ガタタン、ガタタン。
圭子は、膝に紙袋を乗せて電車に揺られていた。
袋の中身は、夫に買ってくるよう頼まれたコーヒー豆。住まいがなまじ駅に近いために、沿線にある輸入食料品店へのお使いを度々頼まれてしまうのだ。
コーヒーを飲むのはほとんど夫だけなのだから、休みの日にでも自分で買いに行けばいいのに、と思わないでもない。
しかし専業主婦である圭子と会社勤めの夫とでは、明らかに圭子の方が時間に余裕があるため、いつも仕方なく足を伸ばしている。
がらんとした車両の中を見回し、圭子はぼんやりとした眠気を覚えた。
もう少しすれば、この電車も学校帰りの学生や勤めを終えた会社員でいっぱいになるだろう。
こうして背もたれに頭を預けてゆったりと座れるのは、今の時間帯だけに違いない。
帰ったら、夕飯の支度をしなくては。上の娘の塾の時間までに。
それから、学校帰りに英会話教室に寄っている下の娘を迎えに行く。今日はハロウィンパーティーがあるからと、娘は朝から楽しみにしていた。
夫が帰るのはいつも21時頃だ。夕飯を温め直さなければならない。
毎日、毎週、毎月、毎年、大体この繰り返しで一日が、一週間が、一月が、一年が終わっていく。
不幸せなわけではない。家族のことも愛している。
ただ、……ただ、何か物足りない。
ああ退屈、と圭子は心の中で呟いて、電車の揺れに意識を任せた。
はっと気がついたとき、圭子が一番に思ったのは「乗り過ごした!」ということだった。
しかし自分の置かれている状況を見るに、それどころではないようだ。
さきほどまで電車に揺られていたはずの圭子は、何故か棺桶の中に横たわっていた。
「何よこれ!」
飛び起きると、膝にあった紙袋と傍らに置いていたバッグは見当たらず、着ているものも違っている。
膝丈の黒いワンピース。首元は控えめに丸く開き、襟と袖には上品なレースが付いている。それ以外に飾りの無い、簡素といえば簡素なワンピースだった。見れば、自分の脚が履いているものも、これまた黒いバレエシューズのような靴だった。
圭子が自分で着替えた覚えは、もちろんない。
「ここ、どこかしら……」
圭子は両腕を擦る。半袖のワンピースでは、少し肌寒いところだった。
空には黒と紫と橙の雲が柔らかな形で垂れこめており、時折生き物のように動いている。
辺りがよく見えないのは、薄くかかる霧と、時間帯が夜であるためらしい。月は出ていないが、かぼちゃ型の街灯が点々と立っていて、どうやら道はあるようだ。しかし、足元は草の生えた地面である。
そして周りにぼうっと浮かび上がっている背の低い影たちは、どう見ても西洋風の墓石だった。
要するに、圭子がいるのは墓地だったのである。
薄気味の悪い風景に圭子の足は竦んだが、いつまでも棺の中にいることは躊躇われたので、思い切って地面へ降り立つ。靴の裏が土を踏みしめる、生々しい感触が伝わってきた。
と、急に視界が晴れ、棺の傍、圭子の目の前に、一人の男が現れた。
驚きのために声も出せないでいる圭子を前に、燕尾服を着て高いハットを被ったその男は、恭しくお辞儀をしてみせた。
「私の名はジャック。ようこそ、ミセス・パンプキン。お迎えに上がりました」
「……誰を?」
やっとのことで圭子が聞くと、ジャックと名乗った男はにっこりと笑って答えた。
「貴女を、です。ミセス・パンプキン」
「……私、そんな名前じゃないわ」
「勝手ながらここではそうお呼びします。ああ、寒そうですね」
男が徐に手を挙げると、一番近くのかぼちゃ街灯からオレンジ色の光が分かれ、男の手元へやって来た。暖かく光るそれは、たちまちランタンへと姿を変え、男の手に収まる。
途端に、辺りがほっこりと温かくなる。
「今、何をしたの?」
「ええ、火をこちらに」
「だから、それをどうやったのかって聞いたの」
「気にすることはありません。ここでは何でもありです。貴女の夢の中の世界ですので」
「夢?」
圭子より一回りは若く見えるその男は、しれっと言い放ってまた笑った。
そして、手を差し出してくる。
「貴女があまりにつまらなそうだったもので」
「……つまらなくなんかないわ。私、帰って夕飯の支度をしないと。買い物もまだなの」
圭子が男の手を拒むと、彼は眉尻を下げて、「仕方ない」とでもいうような顔をした。
圭子のいた世界を現実とするなら、その現実での圭子の生活を、そしてその生活に対して圭子がどう思っているのかを、すべて知っているかのような表情だった。
ここが圭子の夢の中だというのなら、それは当たり前のことなのかもしれないのだが。
「大丈夫、ここでの一晩は、実際の時間にして1分にも満たないのです」
「それは都合のいい話ね」
「何でもありですから、貴女のご都合のままに」
だんだん笑みが胡散臭くなってきた男は、再び圭子の方へと手を伸べてくる。
(本当に夢?)
