ねえ先生、知っていますか。
どんな人間にも守りたい存在があるんです。
それは形のあるものとは限らないんです。
例えば色褪せた思い出。
目を閉じればいつでも大切な人に会えるんです。
でもそうすると、少しだけ寂しくなります。
やっぱり会いたいんです。
私にとっての守りたい存在。
私はあの時、それを伝えられませんでした。
いや、伝えられたとしても、きっとあなたは笑いながら上手くかわすのでしょう。
あなたから見ればまだまだ子供なのです。
子供の言う事は一時の感情が生んだ、いわば思いつきみたいなもの。
あなたはそうやって、ずっと過ごしてきたんでしょう?
もう会えないあなたにこうして問いかけても、答えなんて返ってこないけど。
「転勤…ですか?」
放課後の教室で、私はその言葉を聞いた。
「そうだ。今度の四月から、もうここじゃないところへ行くんだ」
「普通そういうのって、新学期に公表されますよね?」
「せっかくだし、君には伝えておこうと思って」
今週末で三学期が終わるこの時期に、補習なんてない。
ただ勉強でわからない範囲があったから、こうして先生に教えてもらっていた。
今教室には私と先生の二人だけ。
今日は部活もないから、この校舎のどこを探しても私以外の生徒はいない。
「寂しくなります。一年のときからずっと、先生に教えていただいて…」
「残念だけど卒業まで見届けることはできないな」
「先生の授業とてもわかりやすいんです。だから残念です」
「でも、その授業は明日で最後だ」
先生はさらりと流しながら、目線は教科書から離さない。
その目が私自身に向くことはない。
「でも…なんで転勤のこと、私に教えてくださったんですか?」
この二年間、先生の授業を受けてきて、私の中の何かが変わった。
勉強に対する態度とか、自分の進路のこととか、正面から考えるようになった。
先生は授業以外にも、質問に行けば教えてくれたし、転びそうになれば支えてくれた。
雑用とかも自分から手伝いに行ったし、相談をすれば一緒に考えてくれた。
だからだろうか。
彼への憧れが、いつしか恋に変わったのは。
学校で彼に会うことが、こんなにも楽しみなことになったのは。
やだなあ。
彼から離れるのがとてもつらくなったのはいつから?
生徒じゃなくて、パートナーとして隣にいたいと願ったのはいつから?
バカみたい。彼は私のものじゃない。彼は誰のものでもない。
恋っていうのがこんなにわがままな感情なら、絶対に叶いっこない。
他の結末を探したって、所詮子供には何もできなくて。
「なんでかな。巡音だから?よくわからないな」
彼は思いつきで言っただけなのかもしれない。
例え何かを言われたとしても、大人だから先々はお見通しで。
うまく回避して、最善の答えを導けるのかもしれないけど。
私にはそれができない。
「私だから?期待しそうになるじゃないですか。下手な冗談はよしてください」
笑いながらそう答えられるのは、どうせ叶わない思いだと諦めているから。
「はは、意外と冷たいね。…ああそうだ、質問はもう終わりだろう?」
「おかげで要点をうまく掴めました。春休みもきっと困りませんよ」
「じゃあ問題を出してあげようかな」
私から教科書を取り上げて、彼はそれを閉じてしまった。
きれいな彼の字で、丁寧に解き方のポイントが書き込まれたページは姿を消す。
「どんな問題も答えてみせますよ」
「頼もしいね。じゃあ問題。…冗談じゃないって言ったら、どうする?」
先生が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「さっき俺が言ったこと。覚えてるだろう?巡音だから伝えたって」
「…何を言うんですか?」
「これが嘘か本気か、君自身で考えて決めればいい」
立ち上がった彼は、私の手を引いて私を腕の中に収める。
引かれた手は彼の服の裾を掴む。
彼の温もりを直接感じて、私はどうしたらいいかわからない。
「…私、好きな人がいるんです。その人は優しくて、時々いじわるで」
もしものことなんてありえない。
叶うのならこのまま離れたくないし、この手を離したくない。
だけど…彼を困らせてはいけない。
「素敵な人です。でも私から思いを伝えても、きっと届かないんです」
胸に抱えているこの思いを、彼に伝えてはいけない。
ものわかりのいい生徒を演じないといけない。
「そしてそれは先生への気持ちじゃない。だから……」
先生から離れて勉強道具を鞄に放り込み、扉へ歩く。
「先生、これ以上嘘をつくのはやめましょう?…私は唯の生徒ですから」
私をからかっていただけなのだろう。
大人は余裕を装って平然と嘘をつくのが上手い。
もしも彼が私を想ってくれていたのなら、ずっと寄り添っていたい。
だけどそれは幻想でしかないから。
だから私も余裕を装って、平然とするしかないんだ。
ねえ先生、知っていますか。
私、こんなにもつらいんですよ?
あなたと一緒にいれたらって、ずっと想ってるんです。
「今日はありがとうございました。じゃあ、また明日」
「そうだな。…また明日」
彼女が教室を出て行った後、俺はため息をついて椅子に腰掛ける。
ようするにあれが彼女の答えだ。
彼女は冗談だと受け取ったのだろう。ならばそれでいい。
転勤なんて真っ赤な嘘。
一身上の都合で退職することを、彼女は新学期に知ることになるだろう。
そのときには俺は居ない。
本当は、彼女を連れて行けたらよかった。
いや、どこか遠くに二人で逃げたかった。
今抱えてる責任とか信頼とか、嫌なことやつらいこと全てどこかへ捨てて、
「君を連れて、二人で未来を紡げたのなら、どんなにいいだろうか」
もしも彼女が了承したとしても、俺は冗談というしかなかっただろう。
そういう事情を抱えてしまっているから、どうせその願いは叶いやしない。
彼女の近くを離れたくない。
「だけど、さよならしなきゃ…いけないんだな」
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