演劇部の連中に、学祭は抽象的な演出で『ロミオとジュリエット』をやることにに決めたというと、反対意見もなく、あっさり決まった。一点を除いて。
まあ平たく言うと、部長が部を私物化するのはどうかという点だ。これは確かに言われても仕方がない。話し合った結果、文化祭は二日に亘るので、主役はダブルキャストにする、ということで決着がついた。片方はロミオをグミヤ、ジュリエットをグミが演じ、もう片方はロミオを蜜音、ジュリエットを一年の結月ゆかりがやることになった。
「そっちのチームには負けないわよ」
「生憎ですけど蜜音先輩、あたしとグミヤ先輩には勝てませんから。何せ本物の恋人同士ですもん」
いつ勝負になったんだろうなあ……というか、誰がどうやって勝ち負けを決めるんだ。
ちなみにリンが頼んだ「クオをマーキューシオに」も問題なかった。こちらは他にやりたいという奴もいなかったので、シングルキャストである。俺? 俺は前回に引き続き、裏方だ。なんでベンヴォーリオじゃないのかって? 舞台にあがるのは苦手なんだよ。それに、三年ばかりで主要な役を占めるわけにもいかない。
演劇部の連中から承諾をもらった次の日曜、俺はリンに家に来てもらった。もちろん、脚本に修正をかける為だ。放課後に残ってもいいんだが、一日こっちでやれば、かなりの部分を終わらせることができる。あまり連日で残ると、またリンに負担がかかりそうだし。
そんなわけで、俺は自分の部屋で、PCを使って作業をしていた。リンは俺の隣で椅子――他の部屋から持ってきた奴――に座って、画面を見ている。ちなみに、姉貴は姉貴の部屋だ。当たり前だが、リンを家に呼ぶ時はいてもらうことにしてある。
「リン、冒頭の喧嘩のシーンっている?」
あれをざっくり削っちゃうとかなり楽なんだけどなあ。というか、ロミオとジュリエットを見る人って、二人の恋愛を期待している(多分)のに、いきなり野郎どもが喧嘩を始めるから、面食らうんじゃないだろうか。
「グノーのオペラみたいに、キャピュレット家のパーティーのシーンから始めるの?」
「……そんな感じ」
オペラは見てないけど、カットするとなると、パーティーから始めるのが妥当だろうなあ。オペラのDVD、リン持ってるだろうから、貸してもらえば良かった。
リンは考えこんだ。
「わたしは、このシーンはあった方がいいと思うの」
「うん、そう?」
「ええ。何て言ったらいいのかな……このシーンって、最初は両家の従僕が喧嘩をしていて、そこからベンヴォーリオとティバルトという、両家の血筋に繋がる人がでてきて、最後は当主がでてきて争うわけでしょ。子供の喧嘩を親がややこしくしているみたいで、ちょっと面白いと思うし。それに、この後のヴェローナの大公の叱責は、話の流れ上必要だと思うわ」
言われてみればそれもそうか……。下働き同士の喧嘩で止めておけば話はややこしくならずに済んだし、大公が「いいかげんにしろ!」なんて叫ぶこともないんだよな。……考えてみればこの大公も気の毒だよな。大人気ない喧嘩をやってるモンタギュー家とキャピュレット家のせいで、いらない苦労は増えるし果てには身内が死ぬし。
そういや、『ロミオとジュリエット』を翻案した『ウェスト・サイド物語』では、両家はギャング団に変更されている。この冒頭の喧嘩と途中の喧嘩があるせいだろう。十六世紀とは違って、今の人は気軽に殺しあわない。
「言われてみればそうだな……じゃあ残すか。でも冗長だから、台詞削って短くしよう」
「衣装で工夫をして、誰が誰だかわかるようにできない? モンタギュー家には青、キャピュレット家には赤を着せるとかして。で、剣とかで立ち回ったら、見る側には伝わるんじゃないかしら?」
ふーむ、いいアイデアだ。
