どうして……? 今の私のどこに、そこまでの価値があるの? 私はもう、優等生のいい子じゃない。
「私……いい妻にも、いいお母さんにもなれないわ」
それが私に求められていたことだったのに、できなかった。
「いい妻とか、いいお母さんとかがほしいんじゃない。ルカに戻ってきてもらって、一緒に一番いい道を探したいんだ」
……ガクトさんの言葉は嬉しかったけれど、私はどうしても、首を縦に振ることができなかった。
帰宅した私は、母にガクトさんのことを話した。母は黙って話を聞いてくれて、きついことは何も言わなかった。
「私、どうしたらいいの?」
「……あのね、お母さんとしてはね、ルカはガクトさんのところに戻ったらいいと思うわ」
私は驚いて、何も言えずに母の顔を見つめていた。母が微笑む。
「ルカが一人になってしまうかと思うと、少し怖いの……お母さん、いつまで生きられるかわからないし」
「そんなこと言わないでよ!」
反射的に、そう叫んでいた。それは、絶対に来てほしくない未来だ。私が戻るにせよ残るにせよ、それだけは駄目。
「こればっかりは……神様が決めることだから。お母さんだってもっと生きていたいけど……でも、そんなに時間は残ってないと思う。だからその前に……」
安心したい。母はきっと、そう言いたかったのだろう。でもその言葉は口に出さずに、困ったような表情で、私を見ていた。
「戻ったら、前と同じになるかもしれないわ」
自分がちゃんとやっていける自信がなかった。また、あんな風になるかもしれない。特に、ミカがわからない。写真でしか見たことがないも同然の、私の娘。
「ルカ……一足飛びに戻らなくてもいいんじゃないかしら。お試し期間とか、そういうのを設けるという手もあるし」
「ミカが怖いの……ずっと会ってない」
「心配しなくても、ミカちゃんはちゃんと育っているわ。ルカが戻っても、受け入れてくれるはずよ。ルカが、ミカちゃんと心底いい関係を築きたいと思うのなら、きっとできるわ」
私と違い、母はミカに会っている。毎年、クリスマスと誕生日にはプレゼントを贈り、お正月にはお年玉を渡している。
「案ずるより産むが易しと言うし、一度会ってみたらどう? さっきも言ったけど、一足飛びに戻るんのではなくて、お試しの時間を作ってみるの。それなら、少しはハードルが下がるかもしれないわ」
私は悩んだ。何日も悩んで、ようやく決心がついた。ガクトさんに電話して、ミカと会いたいと言う。たったこれだけのことを話すのに、ものすごく勇気が入った。
ガクトさんはすぐ日取りを決め、私はミカと、日曜に自然公園で会うことになった。緊張しながら、公園に向かう。緊張しすぎたのか、早く来すぎてしまった。三十分も前に来るなんて……。ガクトさんがミカを連れて来るのを待ちながら、自分で自分に呆れてしまう。
やがて、ガクトさんとミカが来た。白いブラウスにチェックのスカートを穿いて、髪にリボンを結んでいる。こっちを見ると、少し緊張した表情で、ガクトさんの影に隠れてしまった。
どうしたらいいんだろう。私から「ミカ」とか呼んだ方がいいのだろうか。わからない。本当にわからない。こういうことは、教科書には書かれていない。
やがて、ミカはガクトさんの影からおずおずと顔を出し「おかあさん?」と尋ねた。なんだか不思議な気がする。私が憶えているミカは、よちよち歩きの幼い子供だった。泣いたり喚いたりばかりして、私を困らせてばかりいた。
……考えてみたら、ハクだってリンだって、最初はよちよち歩きの子供だった。それがだんだんちゃんと歩くようになり、話すようになって。成長という当たり前のことが、どうして私の頭から抜け落ちていたのだろう。そんなことを考えていると、ミカが私の前に出てきた。
「あの……えーっと……ミカ、です。おかあさんにあえて、うれしいです……」
嬉しいの? あんなことをしたのに? ああ、小さすぎるから憶えていないのか。リンが、実母のことを憶えていないように。私は混乱しながら、ミカの頭に自分の手を乗せた。柔らかい髪。
母がうちに来た時のことを思い出す。全てをはっきりと憶えているわけではないけれど、あの時の母は、緊張していた。私たち三人の母親になろうとしていたから。私が挨拶して、ハクが拒絶して、リンは抱っこをせがんだ。そして母は、すぐにリンを抱き上げた。ああ、そうか。
あの時、リンだけが、母を歓迎したのだ。どうせ出て行くのだと、冷めた目で母を見ていた私。「新しいママなんていらない!」と母を拒絶したハク。
私は膝を折って、ミカの小さな身体を抱きしめた。……ごめんね、きちんと見てあげることができなくて。
