どこからか、三味線の音が聞こえてくる。夜見世の開始を告げる見世清掻である。
江戸随一の花街は、今日も妖しげに活気づき始めていた。
弘龍寺のある向島から吉原までは、大川橋を渡ってすぐである。
暮れ六つを少し過ぎ、大門前で落ち合った陽春と時之助は、吉原の大通り・仲の町通りを水道尻の方へと歩いていた。
「陽春さま、陽雪さまに気取られませなんだか?」
「ああ、いや、うん、そうだな…」
この様子では、寺を抜け出す際に兄僧に見つかったに違いないな、と時之助は思った。
陽春は頭に手をやり、ばつが悪そうに編笠の座りを直す。
流石に剃髪頭が堂々と吉原内を闊歩してはまずいので、店に落ち着くまではこれを被ることにしているのだ。装束も僧衣ではなく町人のもので、笠の下には念のため髢も着けている。
寺を出る時から左様な常とは異なる格好でいるわけではなく、一旦馴染みの中宿まで赴き、そこで着替えることにしているのだが、浮わついた気分が顔に出てしまうのか、兄には見つからないことの方が少ないのであった。
「また瘤ができる…」
「まあまあ陽春さま、今宵は國八に会えるのですから」
「うむ、そうだな。お前には本当に世話になる」
「此度はちっとばかり手間取りましたがね、御安い御用でさ」
二人が歩く仲の町通りの両側で、妓夫が呼び込みをする声がしている。弦の音に混じって、華やかな夜が作られていく。
顔見知りの女郎を見つけては手を振りつつ、陽春はふと気になることがあり、隣を歩く男に問い掛ける。
「お前が手間取るとは…國八はそれほど気位が高いのか?」
時之助は整った容貌を一寸歪め、答える。
「いえね、國八がどうという前に、妓楼がうんと言わなくってねえ。駒乃屋には、最初に陽春さまのことを頼んだ時の縁があったんで、どうとでもなると思ったんですが…主人の重右衛門が、やたら渋りましてね」
情報通のこの男は、國八についてできるだけ調べてみたという。
まず、國八は仲の町張りをするほど位の高い花魁ではないということ。花魁は遊女の中では最高位だが、花魁の中にも階層がある。仲の町張りとは、高位の花魁である呼出や昼三が、仲の町通り沿いにある茶屋の店先に腰掛け、馴染みの客或いは新規の客に声を掛けられるのを待つことを言う。
國八を抱える駒乃屋は大見世であるため、格子越しに客を待つ張見世を行う遊女はいない。張見世は、どちらかといえば中見世や小見世にいる花魁より位の低い遊女のやることである。
よって、國八の顔を知る者は少なかった。
駒乃屋に出入りする商人に話を聞くと、國八が吉原へ来たのは三年前、十六の時。つまり禿立ちの遊女ではないのだ。しかし出生地は不明である。
驚くべきは、吉原細見にその名がないということであった。細見には、どの妓楼にどんな花魁がいて、揚代はいくらで、どんな新造や禿が付いているかなどが記されており、吉原の女郎を網羅するものであった。
吉原へ送られる女には様々な事情を抱える者も多いが、ここまで素性の知れないのは珍しい。
「そうか…こと國八に関しては、やはり何やら訳がありそうだな」
「そのようで」
「しかし、ならばどうやって話を取り付けたのだ?」
店々に掲げられた行灯の灯を背負い、うっすらと笑んだ時之助の後ろには、柳の枝でも棚引いていそうである。
「主人の借金を一つ帳消しにしてやりました。…詳しく聞きますかい?」
「いや…やめておこう」
背筋が少し寒くなり陽春がそう断ると、賢明賢明、と楽しげに呟き、時之助は手引茶屋までの道を供するのだった。
千代田屋は、吉原内の京町一丁目に店を構えている。
陽春は、ここで國八との初会を行うのである。
花魁を揚げる場合、花魁とろくに話もできない初会と裏をこなし、三度目にしてようやく馴染みとなる。
千代田屋に着くと、主人の又兵衛が二人を出迎えた。
人の良さそうな、小太りの老人である。
「お待ちしておりましたよ、時さん。こちらがその…陽春御坊で?」
主人が「御坊」と口にしたのを聞き、時之助が声を落として耳打ちする。
「旦那、そう声高に御坊などと…帳面には町人・春吉とでも書いといてくだせえよ」
陽春が郭遊びをする際には、決まってこの名を使うのである。
又兵衛は八の字眉を更に下げ、店の奥へと片手を伸ばした。
「こいつは済みません。そのように致しますとも。では二階へ案内させますので、ささ、どうぞどうぞ」
通された部屋にはすぐに台の物が運ばれてきて、二人はそれをつつくこととなる。
やがて芸者たちも姿を現し、音曲を奏で始めた。
こうして、頃合いを見て茶屋へやって来る花魁の到着を待つのである。
坊主頭が座敷にいても、芸者たちが驚く様子はない。時之助の根回しの賜物であろう。
笠と髢を取った陽春は、芸妓の酌を受けつつ、隣の時之助に声を掛けた。
先程から、気になるのは國八のことばかりである。
「國八はこの千代田屋へしか参らぬのだよなあ」
「へえ。花魁に馴染みの茶屋があるってなァ分かりやすが、揚げられる度にここを使っているようで。客を取る回数が少ないだけに、引っ掛かるところではありますねえ…」
