君は僕の
掌からメスが零れ落ちて行った。
目の前に広がる紅い光景。
これは誰がしたんだろう。
どうしてこんなことをしちゃったんだろう。
答えはあまりにも明白だ。
全ては、僕がしたこと。
僕が僕の意思で、僕のために『これ』を切り刻んだ。
錆びた鉄の匂いが消毒薬のそれと混じって充満している白い部屋の中、僕は『これ』と共有した時間を思い返していた。
この国の医学界の権威である夫婦、その息子として産まれた少年は彼の後釜として周りから常に期待されていた。
毎日何人もの家庭教師が通ってきて、一人の幼い少年の頭に専門知識を詰め込んでいった。机に縛り付けられている時間は八時間を超えていたが、彼は文句も言わずに従っていた。まだ物心もつききらない少年にとって、両親の命令に背くなど考えつきもしなかった。
少年にとって、己の存在価値は両親にとって優秀な息子であることだ。だからひたすらに両親の経営する病院の地下で、彼らから受け継いだ頭脳を磨きあげ続けた。
年齢が二桁を超えたときから、少年は自分の立場を明確に認識すると同時にその身に降りかかる、重い重いプレッシャーを感じるようになった。しかしそれを息苦しいと思う間もなく、彼の意思に関わらず積み上げられる学業課題に追い立てられていた。
外で遊ぶなど許されなかった。論文発表のために父に付き添われて外出した時に、車の窓越しに同年代の子供たちが様々な遊具で楽しそうにはしゃいでいるのを見た。
笑っている。
笑顔。もちろん言葉の意味では知っている。けれどそれが表情として形作られる仕組みが、少年にはよく分からなかった。精神伝達と顔面筋肉の構造は頭に入っていても、それを促す気持ちを感じたことが無かったからだ。
どうしてあのように口元が柔らかく緩められ、目には暖かな光が灯るのか。
全てをその知性で理解してきた少年が、始めて正答を見いだせなかった。
そんな疑問を心が片隅に引っかかっていた時に、少年は病院で一人の少女と出会った。
「よくみかけるよね。君もこの病院の患者さんなの?」
亜麻色の髪をした、少年と同じ歳くらいの可愛らしい女の子。同世代の人間に産まれて初めて話しかけられて、何をどう返していいか分からなかった。口を半開きにしたまま何も言葉を吐き出せない少年に、彼女はにっこりと笑う。
「いつも本を持って独りでいるよね? 何の本を読んでるの?」
間近で見た少女の微笑みは眩しいくらいに美しくて、少年の頬は紅潮した。それでもやっぱりなかなか返事をすることはできなかったけれど、気を悪くする風でもなくじっと待っていてくれて、やっと少年は掠れた声を出した。
「勉強のための、本」
少女はへえ、と感心したように少年が抱えている本を覗きこむ。少年にとっては日常的な、それでも極一般的な少女にしてみれば難解な専門用語が並べられているその題名に眉を顰め、やがて諦めたように彼に視線を戻す。
「難しそうな本だね。こんなの読めるなんて、君はすごいね」
今まで会って来た家庭教師から何度も称賛の言葉をかけられたが、こんなに真っすぐで下心の感じられない言われ方は初めてで、だから少年は初めて褒められた事を嬉しく思った。
「別に、昔から読んでいるものだから」
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。それ以上はとても彼女の顔を見ていられなくて、どこかで名残惜しく思いながらも顔を伏せた。
少女はそんな反応に顔を傾げたが、すぐに再び口を開いた。
「ねえ、今日は本を読むのを後回しにして、わたしと話さない?」
考えた事もない誘い。今の今まで、少年は何らかの学術的価値を含まない言葉のやり取りをした事が無かった。彼の人生の中で会話とは常に知識を与えられるもので、間違っても己と比べるべくもない普遍的な人間と時間を浪費するためにあるものではなかったからだ。
断るべきだと理性が叫ぶが、どうしてもその気にならない。迷ったまま無言でいると、少女は少年の手を引いて歩き始めた。
「中庭に行こうよ。最近暖かくなってきたでしょ? ようやく噴水が再開したの。綺麗だよ」
柔らかくて温もりのこもった手。実の親からすら与えられた事の無いそれにさっぱり抗えず、結局少年は少女と共に時間を『浪費』した。
そこで彼女から聞かされた、他愛もない日常の愚痴や考え方。身振り手振りはもちろん、様々な擬音を交えて説明される状況に少年は笑った。
時の流れは速かった。すぐに日が暮れ始め、少女は病室に戻らなければならなくなった。
「すごく楽しかった。また明日話せるかな?」
別れ際、彼女は少年にこう言ってまた笑いかけた。
「うん」
その笑顔がまた少年の笑みを引きだして、何を考えるまでもなく頷かせていた。
