-雰囲気-
「えー…。今日から新しい先生が来る…はずなんですが」
戸惑いながら、担任は言った。
「遅れているよう…ですね」
数学の時間だった。
うわさの臨時教師とやらは赴任初日に、思い切り遅刻をしているらしい。まあ、生徒たちからしてみれば、自習にでもしてもらってバカ騒ぎしていられるかもしれないのだから、万々歳なのだが。
そのとき、廊下をばたばたとあわただしくかけてくる人影が見えた。
「すみませんでしたっ!」
ドアを開けるなりそういった青年は、黒縁めがねがよく似合った。
あんまり勢いよく入ってきたものだから、ドアの段差に躓いて、思い切り転んでしまった青年を見て、レンはぷっと笑った。そして、小さな声で、
「どっかのバカとそっくり」
「レンきゅん、そんなに俺のこと覚えててくれたの? うれしいなぁ」
「ああ、お前の無様な転び方は忘れたくても忘れられねぇよ」
黒い笑いを浮かべながら、レンは言った。
それを横目で見ながら、リンは、いったいどっちが悪だったんだっけ、と苦笑いしていた。
ところで、入ってくるなり思い切り転んだ青年は、担任の先生にこっぴどくしかられ、なんだか廊下を走ってきたときよりも一回りほど小さくなっているように思えた。
「――じゃあ、ちゃんと授業はしてくださいね、氷山先生」
「はい。ほんっとうにすみませんでした!」
深々と頭を下げ、出て行く担任を見送ると、『氷山先生』は気を取り直して生徒たちのほうに向くと、人懐こい笑顔を見せた。それから、黒板に自分の名前を書いた。『氷山キヨテル』。振り返り、自己紹介を始める。
「えー…。僕の名前は、氷山キヨテルといいます。数学の先生が産休を取られたので、臨時教師としてやってきました。えーと…。よろしくお願いします」
簡潔な自己紹介だった。
なんだか簡潔すぎるような気もした。
そんなキヨテル先生の授業が始まった。
数学の先生の産休が終わり、清輝先生がこの学校を離れるまで、彼が転生の『ドジっこ先生』だといううわさ(事実)が、絶えることなく流れ続けたのは、いうまでもないだろう…。
「――ああ、鏡音くん、ちょっと」
数学の授業が終わって、教室を出ていくとき、キヨテルがレンを呼んだ。
「…。リン、呼ばれてんぞ」
明らかに自分が呼ばれているのに、レンはあえてリンに言った。
「『鏡音君』だからレンのほうでしょ」
これはリンの正論である。
「俺、今、てぇ離せないんだけど」
「早弁しながら何言ってんの」
「朝飯抜いたって言ってんだろ」
わざわざ教科書で隠しながら、箸を握ってリンに反論するが、どうにも説得力がないのは、頬についた米粒のせいだろうか。
「知らないから、さっさと行ってよ。数学の成績下がるよ?」
「結局成績つけんのはあの先生じゃねぇし、大体そんなことで成績下げる先生いねぇだろ」
まあ、レンなら多少下がったところでなんてことはないのだろうな…、と、リンは思った。レンは何度か校則を破っているが、なんとなく先生たちにはばれずにすんでいる。ばれそうになると、フラッと人の目を避けて証拠を処分するのだ。そんなことをしているので、先生たちからは実にいい生徒として見られていて、成績も上の上。
早弁など、まだまだいいほうなのだ。
「…しかたねぇな、行ってくる」
「ほっぺにご飯、ついてるよ」
「ん? あ、ほんとだ。ばれるとこだった」
頬についた米粒をとって食べてしまうと、レンは少し恥ずかしそうに笑って、キヨテルのほうに歩いていった。勿論、今、早弁していたとは思わせないような、態度で、だ。
どうしたらあんなに切り替えが早くなるんだろう、と、リンは思っていた…。
「…重いんですけど」
廊下で、レンは言った。手には数学のプリントが大量に積み上げられている。
「いやいや、成長期の少年には必要な運動量だと思いますよ」
「いや、実際そこまで重くないですけど…」
そりゃあそうだ。こんなもので重いなんていっていたら、これまでの戦いで負けていたに違いない。
しかし、今はそんなことはどうでもよかった。ただ、この先生と早く離れたかったのである。この先生の妙な空気感が、どうにもレンは苦手だった。
まず、まともな先生なら初日から遅刻なんかしてくるはずがないし、まじめそうな黒縁めがねをつけていながら耳にピアスなんかつけてはこない。このピアスが、この先生の不思議なオーラを増幅させているように思えた。
「これ、どこまでもっていくんですか」
「とりあえず、数学特化教室まで」
「…」
「そんなに遠くないですよね?」
「…いや、うちのクラスから遠くはないですけど」
「じゃあがんばってください」
「あの…」
言いにくそうにしているレンに、キヨテルは首をかしげた。
「どうしました?」
「…過ぎましたよ」
「え?」
「通り過ぎましたよ、数学特化教室、ずいぶん前に」
「…」
しばらく間があって、キヨテルはあわてだした。
「あ、あれぇ!?」
「あっちですよ」
「あれ、で、でも、もらった校内図では…」
「校内図、向きが逆です」
「あ、あれっ! あ、本当だ! あれ、でも、ここがこうだよね…」
「いや、こっちがこうです」
「え、え、あれぇ!?」
校内図片手に慌てふためくキヨテルを見てため息をつきながら、レンは先ほどまでのいやなオーラはただの思い過ごしか、と思った。こんなただのどじに、いったい何をかんぐっているのだ、と。
これまでのことがあって、少し敏感になっているのだ。これまでのこと、とは、主にレオンのことである。
「兎に角、数学特化教室に行きますよ。そこで別の生徒に案内してもらってください。俺、次、移動教室なんで」
「あ、ああ、すみません」
ぺこっと頭を下げ、レンについてくるキヨテルは、やはりただの「ドジっこ先生」だった…。
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