「じゃ、そうしよう」
俺は必要なことをファイルに書き加えた。
しばらく作業をやっていた時だった。不意に、リンがこう言った。
「このややこしい台詞って、原文ではどんな感じなのかしら?」
「……見てみる?」
「え? レン君、原書を持ってるの?」
「持ってないけど……」
俺はブラウザを立ち上げると、著作権切れの本を読めるようにしているサイトを呼び出した。全部の作品が集まっているわけじゃないが、『ロミオとジュリエット』は超のつく有名作品だ。入ってないはずがない。
思ったとおりで、しっかり入っていた。ファイルを呼び出す。
「ほら」
「あ……」
リンは驚いた表情で、画面にじっと見入った。そんな表情も可愛い。
「どうしてなの?」
「ここ、著作権の切れた本のデータを集めてるサイトなんだ。全部ってわけじゃないけど、有名な作品は揃っているよ」
多分『ピグマリオン』もあるのかもな。探したことないから自信ないけど。
「……そんなのがあるんだ。わたし、学校の授業でしかネットってやったことないから知らなかったわ」
それも禁止事項に入ってるんだっけ。まあ俺も、自分のPCを繋いでもらう時、母親と姉貴に「危ないところ、年齢制限がかかってるところには入らないこと」と散々言われたが……。当時はうっとうしいと思ったが、リンみたいにまとめて全部禁止されないだけマシかもしれない。
「リン、わかるの?」
「……全部は無理。でも、リズムが綺麗というのはわかるわ」
リンにそう言われたので、俺も文面も見てみた。……確かに整ってる感じがするな。あちこち、見慣れない単語がたくさん入ってるので、意味はよくわからないが。対訳みたいに並べたらわかりやすいかもしれない。
リンはしばらく画面を眺めていたが、突然こんなことを訊いてきた。
「ここ、著作権の切れた有名な作品は、大抵入っているのよね?」
「大体はね。もっとも、俺もチェックしたわけじゃないから、どれが入ってるかとかは知らないけど。何か気になる作品でもあるの?」
「……ええ。ちょっと探してみてもいい?」
「いいよ。えーと、ここで収録作品は検索できるから、作者名かタイトルを打ち込んで」
俺は検索画面を呼び出して、指し示した。リンが使いやすいよう、場所を変わる。リンはキーボードを使って、何やら打ち込み始めた。……作者名みたいだな。作品の一覧が表示される。リンはそのうちの一つをクリックした。画面に、ずらずらと英文が表示される。……長いな。
リンは画面をスクロールさせて、それからちょっと残念そうな表情になった。
「探していた奴じゃなかったの?」
「ううん、これよ。でも……今読むわけにはいかないもの。長すぎるし」
俺は画面横のスクロールバーを見た。……確かに長いな。やっぱり作業の方を重視したいし。
「じゃ、後で印刷して渡してあげるよ」
リンが帰った後で印刷して、明日学校で渡せばいい。
「……いいの?」
リンがためらうようにこっちを見る。それくらい気にしなくていいって。
「いいよ、それくらい」
「……ありがとう」
俺は、表示されているページにブックマークを付けておいた。
「ところでこれ、誰の何ていう本?」
ブラウザのタイトルのところには一応表示されているのだが、最初にサイト名が表示される為、タイトルが切れてしまっていて最後まで読むことができない。画面スクロールして探せって? それもできるけど、リンに訊いた方が早いじゃないか。リンの口から聞く方が楽しいし。
俺の質問を聞いたリンは、真っ赤になって俯いてしまった。……どうしたんだ? そんなに恥ずかしい本なわけ? ちっちゃい子が読む本とか? でも、リンが絵本や童話を好きなことは知ってるし、俺がリンのそういうところが好きなことも知っている。ついでに言うなら、この分量はどう見ても子供の読むものじゃない。
