ここは東京都中央区月島。
江戸の昔より続く庶民の街とて、生活臭に燻んだ街並みも、それが下町情緒だと言われてみれば、なにやら有難味があるようで、今やここも、ちょっとした観光地です。
狭い路地裏に店を櫛比させる「もんじゃ焼き」こそが、全国に名の知れたこの街の名物です。
しかし、かの築地市場からほど近くということで、その道の者には、また別の楽しみもあるようです。
コンクリート打ちっぱなしの床に、合板むき出しの壁と天井。そこに裸電球をぶら下げて、粗末なテーブルと腰掛けを並べれば、居酒屋というより海の家か、屋台の趣です。
初秋の午後5時といえば、まだ空の明るい時間帯ながら、その店では、早くもツワモノの飲兵衛たちが押し掛け、店の奥でさっそく出来あがっている者も少なくありません。
そして、その中の一人が表を二度見して、今日はヤケにアルコールの廻りが早いな・・・などと目をこすっています。
掃き溜めに鶴とはよく言ったもので、その時やってきた客というのは、それほどこの場には似つかわしくない雰囲気でした。
靡く桃色の髪が黒羅紗の衣装によく映え、金色に輝く小物も程よく派手すぎず、趣味の良さをうかがわせます。装うものも、それを着こなすセンスも、あらゆる意味で上品ないでたちは、すぐ近くに聳える晴海トリトンスクエアあたりなら、まだしもすんなり溶け込むかもしれません。
この女性が、かの電子の歌姫、巡音ルカだということは、この店の客層からして、おそらく誰ひとり、知るものはないでしょう。あるいは知っていれば、こんな場所に彼女がやってきた理由を想像できるかもしれません。
「イラッシャイマセ~」
中国人と思しき女店員も、その名前は知りませんが、何度も訪れる顔なじみとて、今日のお勧めを抜け目なく紹介しました。
「ええ、それをいただこうかしら」
ルカはあくまで鷹揚に答えたものの、内心では、早くも幸せの期待に、胸が弾んでいました。
いくらか気心が知れてきて、マグロが好きならこの店とばかり、すぐにメイコに連れられて、初めてこの店にやって来た時は、その材木屋のような店構えと、店員のあまりの荒っぽい客あしらいに、思わず入るのを躊躇したほどです。
しかしそれも最初のうちだけ。今では、女のひとり飲みを気にしなくなるほどのお気に入りです。
「オマタセシマシタ~」
やってきたのは葱鮪(ねぎま)。ステーキほどもある大きなマグロの切り身を二つ、長葱とともに串に刺したもの。これが2串もあれば、すばらしいボリュームです。
一緒にやってきた生ビールで軽く口を湿すと、ルカは待ちきれぬとばかり、日頃のお行儀も脇に置いて、豪快に葱鮪にかぶり付きました。
マグロは刺身でも美味しいところに、あえて火を通してあります。味付けは塩コショウのみ。彼女の好みからすると少し塩が強めですが、ビールと一緒にいただくと、それがちょうど良い加減です。
火を通したことで身も脂も香ばしく、決して大げさではなく、サーロインステーキにも負けない旨さ。
(そう、これ、これなのよ!)
ルカは再会の感激のあまり、軽く涙汲んでしまったところ、それを見られてはいないかと、素早く辺りを見回しました。幸い、奥でクダを巻いている飲兵衛どもは、彼女の柄にもない変貌に気付いた様子はありません。
香ばしさに急かされて、最初の一切れを勢いで食べ尽くしてしまったのを軽く後悔しながら、ルカは中ジョッキをもう1杯注文し、残りはじっくりと味わうことにしました。
この店に通うようになる前は、マグロといえば刺身しか目に入らなかった彼女です。高級そうな寿司屋ばかり行脚していた時期もありました。
それが、焼くことによって身は締まってコクがあり、脂は程よく溶けて甘みがある。
調理しだいで、煮ても焼いても楽しめるマグロの懐の深さを、彼女はこの店で初めて教えられたものです。
それが大人の物の見方というものか、あるいは、物の見方は決して一通りではない、という退屈な常識を、ここでも発見したというべきでしょうか。それでもそんな辛気臭い現実も、今の彼女なら生ビールと一緒に、爽やかに呑みこむことが出来ました。
味覚の官能を存分に味わうと、この味を音に例えるならどんな音色だろうか、などと、そこはボーカロイドの性というべきか、ついつい考えてしまいます。
今の自分は、これほどまでに懐深い歌い手に、なり得ているだろうか?
こんなにも心を満たす歌を、自分は歌うことができているのだろうか?