圭子は自分自身に問いかけた。男の言う通りなら、圭子は電車に乗ったまま寝過ごすこともなく、時間通りに家に帰れる。娘の塾の時間にも間に合う。
オレンジ色の灯りと夜の闇の中に照らし出された男の白い掌が、上を向いて圭子の手を待っている。
(これって浮気かしら)
そう思いはしたものの、夢の中で他の男の手を取ったからといって、それを勘定に入れるほど夫の心は狭くないはずだ。
「さあ」
妖しく響いた男の声が、圭子の心をぐらつかせた。
「……でも……でも、こんな歳になって、こんな格好で出歩けないわ」
悪あがきとばかりに圭子が言うと、男はどこからともなく姿見を取り出し、圭子の全身を映してみせた。
「どんな歳ですって?」
「あら……」
一体どういうことなのか。鏡の中の圭子は、十ほど若返っていた。結婚したばかりの頃の容姿だ。
男は姿見の縁に手を掛け、鏡の中の圭子に微笑む。
「よくお似合いです」
「そうかしら」
ぱっと姿見が霧散した時には、圭子は男の手を取っていた。
道なき道を照らすかぼちゃ街灯の光が、少し強くなった気がした。
「では、どこへ行きましょうか、ミセス・パンプキン」
二人は墓地の中を歩いていた。
頭上でバサバサと何かが羽音を立てても、隣に誰かがいるというだけで気にならなかった。
「ところで、私は何故棺桶の中にいたのかしら」
「ああ……あれは出入り口ですから。なので、お帰りの際もあの中に」
「嫌なゲートね」
「そういう決まりです」
「何でもアリじゃなかったの?」
「制約はあります」
「……ずっと歩いてるのに墓地から出られないのも、制約の一つ?」
「当たらずとも遠からず、と言っておきましょう」
どういうことか、と圭子が再び口を開こうとした時、二人の行方を遮る者があった。
一本足でボロきれを纏ったそれは、どう見てもカカシだった。しかし、
「呼んだ?呼んだ?」
カカシとはこれほど流暢に喋る物だっただろうか?
「呼んだ?呼んだ?」
ぱくぱくと布地の破れ目を動かして喋るカカシに、驚いていたのは圭子だけだった。
隣の男を見ると、彼は呆れたような、不機嫌そうな、それまで見せたことの無い表情で一本足の蕪頭を見ていた。
ぴょんぴょんと器用に近づいてくるカカシに、男は「呼んでない」と低い声で応えた。
「……これは何?ジャック」
「あれ」ではなく「これ」と言えるほど近くへ来たカカシを圭子が指差すと、男はため息を吐いてそれを圭子に紹介した。
「私の従者のようなものです。ただ、『使えないこと』が唯一の取り柄でして」
ぴょんぴょんとその場で跳ねるカカシを、男は手で追い払おうとして――何かを思いついたように、やめた。
くるりと圭子の方へ視線を向け、男は朗らかに問いかける。
「そういえば、ミセス・パンプキン。お腹は空いていませんか?」
「え?ええ、空いてるわ。今日はお昼を早めに食べたし……」
「では、かぼちゃのパイを」
男がカカシに向き直って言うと、カカシは一瞬静止した。そして次の瞬間には、丸い頭の上に、器用にシルバーの盆を乗せていたのだ。
男はそれをひょいと取り上げると、圭子に差し出す。
そこには一口大のパイらしきものが、山と積まれていた。
しかし。
「かぼちゃのパイですって?」
「ええ」
「どう見ても蜘蛛よ、これ」
黒とオレンジの毒々しい色合いのそれは、生地そのものは本当にパイのようだ。圭子もたまにお菓子を作ることがあるので、見た目でそれと分かる。だが、細い脚のようなものが8本ずつ飛び出し、くびれもあるそのお菓子の形は、墓地にふさわしい虫のそれなのであった。
「悪いけど、これを食べる気にはならないわ」
「食わず嫌いはよくないですね。美味しいのに」
男は一番上の蜘蛛をつまむと、ぱくりと口に入れて咀嚼し始めた。サクサクと音がするので、本当にパイだったらしい。
圭子がなおも首を振ると、男は首を竦めて盆をカカシに返し、今度こそ一本足の蕪頭をその場から消し去った。
ぱんぱんと手を叩いて埃を払うと、男は道の向こうを指差す。
「では、パーティー会場へ行きましょう。きっと別な食べ物があります」
「パーティーをやってるの?」
「今宵はハロウィンですから。まあ、ここではいつだってハロウィンなのですが」
「そうなの?私の夢の中が?」
「おっと、余計なことを。何でもありません、マダム。さて、途中で橋を渡りますが、橋の下から魔女が睨んできても相手にしないように」
「……分かったわ」
男の言葉が何やら気になったが、ここで現実と非現実の境を考えるのは無意味である気がして、圭子は言及しなかった。
橋の向こうから、やけに耳につく音楽が聞こえてきていた。
