち会ってもらっても良いよ?まぁ、手術だからちょっと抵抗あるかもしれないけどね…ふふふ…」
マスターはカイコを残し、部屋を出た。鍵ももう開いている。拘束具がついているわけでもない。だけど、カイコは今起きた衝撃の展開に頭が真っ白になって動けなかった。カイコはこの恐怖の部屋で更なる恐怖に沈んでいた。
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