-紺-
暗い青の空を見上げ、レンはため息をついた。
今は午後二十三時五十分。あと十分で、こちらの世界から魔界へと連れ戻されて、もうリンたちには会えなくなってしまう。
窓を大きく開け放し、夜風を胸いっぱいに吸い込んで一気に吐き出し、顔を窓の外にぐっとつきだしたら頬やボタンの外れたワイシャツの隙間から、涼しい風が体に触れて、気持ちがいい。ふと、時計に目をやった。時計は十一時五十二分を指していた。
窓の淵に足をかけ、もうすぐ満月という明るい夜へとびだした。黒く大きな翼は強い風を巻き起こしながらレンの体を支えて、月明かりを浴びながら広く静まり返った街の上空を楽しげに飛び回った。
学校の真上まで来てみれば、何か黒いものがうごめきながら待ち構えているのが見え、そのすぐそばに青いマフラーの青年がこちらを見上げているのが見えた。
肩を落としてその場から急降下すると、カイトはうれしそうに微笑んで、
「やあ、レン」
といった。
「…カイト兄…」
「どうしたの?ああ、もうすぐ零時になる。さあ、おいで」
いわれたとおりに、先ほどからうごめいている黒い物の方へ歩いていく。それは徐々にカタチを成し、黒い馬車となって二人を中へ招き入れるようにその扉を開いた。気味の悪いそれは中にはいるのすら気持ちが悪かったが、ここで抵抗したところで少し出発の時間が遅れる程度だ。観念してレンは中へと乗り込んだ。レンが乗り込んだことを確認すると、カイトは扉を閉め、後ろから左側に回りこんでそちらの扉から中へ入ってきて、レンを見た。しかしレンはそっぽを向いて、校舎の大きな時計をじっと眺めながら頬杖をついて何かを口ずさんでいた。
「何の歌?」
「…学校のクラス対抗歌唱コンクールの、少人数戦でリンと歌う曲」
「二人だけで?レン、そんなのに選ばれたの?」
「…うん」
頷いたり受け答えたりすることは間違いないのだが、一向にカイトのほうへ目を向けようとはせず、あえて目をそらしているように見えた。
カイトの懐中時計が、レンの腕時計が、同時に午前零時を告げる音を鳴らす。
「…レン、いいかい?行くよ」
「…」
パチンとカイトが指を鳴らして合図をすると、闇色の“それ”はゆっくりと重そうな体を動かし、ガタガタ音を立てて空へと舞い上がっていく。
雲の合間をぬって走るそれは、二人を乗せて魔界へと通じるたった一つの道へと一直線に進んでいた。
ふと、初めてレンがカイトに話しかけた。
「…五人」
「え?」
「カイト兄がリンを殺していたら、俺の周りから居なくなっていた、大切な人の人数」
「父さんだろ、母さん、リンとあの子。…レン、計算間違っているよ。四人だろ?」
「カイト兄。一応、カイト兄も俺の大切な人…。これまでのは全部、俺の想像だけどリンを殺していたら、想像じゃすまなかった」
恥ずかしそうにいったレンは何かメッセージをこめていたのか、特に意味はなかったのか、カイトには分からなかったがその言葉だけで十分すぎるほどカイトはうれしかった。
「あれ、カイト兄。用事、終わったの?何のお仕事だったの?」
少女は帰ってきたかイトに抱きついて、矢継ぎ早に質問を投げかけてきて、かぎなれたカイトの匂いをかいで、ぱっと離れた。そうして下からカイトの顔を覗き込んで、
「どうしたの?」
ときいた。
「ああ、いや、なんでもないよ。どうして寝てないのさ?いい子は寝る時間」
「じゃあ、リン、悪い子でいーい」
「こら。寝ようね、さ、今日は自分の部屋で寝て」
「はーい。おやすみなさい」
一応は兄に寝るふりをしておいた。
この後、彼女――リンという名だった――は、こっそりと地下室へ降りていくという予定を立てていた。
一、二週間前まで兄は欠かさず毎日五回、地下室へ降りていたのが、ぱったりとなくなっていたのが、ずっと気になっていたのだ。
そっと地下室へ続く扉を開き、恐る恐る下へ降りていく。
かび臭い匂いが鼻につんと来るが、リンの強い好奇心の前ではそれも何かを見つけるために出てくる、いくつかの障害程度のものなのだろう。
美しい金髪が暗い地下室のランプの光できらきらとひかる。少し長い程度の髪の毛を、後ろでゆるく結んだ姿が、地下牢に閉じ込められた“彼”の目に映った。いきなり、近くから、
「ガタン!」
「きゃあ!!な、何?だれか、いるの?」
おびえながらも手に持ったランプをそちらへと向けてみれば、そこには黒い鉄格子の牢獄。そしてその中に一人、自分と背丈も殆ど変わらないであろう少しかわいらしくもある少年がこちらをじっと見ていた。