涙がこみ上げてきた。あの時の私に、もっと素直さがあれば、違う道だってあったかもしれないのに。……本当は構ってほしかった。リンのように抱っこをせがむことはできなくても、手ぐらいなら握れたはず。きっと、母は握り返してくれただろう。
だから、今は、ミカを抱きしめる。私がずっと、してほしかったこと。
私とガクトさんとミカは、公園で一日を過ごした。自然公園に来ることなんて今まで無かったから、何だか目新しい。公園はかなり広くて、ボートに乗れる池があった。私たちは食事をして、ボートに乗って、その辺りを散歩した。ミカが私の手を握ったので、私はそのままミカと手を繋いで歩いた。
……三人いると、手は繋げなかった。ふと、そんなことを思い出す。母と洋服とかを買いに行く時、母はハク、リンと手を繋いだから、私は繋ぐ手がなかった。私は一番上だし、いい子で通っていたから、何も言わなかったし、言えなかった。
でも、これは、母のせいじゃない。本当なら、私にだって手を繋いでもらえる時期があったはず。色々と不幸が重なったから、その機会を失ってしまっただけで。
日が暮れた。ガクトさんが夕食を食べようと言ったので、私たちは公園の近くのレストランに入った。ミカはお子様ランチを食べながら、私にいろんなことを話した。学校のことや友達のこと。ミカには、たくさん話せることがあるのか。私には話せることがなかったし、そもそも、話そうとしなかった。あの人はともかく、母は聞いてくれただろう。
食事が終わってお会計をする時、ガクトさんが、この後二人で少し話がしたいと言ってきた。きっと、「これから」のことだろう。私は頷いた。ミカの前ではできない話だ。
ガクトさんの車にミカと一緒に乗って、以前の自宅に向かう。ミカははしゃぎすぎて疲れたのか、私にもたれて少し船を漕いでいた。
家に着くと、ガクトさんはミカを抱き上げて、家の中に入って行った。私は車の中で待つ。……少し淋しい。でも、今はまだ、家には入らない方がいい。そんなにしないうちに、ガクトさんは戻ってきた。きっとミカをお手伝いさんに預けたのだろう。
「ミカは、大丈夫?」
「ルカを病院まで送っていかなければならないと言ったら、納得はしてくれた」
ああ、そういうことになっていたんだった。うっかり、設定を忘れそうになる。
「ルカ、どこか開いているお店にでも行くか?」
そこまでしてもらう気にはなれなかった。話なら、車の中ででもできるのだし。
「ここでいいわ」
ガクトさんはそれ以上異は唱えず、車の明かりを点けた。暗いところで話したくないのだろう。
「なあ、ルカ……不安に思うのはわかる。けど、きっともう、大丈夫だ。戻って来い」
あまりにあっさりとかけられた言葉に、私は何も返事ができなかった。ただ驚いて、ガクトさんの顔を見つめる。
「今日だって、ミカにちゃんと接することができたじゃないか。ミカは家族みんなで暮らしたがっているし……」
「私、そうできる自信がないの」
一番ひどかった頃に比べると大分ましになったとはいえ、今でも私は時々変になる。ミカと暮らして大丈夫とは思えない。
「だから、大丈夫だ。ルカ、憶えてないのか? 以前は問題点すら認識できなかったんだぞ」
ガクトさんはそんなことを言い出した。問題点すら認識できなかった……それはそうだけど、私はいい方に向かっているのだろうか。よくわからない。
「問題が、何が起きているのかわかっていなかったのは俺も同じだ。二人とも、以前よりはわかるようになってきているんだ。以前が真っ暗闇の中を歩いていたというのなら、今はロウソクを手に持つことに気がついた状態だ。探す気でいれば、きっとこの先、もっと違うものがみつかる」
それは希望的観測だと、私は思った。……そこが、ガクトさんのいいところなのだろうけど。だから、私とも離婚しなかったのだろう。
私は、どうしたらいいのだろうか。戻りたい気持ちもある。でも、母を一人にするわけにはいかない。病気なのだ。これからきっと、色々手助けが必要になる。
「無理よ……お母さんはどうするの? これから闘病が始まるわ」
「お義母さんを一人にするのが不安なら、お義母さんも一緒でいい。治療のこともあるし、むしろ一緒に住んだ方が好都合だ」
結局、私は戻ることにした。一人で病気の母についているより、ガクトさんと暮らした方が、やっぱり安心感がある。ガクトさんがすごく頼りになる人間なのは、今までのことでよくわかっているし。どうしてこんな人が、私と結婚する気になったのだろう。
ただ、どうしても少し後ろめたい気持ちになってしまう。これが、本当に正しい選択なのだろうか? 私は、あそこに戻っていい人間なのだろうか?
