壱
あの日と同じ、冬の天空に上弦の月が、浮かぶ夜に思い出す。
寄せ木細工の自鳴琴(オルゴール)を人知れず開き、流れ出る懐かしい曲に、耳を傾けるように。
普段は記憶の底に封じ込めた、雪に落ちたあの花の姿を。
上弦の月が照らす道に、響く固い足音。
道の石畳に落ちる、月光が作る薄い影。
月夜に吹く風は、微かに湿り気を帯びていた。
天空を覆う雲が動き、影が更に薄くなり、代わりに闇が深くなる。
闇が強くなったとき、突然掠れた男の声が、影の主を呼び止めた
「待て! 貴様、こんな時間にどこへ行く!」
影の主が、ゆっくりと振り返った。
居丈高に声を掛けた男は、巡査の風体をしていた。
官吏特有の、人を見下すような物言い、物腰。
影の主は帽子の下から、無言で巡査を見つめた。
雲が動く。
月光が二人を照らす。
影の主が右腕を動かし、着ていたマントを払った。
マントの下から現れる白手袋、飾り袖の吹雪紋、飾紐を帯びた大日本帝國軍の軍服。
巡査が目を見張り、影の主の帽子を見た。
帽子の中央にも、飾り袖と同じ吹雪紋。
「しっ、失礼しましたっ!」
慌てて敬礼する巡査に、影の主は帽子の動きでやっと分かるほど小さく頷き踵を返した。
再び雲が動き、月が陰り、影の主の姿が、闇に紛れるように巡査の目から消えていった。
その寺は花街新吉原の裏手にあった。
江戸の頃には、年季中に命を落とした遊女が、投げ込まれたとも言われる寺。
大正百年の今ではそのような蛮行は行われないが、それでもここは遊女達が最期に行き着く場所だった。
月は雲の切れ間から、幽かに下界を照らすほど。
それでも真の闇よりは、幾分かましだった。
何より軍服にマントを羽織った男は、闇の暗さに慣れていた。
玉砂利を踏みながら本堂の裏手にまわり、そこにひっそりと佇む供養塔の前に立つ。
左手をマントから出した。
白手袋に握られた、深紅の椿の一枝。
跪き供養塔の前に花を置くと、男は帽子を取り、深々と頭を下げた。
マントの肩に、何かが落ちる気配。
跪いたまま、天を仰ぐ。
雨……。
男が気づいた途端、冷たい雨が音を立てて降り始める。
顔を伏せると、捧げられた深紅の椿が、最早雨に濡れていた。
雲の帳の向こうから地上を照らす、淡すぎるほどの月明かりでも分かるほど、椿の深紅が濡れて色を濃くする。
男の脳裏に、あの日、眼前で倒れた女の姿が浮かんだ。
雪の上に流れる黒髪。
乱れた紅絹の襦袢。
襦袢の裾を割る、細く白い足。
透き通るほど白い胸元、白い首筋。
閉ざした瞳の、長い睫の影が落ちる頬には、一筋の涙。
なのに、紅が滲んだ薄い唇には、幽かな笑みが浮かんでいた。
抜き身の太刀を握りしめ、その姿を呆然と見つめるしかなかった、その時の自分。
そして……。
上弦の月が鮮やかな、冬の夜のことだった。
弐
男の訪れはいつも唐突だ。
こんな大門が閉まろうとする時間であっても、特に驚きもしなかった。
ただ雨に濡れ凍るほど冷たくなったマントを受け取ったとき、それ以上に冷たく凍り付いた男の顔から、相方を務める馴染みの遊女椿は、思わず目を逸らした。
「しばらく一人にしてくれないか?」
男のその言葉にも黙って頷いた。
窓辺に腰を下ろし、目を瞑ったまま、外の雨音に耳を澄ます。
少し昔のことを思い出すこんな夜は、屋敷に戻りたくなかった。
待っててくれる人がいるのは分かっている。
ただこんな夜は、待ち人の純粋で真っ直ぐな、汚れない魂と向き合いたくない。
それだけのこと。
男の仲間でもある、明るく艶やかな遊女は、それとなく男の感情を察し、何も言わず一人にしてくれる。
その前に男の相方を務めていた女も、いつも何も言わず男を受け入れてくれた。
嫋やかで細く、白い面に憂いを帯びた遊女は、儚い微笑を浮かべながら男を抱いてくれた。
今も昔も変わらない。
廓の女の優しさ、強さに、甘える自分。
その優しさに何も返せない、自分はどこまでも小さな男……。
参
あの夜……、男は冷たい雨音を聞きながら、疲れ果てた体で、遊女の懐に抱かれていた。