課題と勉学をすっぽかした少年は当然のように両親から厳しく叱責されたが、その間でさえ頭の中は次の日あの少女に会うことで一杯だった。ほんの一日前まで両親からの評価が自分の価値であると信じて疑わなかったはずなのに、あの亜麻色の少女が一瞬でその幻想をぶち壊した。
あんなにも心地が良い時間を、少年は今まで知らなかった。
そしてそれを一度知ってしまえば、それまで当たり前だった日常の全てが色褪せて見えた。
つまらなくて、下らなくて、無意味で、無価値で、ちっとも楽しくなかった。
ただの一度としてした事が無かった、両親への反抗。その時を境に何度も繰り返した。
医学知識を吸収するより亜麻色の少女と話す事の方が、少年にとって遥かに大切なことだからだ。
天才とはいえ、少年は世間知らずの子供だった。そんな形で両親の意志に背き続ければ、傲慢な彼らがどういう手段に出るか予想できなかったのだ。
とある日、少女に会うために中庭に赴くと彼女はどこか寂しげだった。そんな彼女の顔を見ているだけで胸が締め付けられるように苦しくて、理由を尋ねずには居られなかった。
「今度ね、別の病院に移らないといけなくなったの」
二の句が告げられなかった。
頭に隕石が直撃するくらいの衝撃だった。物心つく前から医学の勉強にその人生を費やしてきた少年だ。知り合ってすぐに彼女の病気など調べたし、それがこの国一番の医療技術を提供するこの病院ではないと治療が難しいものであることも分かっていた。そして彼女の両親の経済状況も申し分なく、両親にとっても失い難い患者なはずだ。
それでも彼女をここから追い出すというのなら、理由は一つしか考えられない。
従順であったはずの息子を取り戻し、今疎かにしている勉学に集中させるためだ。
その為に、たったそれだけのために彼女をここから追い出す気なのだ。移転先の病院など知ったことではないが、この病院と他の医療施設の技術的隔たりは大きい。本来重病者である彼女が普通に歩きまわっていられるのは、偏にこの病院にしかない最新医療を受けているからだ。
他に移ってしまえば、彼女はたちまち人工呼吸器と点滴に寝台に縛り付けられてしまうだろう。そしてそこまでしても、すぐに生命の維持すら困難な状況になるはずだ。
簡単に言ってしまえば、ここを追い出されればこの少女は死ぬのだ。
「君に会えなくなるのが寂しいよ」
もしかしたら、この先自分が辿る未来を知らないのかもしれない。けれど亜麻色の髪をした少女は、少年と共有する時間が無くなる事を嘆いた。
ほんの少し嬉しかった。けれど、それ以上に恐ろしかった。
彼女の涙を見た瞬間に、少年は駆けだしていた。
死臭漂う部屋で茫然と立ち尽くしながら僕は考える。
もしこの時この場に留まり彼女を抱き寄せていたなら、ほんの少しでも運命は変わったんだろうか?
エレベーターを待つ時間ももどかしく、手近にあった階段を駆け上がる。普段から運動などちっともしていないものだから、院長室に着いた頃には息が完全に上がって汗が額を伝っていた。
派手ではないが上質な木製机でカルテを眺めている父の、物珍しいものを見る視線が注がれた。どこか面白がっているような声で何事か問われ、呼吸もままならないはずなのに喉が悲鳴のような懇願を叫んだ。
少女を見捨てないでくれ、と。
己から彼女を引き離さないでくれ、と。
縋るように父を見つめるも、彼の顔には見慣れた冷笑しか窺えない。それでも他に方法は無かった。この病院どころかこの国全ての医療機関の全権を握る、怪物じみた権力者の意志を通さずして事態は動かないのだ。
それは愉快そうに少年を眺めていた父だったが、しばらくして満足そうに頷いた。しかしその口から吐き出された判断は、寛大の対極に位置する内容だ。
君がそこまで執着するものが存在することが問題なのだ。今の君に必要なものは、医学とそれに連なる勉強だけだ。
忘れなさい。そう言って下された絶対零度の死刑判決に、きつく拳を握りしめる。
そしてその影響力で全てを意のままに操って来た男は、自分に反抗した息子に制裁を与えるためならその息子を跡取りとして勉強に勤しませるためなら、人一人の命など簡単に握り潰してしまう。
少年の中で負の感情全てが爆発し、一瞬後には凍てつく理性に満たされた。
諦念。生まれながらに持った少年の知性は、これ以上何を言っても目の前の男が決断を変えないと確信させていた。
踵を返して出入り口へと歩を進める。ドアの金具に手をかけてから、顔だけで振り返り一瞬前とはあまりにも違う静かな声で宣言した。
「僕には彼女の『サイノウ』が必要なんだ」
少年にとって初めて『笑顔』をくれて、心を温めてくれた相手だった。そんな事をできた人、してくれる人に少年は会った事が無かった。少女と、少女との共有する時間が永久に無くなるなど、もう彼にとっては考えられない。
しかし事実上、彼女がこの病院から追い出されることを防ぐ手立ては無かった。