甲高い鐘と体に響くようなドラム、それにバグパイプのようなアコーディオンのような主旋律が、その広場を支配していた。
音楽に合わせて踊っているのは半分透けた幽霊や骨だけの亡者たちで、にわかには信じがたいパーティーだ。点々と置かれた丸いテーブルには美味しそうな食べ物や飲み物が並んでいて、椅子にかけて腹を満たしている者もいる。
有刺鉄線と鎖と蔦でできたアーチをくぐった圭子は、その光景にしばし見とれた。
「いたでしょう、魔女が」
不意に男に聞かれて、圭子は先ほどのことを思い出す。
二人が渡ってきた石橋の下には、確かに魔女がいた。絵本に出てくるような風貌の彼女は、低く呻きながらギラギラとした目で二人を睨んでいたが、それだけだった。
「魔女はここへは来ないの?」
「……かつては、来ました。魔女は一度だけここへ来るのです。今のような惨めな姿になる前にね」
「どうしてもう来ないの?」
「眩しくて、目が眩んでしまうのですよ、きっと」
男の答えはどこか判然としないものだったが、いちいち気にしてはいられない。
そういう世界なのだと、受け入れてしまうのが手っ取り早いのだから。
曲が終わり、一斉に拍手が起こった。幽体と骨が打ち合わされているというのに、きちんと拍手になっているのが可笑しい。
次の曲は情熱的なタンゴだった。短調のそれは、不協和音を交えて聞く者を虜にする。
「腹ごしらえが済んだら、私と踊りましょう、マダム」
「いいわ。私、学生の頃はソシアルをやっていたの」
男はにこりと笑って、初めて会った時のように恭しく頭を下げた。
「もちろん、存じ上げておりますとも」
圭子は微笑み返して、近くのテーブルのチョコレートに手を伸ばした。
ワルツ、ジルバ、フォックストロット、ブルース、ボレロ、そしてまたワルツ。
姿の見えない楽隊は万能で、どんな音楽でも演奏してみせた。
踊っているうちに圭子が「そういえばあんなのもあったわ」と思うと、次に演奏されるのは決まって圭子が頭に思い浮かべた曲なのだった。
男にもダンスの嗜みは十分あるらしく、圭子を見事にリードしていた。
ステップや手の振りはもう忘れてしまっているものとばかり思っていたが、圭子の四肢はまるで何かに操られているかのように自然に動いた。
時間も気にせず音に体を預けるのは、信じられないくらいに気持ちがいい。
家事と育児に追われて最近は足が遠のいていたが、圭子はこれこそが自分の趣味なのだと改めて思うことができたのだ。
だから、男が突然足を止めた時、とてつもなく大きな喪失感に襲われた。
「どうしたの?ジャック」
息を切らして圭子が聞くと、男は悲しそうに告げた。
「そろそろ夜が明けます」
音楽は変わらず鳴り響いている。亡者たちも変わらず踊り続けている。
見上げると、怪しげな雲に隠されたまま、月はまだ出ていなかった。その月が顔を出さないまま、太陽の時間になるということらしい。
「でも、もう少し、」
「いけません。戻れなくなりますよ」
「何でもありなんでしょう?私の思った通りになるんじゃないの?」
「一番大事な制約です。貴女がここにいられるのは一晩だけだ」
「だけど、さっきの棺桶までの道は覚えてるわ。あそこに戻れば帰れるのよね?」
「朝になれば棺は消えます。出口はなくなってしまうのですよ」
「でも、私は……まだここで踊っていたいのよ!!」
圭子の叫びに、会場が嘘のように静まり返った。亡者たちが一人また一人と姿を消し、楽隊の調べも少しずつ尻すぼみになっていく。
テーブルを照らしていた蝋燭の灯は消え、やがてテーブルそのものが消えてしまう。
灯りは、男がいつの間にか取り出していたランタンのそれだけになっていた。
仄明るい光の向こう側で、男が首を振った。
「ミセス・パンプキン。戻らなくては」
「嫌よ!私と踊りましょう、ジャック!」
男はしばし黙っていたが、深々とお辞儀をすると、最後にこう言って消えた。
「今度は、橋の上と下とで会いましょう」
その場に残されたのは、圭子とランタンだけ。
呆然と立ち尽くす圭子の耳に、ぴょん、ぴょん、という聞き覚えのある足音が聞こえてきた。
振り向くと、闇の中に一本足の従者が佇んでいる。
「蕪頭……」
そう呼ぶとカカシは飛び跳ねながら後退し、圭子を誘っているようだった。
「いいわ……別のパーティーを探すもの」
姿を消した男に向けて吐き捨てる。
ランタンを手に、圭子はカカシの後について歩きだしたのだった。
そして、棺はどこにもなくなった。
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