「うむ…」
猪口から酒をちびりとやる。
一体、どんな女なのか。
中々人前に出ないのは、何故なのか。
道中の時に少しだけ見た、美しい横顔ばかりが思い出される。
いつもよりそわそわしながら、陽春は鶴首して待つのであった。
後ろで時之助が息を飲んだ。
江戸の美人は大抵拝み倒している時之助が、である。
茶屋の者が花魁の到着を告げてから程なくして、その女は座敷に現れた。
初会では、花魁は食べ物や酒には一切手をつけず、客との会話もほとんどしない。返事をするかしないか、というほどである。
そんな慣わしであったため、花魁はにこりともせずに入って来たのであるが、陽春は言葉を失った。
國八花魁は、大層美しかった。
そこにいたのは、確かに七日ほど前に仲の町通りで見掛けた花魁である。しかし、その時には分からなかった気品を國八は纏っていた。
座敷の中で、近くにいるためであろうか。外の通りより明るいためであろうか。
一目見て、その面立ちから滲み出る気高さに圧倒されてしまったのだ。
漆黒の髪を伊達兵庫に結った花魁の着物は、三枚襲の打掛が上から深緋、紅緋、赤橙で、深緋地のものには金糸で扇紋様が描かれている。小袖は二枚目の打掛と同じ紅緋地に毬紋様、中にもう一枚紫黒を重ねている。山吹色の本帯には、やはりこちらも扇紋様の金色の飾り帯が挟み込まれていた。
着物は極めて華やかで、まさに花魁といった風である。しかし、そうでなくとも國八が美しいのは見て分かった。
禿を一人連れ、紅葉が水面にそっと落ちるかのように花魁は上座に腰を下ろした。
遊廓では、女郎は客よりも格上とされるのである。
伏せがちになっていた國八の瞼が持ち上がり、澄んだ瞳が今宵の客を射止める。
と、花魁はそこで大きく目を見開いた。
瞬き一つせず、時が止まってしまったかのように陽春を見つめている。
容貌が麗しいだけに、えもいわれぬ迫力がある。
動きのあるのは、芸者たちの手元のみ。三味の掻き鳴らされる音が、軽やかに流れていく。
「ここで坊主を見るのは、そんなに珍しいかな?」
やがて食い入るような視線に耐えきれなくなった陽春が口を開くまで、國八はしばらくそうしていたのであった。
「いえ…申し訳ありんせん。國八でありんす」
花魁は瞬きをいくつかし、少し頭を下げた。
「私は向島弘龍寺の僧、陽春と申す者だ。ここでは春吉と名を変えているが、好きに呼んでくれ」
先刻までの驚いたような表情はどこへやら、國八は微かに笑んでみせると、脇に控えている禿をなつめというのだと言って陽春と時之助に紹介した。
年若い禿は、花飾りでいっぱいの頭を下げてきちんと礼をする。
おや、と陽春は思った。
通常、花魁付きの禿は、対の禿といって二人いるはずなのである。しかしこの座敷には一人しかいない。
しかも、初会だからといって新造が一人も連れられていないのは少し妙である。
時之助も名を名乗り、やがて形通りの宴が始まった。
芸妓が舞い、歌い、酒や食べ物がどんどん運ばれてくる。
花魁や禿は口にしないが、それで金を惜しむような客は、吉原では野暮だとされ鼻摘み者なのである。
その夜、陽春が國八と話を交わしたのは、最初の一回きりであった。
「もしあれが実の娘なら、外へ出したくないのは分かりやすねえ…」
次の日、時之助はまたしても弘龍寺に押し掛けて来ていた。
陽春の部屋にて、厨から拝借してきた羊羮をお茶請けに昨夜の花魁について語らっているところである。
「外に出したくないほど娘が可愛いなら、客など取らせんだろう。身を売らずとも、妓楼には他の仕事もあるのだからな」
「そりゃそうですが…」
「それにな、駒乃屋の主人、重右衛門のことは私もよく知っておる。あすこの夫婦には跡継ぎ息子が一人いるだけで、娘はいないはずだ」
「ならば何故…?」
「うーん…禿が対でなかったのも、新造が一人も付いておらなんだのも、関係があるのだろうなあ…」
「はっきりしたのは、國八がとんでもない美人だってことだけでしたねえ」
そして振り出しに戻るのだ。
もぐもぐ、もぐもぐ。口は回れど頭は回らぬ。
結局、お八つが消えたと聞いた陽雪が飛んでくるまで、二人はそうして怠れているのであった。
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鈴の音が響く
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shimono_hana
(Aメロ)
また今日も 気持ちウラハラ
帰りに 反省
その顔 前にしたなら
気持ちの逆 くちにしてる
なぜだろう? きみといるとね
素直に なれない
ホントは こんなんじゃない
ありのまんま 見せたいのに
(Bメロ)...「ありのまんまで恋したいッ」
裏方くろ子
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