夕暮れ時、黒板に刻まれたその文字列を、なかなか消すことができなかった。
この場所で、優しい声で、だけど決して私だけには向けられない視線。
彼の優しい笑顔は仕事のためだと、私は知っている。
それでも。彼には、私だけを見てほしかった。
彼とは、多分他の人と変わりない出会い方をした。
四月の教室で、生徒と担任の先生として顔を合わせた。
クラス中の視線を導く様に、きれいな指が手早く文字を刻んで行く。
四つの文字を書き終わると、彼が初めて口を開く。
「『始音 海人』。君たちの世界史の教師であり、そして今日から君たちの担任でもある。生徒からの質問にはできるだけ答えるし、相談も乗ろう。限度はあるけど」
そして私たちの前で笑って見せた。
海人。青く美しい海と同じ髪色、どんな海よりも深い色を宿した瞳。
名は体を表す、とはまさに彼のためにある言葉だと思った。
彼の名前を頭の中で繰り返すうちに、目を瞑っていてもすらすらと書けてしまうくらい、網膜に焼きついた。
他の生徒が手を挙げて彼自身のことを聞いていく。
好きな食べ物はなんだとか、恋人はいるんですかとか。
こういう質問をする生徒はクラスに一人はいるんじゃないかと思うくらい、在り来たりな質問が続く。
そんな質問に、当たり障りのない返答で彼は対応する。
ひとしきり尋ねて満足した他の生徒とは逆に、私はどんどん疑念が増していく。
全ての質問に対して、あまりにも返事が普通なのだ。
勿論そういう人だっているのだろうけど、用意していた言葉を淡々と投げているように感じたのだ。
「彼は自分自身のことを、生徒には語ることはないのではないか?」
そう気づいた瞬間、目の前で微笑んでいる彼は、『ごく普通の先生』を演じているのだと悟る。
知りたいと思った。
その仮面を奪い、仮初めの教師像の下にどんな彼がいるのか、暴きたくなった。
その感情が何という名前なのか、私は知っている。
だから、彼に答え合わせをしてもらおうと思った。
優等生を演じ、放課後は質問という名目で彼の元へ押しかけた。
毎日、なんてことはさすがにできないので、一週間に一回だけ。
毎週金曜日、準備室にいる彼に、一対一の対話を望んだ。
「へえ、今日も来たの。ずいぶんと勉強熱心なんだね」
「もうすぐテスト期間ですから、わからないところを無くしたいと思うのは当然でしょう?」
「君の場合はテスト期間は関係なさそうだけどね」
最近は彼に顔を覚えてもらえたようだった。
もちろん担任の先生は、自分の受け持つ生徒の顔と名前くらい覚えるだろうけど。
一つの教室に四十人近い生徒がいて、一人ひとりの印象を覚えるのなんて、かなり難しいんじゃないだろうか。
出席の確認をする時や、プリント等を返却する時以外は生徒の名前を呼ばない彼が、全員の名前と顔をセットで覚えているのかどうかは怪しい。
事実、私は彼に名前を呼ばれたことなんて無かった。
「君くらいの生徒なら、補習にも自主的に参加しそうなものなのに」
「始音先生の補習の対象者は赤点の生徒だけなのでしょう?参加は出来ないんですよ」
「ああ、そうだったねえ。それじゃあ今日も、質問を受け付けようか」
何を聞いても。何を言っても。
彼はその笑顔を崩さない。
返却された解答用紙、真っ先に視線を向けたのは点数なんかじゃない。
点数の真下、短く付け加えられた赤文字、それは労いの一言。
他の生徒全員にも同じことをしているのだろう。
だけど、この言葉だけは、間違いなく私ひとりに向けられたもの。
もっと、私を見てほしい。
赤い文字だけでは足りない。
テスト後の質問の日、私は仕掛けることにした。
「ねえ、先生。その作られた笑顔と態度、私の前では止めにしませんか」
開口一番にそう告げる私に、表情を崩さないままの彼。
「とりあえず理由を聞くけど、どうしてそう思ったのかな?」
