目が覚めると、僕は見慣れない場所にいた。
真っ白な部屋に、薬品のにおい。天井が見えるので、どうやら仰向けに寝ているらしい。
さあさあと雨の音が聞こえる。
全身がだるくて、頭が痛い。動きたくない。
しばらくボーッとしていると、ガラリという音がして、続いて静かな足音が聞こえた。パタパタというそれが近づいてくる。
不意に、視界に誰かが現れた。女性だ。白い服と帽子。看護師のように見える。
ということは、ここは病院なのだろうか。
「気がついた?」
その人は僕の頭上で微笑み、持っていたファイルをどこかへ置いた。それから手を伸ばす。
その先を視線で辿ると、彼女は点滴の液が落ちるのを調節しているようだ。その液が僕の体に流れ込んでいるのだということは、もう考えなくても分かった。
「どこか痛いところは?」
頭が痛い、と言おうとしたけれど、声がうまく出なかった。管が繋がれていない自由な右手を挙げて、頭を指差す。
「強く打ったみたいだから、そうでしょうね」
頭を打って、病院にいるのか、僕は。
頭を打ったのは何故だっただろう。
「……ニース」
口をついて出たのは、ひとつの名前だった。ひどいしゃがれ声でも、何とかその名を紡ぐ必要があった。
「ニースはどこ?」
「ニース」はあの子の名前だ。きっと、僕がここに来る直前まで、そばにいたはず。
しかしこの部屋は個室のようで、他には誰もいないのが密やかな静寂の中の気配で分かる。
ニースも怪我をしてはいまいか。どこか傷付いたなら、別の部屋に入っているのかもしれない。
「ニースもここにいる?」
看護師は首を振る。そして先程置いたファイルを取り上げた。それを開いて何事かを書き込み、胸に抱え直す。
「先生を呼んでくるわ。ニースのことは、先生からあなたにお話ししたいって仰ってたから」
彼女は去り、やがて初老の男性を伴って戻ってきた。
男性は白衣を着ているから、この人が「先生」なのだろう。
彼は僕が寝ているベッドの下から小さな丸椅子を引き出し、そこへ腰かけた。
「君の主治医のサヴォイアだ。……君は自分の名前が分かるかな?」
「……リヨン」
「歳は?」
「12」
「そうだね。記憶はしっかりしているようだ」
サヴォイア医師は、満足そうに口髭を撫でた。その仕草が何だか優しくて、妙に安心してしまう。
「サヴォイア先生……ニースは?」
医師は目を眇める。話してくれると言っていたそうだから、ニースが今どこで何をしているか知っているに違いない。
「ニースは、この病院の隣の施設にいるよ。損傷……いや、怪我はない。流石と言ったところだが……」
「会えますか?」
「君の怪我が治れば、すぐにでも。ただね、リヨン」
医師の声が急に低くなり、部屋の外の雨音が大きくなったかのように思えた。
ああ、何かよくないことを聞かされるのだ。
本能的に思った。
「ニースは処分することになった。……1ヶ月後だ」
------------------------
「お父さん、これ、誰?」
「それ」が僕の家にやって来たのは、ある日の朝のことだった。
「誰って、お前の妹じゃないか。ニースだよ、リヨン」
ニースは僕の双子の妹だ。ニースが事故で亡くなってから、もう3年が経つ。
父の隣に立つその子は、確かにニースと同じ顔をしている。深い緑色の目も、透き通るような白い肌も、ニースにそっくりだ。
「ニースは死んだんだよ。それはニースじゃない」
「生き返ったんだ、リヨン。お前の遺伝子からな」
それでも違う、と言いかけた時、バン、と扉が開いて母が現れた。ニースが死んでから、ほとんど寝たきりで自室に籠ってばかりだった彼女だが、この時は信じられないくらいしっかりとした足取りで僕たちの元へ歩いてきた。
「ニースなの……?」
「そうだよ、マリア」
少女の前に膝をつき、母はしげしげとその顔を眺めている。
父が合図をするように少女の肩に手を置くと、その子は懐かしい笑顔で言ったのだ。
「ただいま、お母さん!」
その日、僕の家にニースが帰ってきた。
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「コントロールがうまくいかないらしい。特に感情の制御だ。今、ニースの情緒はとても不安定になっているんだよ」
サヴォイア医師は、僕の枕元でニースの現状について語ってくれた。
「突然泣き出したり怒り出したり……君や御両親の名が出るとダメだそうだ」
「……お父さんやお母さんは?どこにいるんですか?」
そうだ、ニースもだが、彼らも一緒にいたはずだ。
あの夜。……あの夜?
