「何と申した…?」
駒乃屋の一室では、陽春が凍りついていた。
請われて、國八がもう一度その名を口にする。
「徳川家斉様。わっちの父親は、あなた様のお父上でありんす。…九三郎さま」
まさか。
そんなことがあるのだろうか。
父・家斉には子が多い。ゆえに陽春には、顔も見たことのない兄や姉や妹がいた。
國八が、その内の一人だというのか。
そこで陽春はあることに気付く。
この花魁に、九三郎という名を教えたことはないのである。九三郎は、陽春が徳川姓を名乗っていた頃の名だ。
「國八…それは、真なのか…?」
「黙っていて、ほんに申し訳ないことでありんした…何からお話しして良いやら…」
國八の話はこうだった。
國八は、元の名を国という。皆からは国姫と呼ばれており、将軍・家斉の末の娘であった。
母親・芳は身分の低い家の娘であったため側室には数えられていなかったが、家斉の寵愛は深かった。
国姫は母と僅かな家臣と共に、家斉に与えられた小さな屋敷で暮らしていた。
ある年の正月、方々から贈られてくる祝い物の中に、家斉からだといってきらびやかな着物と、白粉の箱があった。着物は国姫の分も誂えてあり、母と二人で早速召し替えた。
畳紙に丁寧に包まれた白粉は、江戸で一番の白粉屋のものであった。
芳は大層喜び、家斉に礼の文を書いた。そして白粉については自分で使うだけでなく、屋敷で働く女中たちにも分け与えたのである。
ところが。
白粉を使った女中たちは、皆立ちどころに苦しんで絶命してしまった。芳に異変はなく、息災である。
後日、家斉から返事が届いた。私は白粉など送っていない、送ったのは母子に着物を一式ずつのみである、と。
家斉の手の者が調べたところ、白粉には強い毒が混じっており、それは家斉の寵愛を受ける芳の存在を危険視する、ある側室から送られたものであることが分かった。
芳だけが助かった理由までは分からなかったが、家斉は芳と国姫に用心するよう言って寄越した。
芳が死んだのは、それからすぐのことであった。
国姫は供を連れて日本橋の辺りへ出ていた。帰ってみれば母がいない。家の者が泣いている。
母は散歩に出た先で川に落ち、死んでしまったのだという。亡骸は流されて、屋敷に戻らなかった。
国姫は悲しみ、泣き暮れた。末の娘のそんな様子を哀れに思い、また自らも悲し
みに打ちひしがれていた家斉は、国姫に一層の愛情を注ぐようになった。
元々公務に真面目な方ではなかったため、よく屋敷に通った。幕府お抱えの儒者や学者を国姫に付け、娘が学びたいと言った学問は何でもやらせた。
現在の國八の教養は、この時身についたものである。
そうして幾年か過ぎ、母を喪った悲しみから立ち直りかけていた国姫を、更なる悲劇が襲った。
家内でまた女中が死んだことが、その発端であった。
娘盛りの國八は化粧をするようになっており、その日も白粉と紅を使って綺麗に化粧をした。水で溶いたあとの白粉の残りを捨てるよう、いつものように女中に頼んだ。その女中が死んだのだ。
女中の指先には、真っ白な白粉が付いていた。
国姫の叫び声を聞きつけ家臣らが飛んでくる。国姫も同じ白粉を使っていたから、数年前の件を知る古参の家臣に、体に変わったところはないかと何度も何度も確かめられた。
しかし不思議と、変化はなかったのである。家臣らが残った白粉を皿ごと池に沈めると、見る間に鯉が腹を見せて浮いてきたというのに。
国姫は家斉に遣いをやり、助けを求めた。
父はすぐに飛んできた。そして、母の死について、こんなことを言ったのである。
「お芳は川に落ちて死んだのではなかった。毒入りの白粉を送ってきた側室の手の者に、殺されたのだ」
国姫を不安にさせぬための父の嘘だった。
毒を盛っても芳は何故か死ななかった。そこで側室方は刃を以て刺し殺すことにしたのだ。
芳の亡骸は、実は屋敷の裏手の林で見つかっていた。
母を殺した側室は人知れず厳罰に処されていた。毒は南蛮渡来のものを使ったらしく、その入手先も吐かせた。
しかしその残党が、今度は国姫を狙っているのだという。
「このままでは、お前も殺されてしまう。国姫、どうか江戸を離れてくれ」
家斉はそう言ったが、国姫は頷かなかった。身寄りは将軍であるこの父しかないのである。