「……リン?」
「あ……あの……これ、本じゃなくて手紙なの……」
手紙? まあ確かに、有名な作家だと書簡集とかよく出版されている。書いた当人たちは、死後こんなものが世に出回るとは思ってなかっただろうけど。これも一種の羞恥プレイというのだろうか。
リンはまだ赤くなったまま、下を向いて落ち着かなさげにもじもじしている。俺は一体誰の手紙なのか訊こうと思ったが、それよりもリンの様子の方が気になってしまった。下を向いた弾みで、普段耳の後ろに流している髪が一筋、顔にかかってしまっている。俺は手を伸ばして、その髪をそっと払った。リンがびっくりしてこっちを見る。俺は髪を払った手で、リンの頬に触れた。リンが視線をそらそうとするので、手に力を入れてリンの顔をこっちに向けさせる。
リンの頬は柔らかくてすべすべしていて、触れているだけで気持ちいい。女の子って、どうしてこう柔らかいんだろう? ……頬だけじゃなくて、全部に触れたくなる。
俺はリンの頬に触れている手を、髪の方に滑らせた。そのまま髪の中に指を潜り込ませて、リンの後頭部をつかみ、もう片方の腕をリンの背に回す。
「レン君……」
リンが何か言いかけようとする。でも、俺は聞いてなかった。リンを抱き寄せて、唇を重ねる。当然だけど、唇も柔らかい。その感触を味わうように、何度も何度も唇を重ねた。重ねる度に唇を吸ってみる。……気持ちいい。
何度めかに唇を離した時、リンがはっと喘いだ。すぐ近くにある綺麗な瞳が、少し潤んで熱を帯びている。
「レン君、わたし……」
「リン、好きだよ。大好きだ」
リンの耳元に唇を寄せてそう囁く。リンが僅かに身をすくめた。悪戯心を起こして耳に息を吹きかけてみると、腕の中の身体がびくっと震える。……すごく可愛い。首筋に顔を埋めて、唇を押しつける。ここもすべすべしてて気持ちいい。息を吐くと、リンの身体が少しはねた。もっと色々してみたくて、リンの首筋を軽く歯を立ててみる。
「……あっ!」
リンが悲鳴のような喘ぎをあげ、大きく身を捩った。そして、その瞬間。
俺たちはバランスを崩し、そのまま椅子から転げ落ちた。それも、リンを下敷きにして。……最悪だ。リンはぶつけたところが痛むらしく、顔を顰めている。
「……リン、平気か!?」
俺は慌ててリンの上からどいて、手を差し出した。
「だ、大丈夫だけど……」
顔を顰めつつも、リンは俺の手をつかんだ。そのまま助け起こす。その時、俺の部屋のドアがバタンと音を立てて開いた。
「今すごい音がしたけど……何があったの?」
げ……姉貴だ。そりゃ、人二人分が落ちたんだから、姉貴の部屋にだって当然聞こえるよな。俺の部屋の隣なんだし。まずい、まずいぞ。こうなることはわかってたはずなのに、俺は一体何をしようとしていたんだ。
「あの……わたしたち、椅子から落ちたんです」
俺が言葉を失っている間に、リンが姉貴にそう答えた。姉貴は俺とリンをかわるがわる眺めた後、俺に冷たい視線を向けた。……明らかに怒っている。
「落ちたって、どうして?」
うげ……声がきつい。リンを見ると、赤くなっていた。
「……ふざけあっていたら、バランス崩したんだよ」
一応そう言う。……完全に事実じゃないけど。
「それで椅子から落ちるまで行く?」
行かないよなあ……普通は。
「……レン、あんたちょっと駅前のスーパーまで買い物に行って来て。卵と牛乳切らしてたから」
「あ……うん」
きつい口調のままそう言う姉貴。……頭冷やして来いって意味だな、これは。俺は上着を引っ掛けると、財布をポケットに突っ込んで、部屋を出た。
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