「き、君は、誰?」
「…レン。君は?」
「リンよ。ここの主の、妹。君、どうしてこんなところにいるの?」
不思議そうにたずねるリンがよほどおかしかったのか、レンは少し困ったようにわらって、それからそのまま、
「俺にもわからないよ」
と、いった。
「カイト兄に会ったの?」
「会ったよ。というか、小さいときから会ってる」
「どういうこと?君、一体何者なの?」
「レン。悪魔、向こうの世界にいる鏡音リンの使い魔」
あらかた自分のことを説明して、一度呼吸を整えるための間を取ってみた。ランプを床においてレンの顔を見ていたリンの手が、レンのほうへと伸びて、ふんわりとレンの額辺りに触れた。
「…なんだか、貴方、かわいそう。こんなところにいないで、カイト兄にお願いしてあげるから、ここを出るといいわ」
「ううん、やめたほうがいいよ。君も俺みたいになりたくなかったら、ここに来たことは絶対カイト兄に言っちゃいけない。いいな?」
口調が段々かしこまった言い方から、いつものぶっきらぼうですこし乱暴な言葉遣いに変わっていた。
「う、うん…。でも、どういうこと?」
「聞いたままのこと」
「…よく分からないけど…。わかったわ、カイト兄には言わない。じゃ、おやすみなさい」
「ああ、お休み」
いそいで地下室の階段を駆け上がっていくリンを見て、レンはなんとなく、可笑しな感覚を覚えた。
彼女はあったことのないはずだが、どこか懐かしい、心休まる空気というか雰囲気というか、オーラのようなものが出ているに違いない、とレンは勝手に推測していた。
それにどことなく自分や、主人のほうのリンによく似た顔立ちをしているようにも見えた。
「…ふぅ。…今頃、皆寝てるかなぁ…」
暗い灰色の天井を見上げ、大人しくカイトに従ってきたことを少しだけ後悔した。
それから、三日がたった。
朝昼晩、昼夜を問わず暗い地下牢では、常に鼻を曲げてしまいそうなカビの臭いが漂い、段々と気分を害していく。
「うぅ、臭ぇ…」
「…レン?」
降りてきたのは三日前にもやってきた、リンだった。
やはり三日前と同じように少し長い髪を緩く結んで、手にはランプを一つだけ持って心細げに降りてきたのだ。
「…どうした?」
「レン、カイト兄の様子がおかしいの。どうしたらいいのか、分からない?」
「おかしいって…」
そんなの、もともとじゃないか。そう言おうとして、レンはのどまででかかったその言葉を、無理やり胃のほうへと押し戻した。彼女はまだ、カイトを優しい兄として慕っているのだ。それを殆ど部外者である自分が壊す権利など、あるわけがない。
「どうおかしいんだ?」
「何だか、十字架を避けるみたいに…」
「ああ、それは。カイト兄は、純血のじゃないけど、吸血鬼が混ざってるから」
「でも今まではそんなこと、なかったのに」
たしかに、それは明らかに不自然である。ずっと共に暮らしているであろう、リンが言うのだから、まず間違いない。
少しだけ考えてレンは、
「…リン、お前、いつからここにいる?」
「えっ?いつからって、カイト兄の妹だよ?ずっとここにいるに決まっているじゃない。生まれたときから、ずっと。そうね、十四歳だから、それくらい」
「…じゃあ、俺を覚えていないか?俺は、九歳までこの館の中で暮らして――」
そこまで言ったときだった。やっと、分かったのだ。彼女は…。
「リン、何をしているんだい?」
冷たい青の瞳が、おびえた二人を映しだして、コツコツと踵で音を立てながら二人の弟妹のもとへゆっくりと降りていった。
「か、カイト兄…」
少し後ろに後ずさったリンを見て、それから、牢獄の中に閉じ込められた弟をみた。弟はニッと笑って、カイトの方へ顔を向けて、満足げに口を歪め、それから面白がるように言った。
「そういうことだったんだな。やっと、分かったよ。カイト兄」
「レン…」
「ど、どういうこと?何が分かったの?」
「それはな、リン――」
「リン!!寝ていなさい。レンと二人だけの話がしたいんだ。いいね?」
有無を言わせず、命令でもあるようにカイトは言った。
何かを言おうとしてリンは俯くと、少し寂しげにうなずいて見せてカイトの横を通って、振り向きざまにレンを見たが、すぐに石の階段を上っていった。
それを見届けるとカイトはレンに近づき、真剣な面持ちで話しかけた。
「レン、もしかして、本当に気がついたのかい?」
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