少年の側に居ることは愚か、生き延びる芽さえ無い。少年を癒す『サイノウ』を持った少女は、他の病院に居ても長く生きられないのだから。
それを完璧に理解して、少年はこう誓った。
命を救えなくても、彼女の稀有な『サイノウ』を守る。
少女の身体のどこかにその『サイノウ』を発揮する何かがあるはずで、それを自分に移植してしまえば『サイノウ』は保持されるはずだ。
このまま少女を失ってしまうなど、絶対に認めることができなかった。もう笑う事ができなくて、あんなに暖かな気持ちにもなれないなんて、想像しただけで恐ろしくて苦しかった。
病院地下にある自室で計画をまとめ、大丈夫だと内心で呟く。それでも、気分はちっとも良くならなかった。
少女を地下に連れてくる口実から手術室の手配まで、何もかも完璧だ。それなのに何かとんでもない間違いを犯しているような、取り返しのつかない事をしているような焦燥が頭に張り付いて離れない。
しばらく落ち着かなかったけれど、最後に迷いを断ち切るように頭を振って自分に言い聞かせた。
「大丈夫だよ」
少女に対しての罪悪感はほとんど無かった。それどころか彼女の一部でも救えると、信じて疑っていなかった。
次の日、退院の準備があると言う少女を強引に地下に連れてきた。始めは渋っていた彼女も、施設の物珍しさにすぐに興味津津といった様子で眺めまわしていた。
「ねえ、ここで何をするの?」
すっかり上機嫌となった少女に飲み物を出す。ありがとうと向けられた笑みに、いつもと違って心を締め付けられたのが不思議だった。
「君が僕と離れなくて済むように、必要な事をするんだ」
答えた途端に少女の髪と同じ亜麻色の瞳が輝く。嘘を言っているつもりは無かったから、少年もにっこりと笑い返した。
「そんなこと本当にできるの?」
半信半疑の問いかけに、大きく少年は頷いた。
「うん」
自信に満ちた態度に確信を得たのか、満面の笑みが少女に浮かぶ。
「嬉しいな。これでずっと一緒に居られるね。また色々お話しできるね――」
この時の笑顔も言葉も、少年は生涯忘れることは無かった。
飲み物に混ぜられた睡眠導入剤が遂にその効果を表し、少女は机に突っ伏して規則正しい寝息を立て始めた。
「大丈夫だよ」
己よりも一回り小さいその身体を抱えながらその科白は、果たして誰に向けたものだったのか。
手術台にその身体を横たえて、メスを構えた。入院生活が長いからか酷く白い肌に、手に握る刃物を走らせていく。
暗い手術室、少年の手元だけがライトアップされている狂った場所。少年は己を癒してくれて笑顔をもたらす、『サイノウ』を必死に探し続けた。
見つからない。
見つからない。
見つからない。
切り刻まれていく、亜麻色の少女。
幼いとは言え物心つく前からの過剰教育と高い知能のお陰で、少年の術式自体は完璧だった。そもそも少年に少女を傷つける意志は無かったのだ。
しかしどこを探しても探し物を発見できず、少年は今までにないくらい焦り始めた。そして輸血パックが空になっていることにも気が付かないで、『サイノウ』を探し続けた。
計器の警告音が鳴り響いた時には、もう手遅れだった。本来重病者だった彼女の衰弱は激しく、急激な失血に堪え切れる体力を残していなかったのだ。
「……――え?」
あまりにも呆気なく唐突過ぎて、少年からは茫然とした声が漏れる。何が起こったのかは明白であるにも関わらず、頭がそれを認識するのを拒否しているようだった。
そして今、僕はようやく一つの事実まで思考を巡らせた。
亜麻色の少女は、死んだ。
あの太陽の笑顔も優しい声も、もう二度と見られず聞けない。
ようやく、わかった。
薬で眠らせて、手術台に縛り付けて、身体をくまなく解剖したとしても、僕が欲しかったものは絶対に手に入らない。
僕が欲しかったのは少女自身。少女そのもの。僕を癒してくれるのは彼女の『サイノウ』ではなくて、少女の存在全て。
僕がたった今、他ならぬ僕の手で永久に失った命。
それに気が付いた時、部屋の扉が外から乱暴に開かれた。入って来た父は流石に一瞬絶句してから何事かを喚き始めるが、少年の耳には入ってこない。
眼前で冷たくなっていく少女を見つめ、彼女の命を奪ったメスを己の首筋に当てた。
ごめん。
そう口の中だけで謝ってから、血管の配置にそって刃物を滑らせた。
自分の血飛沫を見ながら、僕は最期に伝えたい事を形にした。
「君は僕の――」
最後まで言い切れず、僕の意識は闇に溶けた。
【二次創作】サイノウサンプラー1
前作の最後にて完全オリジナルの~と書いておきながら、またまたとある歌に魅入られたので投稿させて頂きます。
本家様:http://www.nicovideo.jp/watch/sm12849032
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