母の生家も知らぬ。肉親と遠く離れてしまっては、生きていけぬと思ったのだ。
されど、父の言うことは正しい。母の二の舞になっては、大好きな父を悲しませてしまう。
国姫も、母と同じく、毒が効かなかったから。
「父上、私や母上には、何故あの毒が効かなかったのでしょうか」
父は言葉を濁したが、やがてはっきりと言った。
「国姫、お前の母親は鬼であった」
角が生えている怪物だけを鬼と呼ぶのではない。人とは違うもの、人から忌まれるもの、異界から来るもの、それら全てが人にとっての鬼である。
「お芳はほとんど人であったが、人と違うところも確かにあった。毒のこともそうだ。国姫、母はよく獣に懐かれておったな」
「はい…」
「あれはな、お芳が獣の言葉を解したからなのだ。私も俄には信じ難かったが、
長らく一緒におると、本当だと思わざるを得ないことが幾度もあった。お前に毒が効かなんだのは、その母の血を半分継いでいるからだ」
母は殺された。その母は鬼であった。自分も半分鬼であり、殺されるかもしれない。
受け入れ難い事実ばかりであった。
しかし母を亡くしたことが、幸いにか不幸にか、国姫を父も驚くほどの強い女子に育てていたのだ。
「父上、私には鬼の血が流れているので、毒は効かないのでしたな」
「うむ」
「母上を死に追いやった側室の方から、毒を手に入れる術を聞いておられますな」
「うむ…それがどうした?」
「私は江戸を離れませぬ」
父は顔色を変えた。
「ならぬ!よもや母の復讐をしようなどと考えておるのでは…」
「違います。父上、私はこれから生きていくことを考えているのです」
「ならば、早急に江戸を発ち…」
「私が逃げることは、あちらも考えつくでしょう。すぐに捕まってしまいます」
「では、如何するのだ?」
「あちらの考えつかぬところで暮らせばよいだけのこと。父上、私は吉原へ参ります」
いくら吉原が幕府公認とは言え、将軍の嫡子が身売りなど有り得ぬ。だから、誰も自分が吉原にいるなどとは思わないだろう。
国姫はそう考えたのだ。
「御無理をお願い申し上げていることは承知の上です。そこで、御無理ついでにもう一つお願いがございます。件の毒を、有りったけ仕入れて私に持たせて欲しいのです」
「何を…」
「我が儘を言って父上のおられる江戸に留まらせて頂く以上、父上のお役に立たねばなりません。私は遊女に身を落とし、毒を混ぜた白粉を塗ります。どうやら猛毒のようですから、普通の人間なら少し触れただけで死んでしまうでしょう。よって体を暴かれることもないはず」
「だから、何を申しておるのだ?」
「父上は、私の元へ邪魔な御仁を送り込んで下されば良いのです」
そうして生きていこうと思った。
娘が可愛いのならば、ここで国姫の健気な思いを断ち切って、江戸から出すべきであったかもしれぬ。
しかし家斉には、芳の死が思った以上に堪えていた。娘まで、手の届かない所へ行かせたくはない。
だから、許してしまったのだ。
役に立つから傍に置いて欲しいという、娘の願いを。
この時、国姫十六歳。
将軍の嫡子である国姫の運命が、大きく変わった瞬間であった。
話し終わり、國八はふうと息を吐いた。
それが届いた筈もないのに、燭台の蝋燭の火がゆらりと揺れる。
陽春は、からからに渇いてしまった喉から、何とか言葉を絞り出した。
「では、お前は…ここで人を殺しているのか」
「そうでありんす」
國八は首の後ろに手を回し、項を撫でた。戻ってきた手には、白粉が付いている。
「これがその毒でありんす。これを塗るとわっちの体中に毒が回り、白粉を塗っておりんせんところに触れましても、死んでしまうのでおざりんす」
「触るなと言ったのは、そういう訳であったか…」
「へえ。九三郎さまを死なせとうはおざりんせんしたゆえ…」
まだ、「何故」は続く。
「では、私の昔の名を知っているのは何故だ?」
「母が亡くなる前、一度江戸城に連れて行ってもらったことがおざりんす。その時、お庭で九三郎さまをお見かけ致しんした。お側におられんした方が、あなた様をそう呼んでおりんしたゆえ、覚えていたのでありんす」
通常、國八が客を取る前には家斉から「誰々が行くから宜しく頼む」といった向きの文が来るという。