ルカはチラと後ろを振り返りました。
飯台の向こうには、ねじり鉢巻で黙々と包丁を揮う主人の背中が見えます。
彼女は軽く溜息をつきました。
今の自分は、あの包丁のわざに、まだまだ及ばない。でも、いつかは・・・
そう、この一片のマグロと等価の歌がうたえたなら、どんなに素晴らしいことだろう!
たぎる情熱に任せて、腰掛けを蹴っていきなり立ちあがったルカを見て、周囲の酔っ払いたちが、今度こそ目を丸くしています。
我に還った彼女は、その冷やかに鍛え上げた流し目で、好奇の視線を跳ね返し、その連中が思わず首をすくめているうちに、そそくさと足元を探って腰掛けを直しました。
(・・・もしかしてわたし、かなり、酔ってる?)
今は、仕事のことは忘れよう。
そしてビルの谷間からのぞく空が、紫から藍に変わり、いよいよ夜の帳が下りるまで、ルカはゆっくりと、その妙なる海の恵みの味を堪能していました。
空のジョッキが3つ並び、ふと気がつくと、人も疎らだった客席もいつしか満員になり、狭い店内は人いきれにむせるほどの賑わいになっていました。
ルカはついと立ち上がると、勘定を済ませ、店を後にしました。メイコの言うには、こういう店ではあまり長居をせず、あっさりと済ませるのが通だ、ということでしたが、そうでなくとも、あのひと皿で彼女はもう満腹です。
身も心も満たされて、ほろ酔い気分に体まで軽くなったように、ルカは機嫌よく通りを歩いていました。
昼間の暑熱が引くと、さすがに秋の夜風は冷たくなります。それでも酔いに火照った頬には心地よいくらいでした。
季節はこれから秋本番。晩秋から冬にかけてが、近海もののマグロの旬と言われています。生のマグロの刺身が並ぶころです。その時になったら、またあの店に行こう。
(そう、その時を楽しみに、また明日から仕事を頑張るのだ)
しかし、ちょっとした決意の間もなく、ルカは早くも後ろ髪を引かれてしまいます。
(待てよ・・・)
隣の席で注文してた煮物、あれは何かしら? たしか内臓と大根を煮込んだものみたいだけど。
とたんに、煮込んで良く味の滲みた大根の甘味が、舌の上に蘇ります。
いいわね。刺身の季節が来る前にもう1回・・・ いいえ、ここ最近、毎週のようにひとり飲みしてるし、これって女としてどうなのかしら? う~ん、でもあの味は捨てがたい・・・
地下鉄に続く階段を下りるルカの百面相を、通りがかりのスーツ姿たちが、不思議そうに眺めています。しかしそれも束の間、それぞれ目当ての店に吸い込まれて行きました。
まだまだ宵の口。そう、陽気な飲兵衛たちの夜は、これからなのです。
(おしまい)
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ご意見・ご感想
ピーナッツ
ご意見・ご感想
こんばんは、ピーナッツです。
>はたしてピアプロで需要はどれだけあるのか?
胸を小さく見せるブラが売れているそうですね。
開発当初は「胸を大きく見せるブラならともかく、そんな需要があるのか」
と議論になったようですが。
ルカが飲んだくれているだけの話にどれだけ需要があるのか?
ここにありますよー。読むなり携帯に転送してGWの心のオアシスに
しようとしてる人がいますよー。
食べ物の描写お上手ですね。
東京出張の際、都合がつけば築地で昼食をとるのを楽しみしているので、
こんな店が実在するのなら店名教えてほしいですわ。
かわいいルカさん、楽しませていただきました。
どうもありがとうございます。
2012/05/04 02:22:27
桃色ぞう
ピーナッツさま
おたよりありがとうございます。
需要とかマーケットとか、今まで気にせずココに投げ込んできたのですが、今回だけ妙に気になったのは何故なのかよくわかりません。
>胸を小さく見せるブラが
あれは大きい人は大きいなりにコンプレックスらしいです。
方々から忠告されたのは「女性から胸の話題を振られても乗るな」ということで、こちらが褒めたつもりでもエライことになります。
なにしろ、昔ドヤ顔で死亡フラグ立てた張本人がここに(白目
定期的に都内にお越しのようですね。
例のお店は「マグロに癒されたい 月島」でググると、かなり上位にヒットします。
味の方は他のレビューもご参照ください(^^; 少なくともわたしはちょっと感動しました。
しかし午後5時開店なので、少々スケジュールの調整が必要かもしれません。
また、別稿で拝見しましたが、公募モノに挑戦なさっているようですね。どうか落ち着いて頑張ってください。
それから、ポルテのドアミラーの付け根あたりに、ミクの髪飾りを模した赤と黒のストライプをカッティングシートで入れてみては如何? ナンバーの「みくみく」と相まって、下手に痛車にするより通好みな感じに・・・ それでわ。
2012/05/04 20:31:19