「まさか、気を失う直前のことを覚えていないのか、リヨン」
「よく……思い出せない。お父さんとお母さんも、怪我をしてるんですか?」
そうか、と呟いて、医師は僕の手を握る。しっかりと。
まるで、次の言葉で僕が何か大きな支えを失ってしまうかのように。
「御両親は亡くなったよ。ニースが暴走したんだ。君の怪我も、そのせいなんだよ」
何と答えていいか分からなかった。
確かに悲しいのに、肩の荷が下りたような気もどこかでしていたからだった。
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帰ってきたニースは、まさに生前の彼女そのものだった。
容姿も声も話し方も仕草も性格も、何もかも。
明るく天真爛漫なニースは、ひと時の休憩を挟んで再び成長を始めたかのように見えた。
「リヨン、お父さんが呼んでるよ」
「あ、うん。ありがとうニース」
「何のご用かな?」
「何って、金曜の夜は聖書の勉強の時間じゃないか。いつものことだろ?」
「……そうなの?」
ただ、ニースには生前の細々とした記憶がなかった。家族の名前や一般的な物の名前は覚えているようだったが、ふとした瞬間、途方に暮れたような顔で僕を見ることがあった。
まるでアルバムを全部まるごと心の本棚から奪われてしまったように。
「そうか、忘れちゃってるんだね。大丈夫、これからいろいろ覚えていけばいいから」
「うん……」
「ニースもおいでよ。お父さんが聖書読んでくれるの、一緒に聞こう」
「うん!」
父は軍の技術者だった。僕は父の研究内容を何となく知っていたから、帰ってきたニースがどういう存在であるのかということにも薄々気づいていた。
ニース自身は、事故に遭ったあと昏睡状態に陥り、そのせいでそれまでの記憶がなくなってしまったのだと聞かされている。自分が一度死んでいるということを知らないのだ。
ニースは生き返ったのではない。死んだ人間は生き返らない。
ニースは、父が造った。僕の遺伝子を使って。
そのことを知らされていない人間が、家の中にもう一人いた。
母だ。
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「お母さんは病気だったんです。心の病気。……ニースが死んでからずっと……」
医師と、その後ろに控えている看護師は、僕の話を黙って聞いていた。
「ニースは死んでないって信じてた。お父さんはそんなお母さんがかわいそうだから、ニースを造ろうとしたんだと思う。そして本当に造ってしまった。僕は難しいことはよく分からないけど……僕の遺伝子でニースの見た目を造って、簡単な情報はプログラムできた。だけど、ニースが生きていた頃の思い出まではプログラムでき なかったんでしょう?だから記憶喪失なんて嘘を吐いた。ニースは僕らの家でまた暮らし始めて、お母さんはみるみる元気になった。ニースをニースとして扱った。もちろん僕やお父さんもそうだったけど、ニースが帰ってきて一番嬉しかったのはお母さんだから……」
だんだん僕の声が掠れてきたので、看護師が水差しを口元へ運んでくれた。
「僕にはどうしてもあれがニースだとは思えなかったんです。一度死んでいるのを知っているから。でも、そこにいる以上、存在を認めないわけにはいかない。お母さんがニースを大切にしてるなら尚更だ。お母さんの悪い夢が覚めないように、僕は従った」
心を殺して。
それが一番楽だった。
奇妙な生活の中でまともでいるのはとても疲れることだったから、僕は思考を止めたのだ。
「お父さんもお母さんも幸せそうだったから、これでいいんだなあって思ってた。でも……ニースがニースじゃないって、はっきり分かってしまう日が来たんです」
それは、あの夜へ続く日だった。
------------------------
「明日、晴れるといいね」
「うん、家族でお出かけなんてすっごく久しぶりだ!」
「明日行くとこって、遠いの?」
「うちのリニアならひとっ飛びだよ。湖に着いたら、お母さん、またあの歌唄ってくれるかなあ……」
「あの歌?」