「なのに突然、普通に客を取れと御内所に言われんした。初会だけ応じれば良いと…そうして行ってみれば、九三郎さまがおられたのでおざりんす」
「重右衛門は勿論お前の事情は知っているのであろう?」
「へえ、御内所は、わっちと九三郎さまに血の繋がりのあるのを知っていて、引き会わせたのでありんす」
駒乃屋重右衛門は、陽春が家斉の嫡子であることを承知していた。
しかし、遊女と客とを左様に引き会わせるような趣味の悪い真似をする男ではないのだ。
そんな重右衛門を野暮に踏み切らせた時之助が、今更に恐ろしくなる。
「そうは申しんしても、わっちは御内所に感謝しているのでありんす。わっち以外の兄上や姉上とはお会いしてみとうおざりんしたゆえ」
國八は指を擦り合わせて、白粉を手に馴染ませた。
そして一息つく。
「だから、陽春さまと過ごせんすのは、ほんに嬉しゅうおざりんす。なれど…わっちはここから出ることはできんせん」
だから身請けの話を喜ばなかったのだ。
家斉から文が来れば、体を毒で満たして客を殺さねばならぬ。
國八の花魁道中を見るということは、近く誰かが死ぬのを見るのと同じである。
「父上のために人を殺すのか?これからも?」
「父上は悪うおっせん。これはわっちの我が儘でありんす。わっちが決めたことなのでありんす」
「しかし、人を殺すのは間違っている」
ふ、と國八は笑った。
「やはり御坊さまであらしゃんすなァ…」
「國八、冗談ではないぞ」
「わっちの母は殺されんした」
花魁はひどく傷ついた顔をしていた。
「だからと言って、お前が誰を殺して良いというものでもない!」
「分かっておりいす!」
二人ともが、初めて声を荒げた。
「他に、生きようがないのでありんす。…今宵はこれにてお帰りくだっし、陽春さま」
座敷の外に出ると、なつめが泣きそうな顔でそこに立っていた。
妓楼の者に声を掛けて、陽春はなつめを連れ出した。
茶屋に入り、甘いものを頼んでやる。なつめは中々手をつけようとしない。
「食わぬのか?」
俯いて、長い袖を握り締めている。
「どうかしたのか?なつめ」
「…花魁と、喧嘩なさいんしたか」
陽春は目をぱちくりとやる。
この小さな禿は、それを心配していたのである。
「私がお前の姐さんと喧嘩なぞするものか。しかしな、言わねばならぬことを言わねばならぬ時もあるのだ」
陽春が団子の串を持ち上げて自分の口に運ぼうとすると、なつめは慌ててもう一本に手を伸ばす。
なつめが団子にかじりついたのを確かめてから、陽春は食べぬまま串を皿に戻した。
「なつめ、國八に付いている禿は、お前だけかな?」
団子を頬張り、なつめは頷いた。
「新造も付いておらぬな?」
また頷く。
「それはやはり、なるべく目立たぬようにするためか」
なつめは口の中のものを飲み込み、陽春を見た。
「花魁のこと、お聞きになりんしたか」
「うむ」
「あのことは、駒乃屋でも花魁とわっち、御内所、御内所のお上さん、遣手の番頭新造、それから幾人かの喜助だけが知っているのでおざりんす。他の姐さん方は、國八姐さんは普通にお客を取っていると思っておりいす」
「そうであったか…では、細見も」
「へえ、御内所がわざと載せていないのでありんす」
なつめは、何かを考えながら、少しずつ言葉を紡いだ。
「陽春さま、わっちは廓で生まれんした。外のことは何にも知りんせん。でも、花魁がよう話して下しゃんす。街のこと、お城のこと、川や海や山のこと…そういう時の花魁は、とても楽しそうなのでありんす。陽春さまがいらっしゃるようになってからは、ますます楽しそうでありんした。わっちは…花魁は、本当は外へ出たいのだと、そう思うのでありんす」
まだ幼いこの禿がどれだけ國八のことを思っているか、それがひしひしと伝わってきて、陽春は気が安らいだ。
串を置き、言ってしまっても良かったのだろうかと居心地悪げにしているなつめに、微笑む。
「三年も國八の傍にいるお前が言うのなら、間違ってはいまい。実は私にも、そう思えてならんのだ」
なつめはまた頷いて、団子に手を伸ばした。
髪飾りがしゃらしゃらと、禿の代わりをするかの如く嬉しそうに鳴った。
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