丁度昼下がりだろうか。玄関から呼び鈴が鳴る音で目を覚ますと、辺りは窓からの日差しで白く眩しかった。重い瞼を擦っていると、再びピンポーン、と呼び鈴が鳴る。慌てて炬燵から怠い身体を引っ張り出し、玄関へと向かう。部屋の主の彼女からは自分が不在の時に呼び鈴が鳴ってもドアを開けるなと言い聞かせられてはいたが、今日は特例だ。
「こんにちは。ピアノの調律に参りました。」
ドアを開けると、そこには大きな黒い鞄を抱えた中年くらいの男性が立っていた。彼女のピアノの調律師だ。胸に下がっているネームプレートに記されている名前も彼女に言付けられていた名前と一致するから間違いない。
「どうぞ。」
狭い部屋ですけど。そう付け加えようと思ったが、見れば分かる事であるし、彼には毎年来て貰っているようなので止めておいた。彼が靴を脱いだ所を見計らうと、リビングへと通す。お世辞にも広くない部屋の片隅で、彼女が調律を依頼していた焦茶のアップライトピアノが蹲っている。ああ、そういえば。この部屋へ来てから一度もこのピアノが鳴っている所を見た事が無い。このピアノに存在理由はあるのだろうか。まあ、そんな事はどうだって良い。おれはお辞儀をし、隣の炬燵のある部屋へと下がる。ここからは彼の専門だ。
がたがた、とピアノが解体される音が聞こえた後、静かにピアノは音を鳴らし始める。初めて耳にする、真直ぐな音だった。しかし専門職の彼は音に狂いがあると判断したのだろうか。何度も何度も同じ音を鳴らしつつ、中の部品をいじる音がする。それを各々の鍵盤で繰り返す。
ひどく退屈で眠い。しかし彼が無事に調律を終えるまでは起きていなければ。でも・・・・。
「レン君、起きて下さい。ピアノの調律、終わりましたよ。」
不覚にも眠ってしまったらしい。調律を終えた彼に肩を叩かれ、おれは再び目を覚ました。
「すいません、うっかり寝てしまって。どうもありがとうございました。」
「いえ、これが仕事ですから。」
「あのピアノ、あまり音狂って無かったんじゃないですか?おれ、あれが鳴ってる所を一度も見た事が無いんです。」
しかし、彼は首を横に振った。
「そんな事はありません。ピアノは周りの物音や気温、湿度にも左右されますから。例え弾いていなくとも音は狂うんですよ。」
なるほど。そうして狂ってしまったピアノを毎年この時期に調律しに来るのか。正にピアノの医者という所だろうか。
「それにあのピアノはちゃんと弾かれているようですよ。しっかり使い込まれている音がしましたから。きっと君のマスターさんはこっそりあのピアノで君に歌わせる為の曲を作っているんじゃないのかな?」
「はい?」
おれは思わず耳を疑った。彼女がおれが見えない所でピアノを弾いているという事はさておき。今の言い方、まるでおれがボーカロイドだという事を知っているかのようだった。確かにそうだが、今のおれはパーカーの上にちゃんちゃんこという出で立ち、更にボーカロイドの証のヘッドセットさえ着けていないのだ。他人から見れば普通の子どもと殆ど変わらない筈だ。しかし彼は、はっはっは、とさぞかし楽しそうに笑った。
「そりゃあ分かりますよ、君がボーカロイドだっていう事くらい。私はこういう者なんです・・・」
彼は懐から財布を取り出し、中から名刺を引き抜く。それから炬燵の上に見えるように置いた。それを見て俺は納得した。道理で知っている訳だ。
「部門は違うけれど、君達の事はよく聞きますからね。もしも君もあのピアノみたいに調子が悪くなる事があったら言って下さい。君達専門の良い調律師を紹介しますよ。」
そう言うと彼は上品そうな笑みを浮かべた。きっと営業専用の笑顔だ。流石だな、と思う。おれはひとまず彼女に伝えておきます、とだけ返事をした。
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