いや、疲れているのは体だけではない。
己の身分、立場、責務、様々な事が、体にも心にものし掛かる。
それが嫌なわけではない。
寧ろ、その全てが男の誇りであり、誉れであり、生きる意味でさえあると思っている。
己の理想と信念。それに向かって突き進むこと、それが自分の生き方だとも。
ただ時折、疲れていることを思い出す。
そんな時、廓の女は、何も言わず抱きしめてくれた。
「綾華」
男が遊女の名を呼んだ。
「あい」
廓言葉で女が返す。
「俺は……お前に甘えてばかりだ」
「何を、おっしゃりんす?」
鈴を転がすような声で、女が囁く。
「俺はきっと、何も返せない……」
男を甘やかすのが、廓の女の生業。
そう割り切るには、男は優しすぎ、若すぎた。
「わかっておりんす」
女の声はいつも優しい。
「何もして下さらんでも、ぬし様は、今のままでようござんす」
少し笑いを含んだ廓言葉が、柔らかな音色のように聞こえる。
女の胸から匂い立つ、甘やかな香りが心地よい。
この女から受ける安らぎは、銭金以上の物。それでいて色恋とは言えない。
母親に感じる情愛……それが一番近いかも知れない。
だから返せない。恋も、愛も……。
どちらも己を生きる男には、あり得ない感情。
それでも女はいいと言ってくれる。
またその女に、男は甘えた。
「俺は……きっと冷たい男だ。雪のように……」
雪の業を背負う男が、呟くように言った。
男を抱く女の腕に力がこもる。
「あっちはそうは、思いませぬが……ぬし様がそう思われるなら、それでようござんす。そのまま……冷たいお人でありなんせ」
「綾華……」
男の髪を、女の細い指が撫でる。
「そんな雪でさえ……温かいと感じる凍えた女が、ここに居ると……それだけ覚えていてくんなまし……」
「……ああ……」
女の言葉の意味がよく分からなかった。
分からないまま、男は眠ってしまった。
眠りの中で女の声を聞いた。
「ぬし様は……変わらないでいてくんなまし。変わらないで……お役目をはたしてくださんせ。……あっちが、変わるでありんす」
やはり女の言葉の意味が分からなかった。
ただ女の声が、泣いているように聞こえた。
四
影憑が吉原近くの寺に出た。
という通報を聞いて、駆けつけたのは、それから数日後の夜のことだった。
前日から降り続いていた雪はやみ、積もった雪が月の光を受け、白く輝く。
一面の銀世界。
そんな寺の門前に、禍々しい黒い影が、立ちはだかっていた。
「他に影に憑かれた者は?」
男が先に来ていた軍人に尋ねると、軍人は首を振った。
「誰も。あの影はただ、攻撃を仕掛けた者を払いのけるだけで……。だが、かなり強い」
「分かった。全員、下がれ! 裏と横手にまわれ!」
影を取り巻いていた者達が、男の指示通り、一斉に散った。
残ったのは男と影憑のみ。
男が腰に帯びた軍刀に手を掛けた。
影憑は動かない。
男の足が地を蹴る。飾り袖が、闇に翻る。
左手で鞘を支え、男は刀を抜いた。
冴えた直刃に映る、上弦の月。
月光を跳ね返しながら、男は影を袈裟懸けに切った。
舞い散る雪。
更に逆袈裟に影を切る。
影が雪となり、飛散する。
月の空に雪が白く舞い上がると同時に、男が目を見開いた。
そこに倒れていたのは女だった。
降り積もった雪の上に流れる黒髪。
乱れた紅絹の襦袢。
襦袢の裾を割る、細く白い足。
透き通るほど白い胸元、白い首筋。
「あや……か……」
女の閉ざした瞳の、長い睫の影が落ちる頬には、一筋の涙。
なのに、紅が滲んだ薄い唇には、幽かな笑みが浮かべていた。
刀が男の手から滑り落ちる。
男は慌てて駆け寄ると、女を抱きしめた。
冷たい。
女の体は、最早冷たくなっていた。
「なぜ……」
男の刀は影を払う刀。
影は切り払っても、人の命を奪うことはないはず。
なのに女の心の臓は止まっていた。
『……あっちが、変わるでありんす』
影憑に……変わった?
「なぜ……」
何もかもが分からない。
なぜ、女は死んでいる?
なぜ、女は影憑になった?
なぜ……ここに倒れているのが綾華なのだ?