母はハクとリンに病気のことや、今後のことを知らせなければと言って、電話をかけた。電話の向こうから、声が漏れ聞こえてくる。二人ともパニックを起こしているようで、母はそれを必死でなだめていた。
「ハクとリン、何か言ってた?」
電話を終えて戻って来た母に、私は尋ねてみた。
「ハクは明日、様子を見に来るって言っていたわ。お母さんの方から出向くって言ったけど……ハクに『病人は無理しないの! 大人しく休んでて!』って怒鳴られたわ。まだ治療は始まってないから平気なんだけど……」
「体力はできるだけ温存しておいて」
ああ、きつい調子になってしまった。こんな声を出したいんじゃないのに。
「リンもアメリカから戻って来たいって言うんだけど……」
母は困った表情で、私を見た。私がここに住むようになってから、妹たちがここに来たことはない。私が二人と上手くいっていないので、母はずっと気をつかって、妹たちに会う時は自分の方が出かけていた。リンはアメリカなので、戻って来た時のみ、ということになる。そのせいか、リンは日本に戻ってくる時は、義実家の方に泊まっている。
「……戻って来てもらえば」
「ルカ?」
わかってる。ハクだってリンだって、母が心配なだけなのだ。特に、リンはお母さんっ子だったから。
「だから、戻って来てもらえばいいじゃない。リンにはお母さんを心配する権利があるわ」
もしかしたら、その権利があるのはリンだけなのかもしれない。そんなことが、頭に浮かぶ。
「リンが一番、お母さんを心配してるんだろうし……」
横を向いて、そう呟く。
「……心配に一番も二番もないわよ。ルカの気持ちも、ハクの気持ちも、リンの気持ちも、重さとしてはみんな一緒。お母さんは、そういうふうに思いたいわ」
何故だか、涙がでてきた。私はずっと、リンに嫉妬してきた。母がリンを構うのが妬ましかった。私はあんな風に、抱いてもらったことがない。どうしてリンだけ可愛がってもらえるのか、それがわからなくて。
血の繋がらない子は、無視されるんだと思っていた。だから父が三度目の結婚をした時、今度はハクとリンが無視される番なんだって思った。私と同じ目にこの子たちもあうんだと思って、一人で喜んでいた私。
でも、母は血の繋がらないリンのことを可愛がった。頻繁に抱き上げ、膝に乗せて絵本を読み、食事の時は介助をして。リンは当然のような顔で、母の膝の上を占領して、ベタベタに甘えていた。それが、羨ましかった。私と同じで血が繋がってないのに、どうしてリンだけ構ってもらえるの……!
今なら、ちょっとはわかる。世の中には、色々な人がいる。血の繋がった子供だけを可愛がれる人、血の繋がった子供でも可愛がれない人、そして、血が繋がっていなくても、子供を可愛がれる人。
あの人は、血の繋がった子供しか可愛くない人で、母は、血が繋がっていなくても子供を可愛がれる人だった。それだけだった。
「ルカ?」
「だからっ……戻って来てもらえばいいって、そう言ってるの!」
私はやっぱり、リンのことは好きじゃない。血の繋がった妹で、私がリンにぶつけている感情は理不尽なものだけど、どうしようもない。でも、だからって、母が遠慮しなくていい。
「ルカがそう言ってくれるのは嬉しいけど、リンには戻って来なくてもいいと言ったわ。リンには向こうでの生活があるし……」
母はそう言って、小さなため息をついた。
「ルカもね、別に無理して背負い込まなくてもいいのよ?」
「無理して背負い込んだ人に言われたくない」
「お母さんは、無理はしてません」
「嘘つかないで」
多分、絶対、そんなの嘘だ。私を引き取るのに無理しなかったなんて。
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