「だって、可笑しいんですもの。初めて会った時から、違う先生を演じていらっしゃるんでしょう。生徒からの質問も建前上無下にできないから、敢えて作り物の言葉で対応しているのでしょう?」
「建前があるから、本音では接していないと?はは、面白いことを言うね」
彼は軽く笑いながら、私の後ろ、未だ開け放しの扉に手をかける。
引き戸を閉めて、立ち尽くしたままの私の耳元で。
トントンと指で二回、扉を叩いて、彼が囁いた。
「君だって、上辺だけの優等生を演じているんだろう」
挑戦的な瞳を見つめ返す。
少しだけ、彼自身が見えた気がした。
その日から、少しだけ彼の接し方が変わったように感じた。
朝の出席連絡の時、時々指で軽く教卓を叩いてから行うようになった。
それは、準備室で見せた彼の本質の一端。
それは、私だけに送られた、密会の合図。
「私、先生の気に障るようなことをしましたか」
「そうは思っていないんだろう?…優等生さんは補習を受けたくても、週に一回の質問しかできないのが不服そうだ。だからこちらから呼び出してみただけ」
「そんなもの、本質は変わらないと思うのですが。週に二回も三回も先生のところへ行ったのでは、授業の復習しかすることが無くなってしまいます」
「じゃあいつも通り、金曜日だけに減らそうか」
「あら、減らしたいとは言っていませんよ」
彼は笑顔を崩さない。
だけど、声色が少しだけ変わった。
私の前でだけ、無気力に教科書を読み上げる。
気だるげなその声に、幾度と無く背中を撫で挙げられるようだった。
その声を、ずっと聞いていたいと思った。
次のテストは、赤文字はなかった。
変わりに、丸の跡が僅かに歪んでいた。
乱雑な蛍光マーカーの跡を辿る。
擦れて指先で混ざり合った黒と赤。
絡みついたその色すら、彼の本質のようで。
足りないのだ。
彼の本心を、奥底に眠った欲を、さらけ出してやろうと思った。
「こちらから呼び出しておいて申し訳ないけれど、君もいい加減聞くことが無くなってきただろう」
「ええ、そうですね。だから私、これで最後にしようと思います」
「へえ、それは寂しくなるな」
寂しいなんてこれっぽっちも感じていないだろうに。
いつも座ったまま動かない彼を、少し困らせてやろうと思って、私は彼の頬に手を当て、唇を押し当てた。
「偽りの姿なんて見たくない。みんなの先生では嫌なんです。もっと私だけを見てほしい。…私、あなたのことしか考えられないんです。この感情の名前を教えていただけないでしょうか?」
正面からぶつかる視線。
いつも浮かべていた笑みはなく、沈黙だけが流れて行く。
彼の視線が何を訴えているのか、私にはわからない。
沈黙に耐えかねて手を離した私を。
後頭部を引き寄せて、私の口元へ口付けた。
熱を、思考を、奪われる。
私がしたことなんて、ただの真似事で。
舌を絡め取られて、呼吸なんてまともにできなくて。
正解を上書きするように、彼の瞳は冷静のまま、私を弄ぶ。
「恋なんて純粋なものじゃない。愛なんて呼ぶには生易しい。咲音、俺とその感情を共有しても、得るものは何もないよ」
「…あなたへの気持ちだけがあれば十分です。今はただ、その名称がわかればいい」
彼の声が思考に染み渡る。
聞けば聞くほど、その甘さを含む低い声から逃れられなくなる。
得るものなんて、無くてもいい。
私はもうとっくの昔に、彼という人に溺れている。
彼の首元、締められたネクタイに手をかけた。
私の手を、自らの掌で包み込んで、彼は呟いた。
「その独占欲、いつまで保つのやら」
「意外と潰えないんじゃないですか。あなたが目の前にいる限り」
「はは、厄介な生徒に育ったもんだ」
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