なぜ……なぜ……。
「うっ……、あ……、わぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
出ない答えに、男が叫ぶ。
自分にこんな声が出せるとは思わなかった。
女の死に、自分がこんな声を出すとは思わなかった。
ただ、叫ばずにはいられなかった。
5
遊女綾華が心の臓を患っていたことを、後になって遊女屋の親父から聞いた。
影に憑かれた心身の負担に、女の体は耐えきれなかったのだろう。
なぜ影に憑かれたか……。
男は女がわざと影に憑かれたような気がして仕方がない。
恐らくそれは……。
男は目を閉じ、首を振った。
全て終わったことだ。それでいい。
「はいりんすよ」
ふすまの向こうから、椿の声。
「ああ」
ふすまが開き、女が入ってきた。
「もう、よろしいでありんすか?」
「ああ」
この女も、男を甘やかす。
そろそろ一人でいたくない頃合いに入ってきた。
「鳴子」
女の本来の名を呼び、手を握って引き寄せ、座らせた。
「っと、危ないでしょ」
「いいから」
何がいいんだと、言いかけた女の胸に、男は頭を預けた。
「ちょ、ちょっと……」
女はまた何か言いかけたが、呆れたようにため息をつき、男の頭をそっと抱きよせた。
「仕方ないわね……」
「ああ」
それだけ言うと、男は再び目を閉じた。
外の雨はいつの間にか雪に変わっていた。
雪は供養塔の前に供えられた紅い椿に、静かに白く降り積もっていった。
雪の褥(しとね) -心象描写 上弦の月-
黒うさP様の「上弦の月」http://www.nicovideo.jp/watch/sm21360174を聴いて、どうしても書きたくなってやってしまいました。
一応一斗まる先生の「小説千本桜」の設定を微妙に使わせて頂いています。
ミュージカルの方は、筆者にミュージカルトラウマがあるため、見てません。
かなり、盛っている上に、ボカロじゃなキャラがいたりします。
えー、言い訳はそんな感じです。まあ、その、原曲及び小説ファンの方、怒らないで下さい(爆)。
コメント0
関連動画0
オススメ作品
ミ「ふわぁぁ(あくび)。グミちゃ〜ん、おはよぉ……。あれ?グミちゃん?おーいグミちゃん?どこ行ったん……ん?置き手紙?と家の鍵?」
ミクちゃんへ
用事があるから先にミクちゃんの家に行ってます。朝ごはんもこっちで用意してるから、起きたらこっちにきてね。
GUMIより
ミ「用事?ってなんだろ。起こしてく...記憶の歌姫のページ(16歳×16th当日)
漆黒の王子
A1
幼馴染みの彼女が最近綺麗になってきたから
恋してるのと聞いたら
恥ずかしそうに笑いながら
うんと答えた
その時
胸がズキンと痛んだ
心では聞きたくないと思いながらも
どんな人なのと聞いていた
その人は僕とは真反対のタイプだった...幼なじみ
けんはる
Hello there!! ^-^
I am new to piapro and I would gladly appreciate if you hit the subscribe button on my YouTube channel!
Thank you for supporting me...Introduction
ファントムP
勘違いばかりしていたそんなのまぁなんでもいいや
今時の曲は好きじゃない今どきのことはわからない
若者ってひとくくりは好きじゃない
自分はみんなみたいにならないそんな意地だけ張って辿り着いた先は1人ただここにいた。
後ろにはなにもない。前ならえの先に
僕らなにができるんだい
教えてくれよ
誰も助けてく...境地
鈴宮ももこ
考えてるよりもリアルは遠くて近い
ふと手を伸ばせば 感じる熱さ
その口も 瞳も
つぎはぎで不器用な音ばかりでごめんね
今はだれかの 跡をなぞるだけだけど
ねぇ つたないままでもいい
「その声」で聴かせて
ココロから剥がれ落ちた言葉を
いびつな形でも 足りないかけらを
くれたのはいつも君なんだ...その声で聴かせて
kijima
それは、月の綺麗な夜。
深い森の奥。
それは、暗闇に包まれている。
その森は、道が入り組んでいる。
道に迷いやすいのだ。
その森に入った者は、どういうことか帰ってくることはない。
その理由は、さだかではない。
その森の奥に、ある村の娘が迷い込んだ。
「どうすれば、いいんだろう」
その娘の手には、色あ...Bad ∞ End ∞ Night 1【自己解釈】
ゆるりー
クリップボードにコピーしました
ご意見・ご感想