「あ、あれも覚えてないのか……お母さんがよく僕らに唄ってくれてた歌があるんだ。僕が今ここで教えてあげるより、お母さんに唄ってもらったほうがずっといいよ」
「うん、じゃあ明日を楽しみにしてる!」
その「明日」は来なかったから、ニースは今でもあの歌を思い出せないままだ。
生前の思い出がないことの他に、ニースがニースとは違っていることを明確に示す事実があった。
ニースに新たな感情が生まれたのだ。
それは恋愛感情。
なんとその向かった先は、僕だった。
家族揃って出かける予定を翌日に控えたその夜、夕食の席でニースがこう言い出した。
「ねえお母さん、きょうだいは結婚できないの?」
「……どうしたの、ニース。そんなこと言い出すなんて……」
「結婚って、好きな人とするものなんでしょ?」
「ええ、そうね」
「それなら私は、リヨンと結婚したいの。リヨンが好きなの」
家族の前で突然告白された僕より、驚いていたのは父だった。
その口が「そんな馬鹿な」と呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。
「きょうだいでは、できないのよ、ニース……それに、きょうだいを好きになるなんておかしいわ」
「どうしておかしいの?」
「どうしてって……そう決まっているもの。ずっと昔からよ」
「それでも私、リヨンが好き!」
「ニース、私を困らせないで!こんなことを言う子じゃなかったわ!前は……」
そこで母は何かに気づいたようだった。
「前、って……そうよ……どうしてニースがここにいるの?」
「お母さん……?」
「マリア、やめるんだ!」
「死んだはずのあなたがどうしてここにいるの!?」
ニースが帰ってきて体調も精神の状態も正常になりかけていたのがいけなかったのかもしれない。
母は、思い出してしまったのだ。ニースが一度死んだことを。
そしてそれは、今のニースの全てを否定することを意味したのだ。
「あなたは誰!?こんなのニースじゃないわ!私の娘じゃない!!」
僕が最後に見たのは、僕の隣で震えるニースと、燃えるように赤いその瞳だった。
------------------------
「軍の技術で造られていたというのが、悪かったんだろうね。ニースの殺傷能力は、君のお父さんが考えていたよりはるかに高かったようだ。軍は、ニースを持て余しているんだよ。危険視もしている。分かるね?リヨン」
「はい……だから、処分するんですね」
何より、母が死んでしまったという時点で、ニースの存在意義は消滅している。
ニースは、母のために父が造ったのだから。
サヴォイア医師の話が本当なら、ニースは自分で自分の存在意義を消してしまったことになる。
「ニースは、そのこと……」
「ニースには知らせない方針だ。どちらにせよ、知らせられる状態じゃないがね。……君に会いたがっているそうだよ」
「僕も、話がしたい」
ニースが処分されると聞いて、僕はまだそれをどう受け止めていいか分かりかねている。
母と違って、ニースが生き返ったのではないと初めから知っていたからなのだろう。
再びニースがいなくなったら自分はどう思うのか、それがまだ分からない。
「じゃあ、はやく怪我を治さないとね。それでも、ニースのところへ行けるようになるには3週間ほどかかるだろうが……まあ、今日はもう休んだほうがいい。たくさん話させてしまって、悪かったね」
「いいえ、先生。ありがとうございました」
病室で一人になって、眠気が襲ってきた。
微睡む前に、聞こえてきた会話がある。部屋の外からだった。
「プログラミングのあとで、新たな感情が芽生えたということですよね?初起動時にはなかった感情が?」
「そういうことだろう……ボイスル氏が一番手こずっていた感情面が、彼の死の間際に進化するとはね。皮肉なことだ」
「リヨンから得られる情報はまだあるでしょうか?」
「さてね。それも含めて見守っていかなければ」
僕も研究対象として見られているのかもしれない。
そう思いはしたが、いろいろなこと考えすぎた脳は、僕に睡眠を強制したのだった。
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