水の中に沈み込む様な感覚があった。こぽこぽと、と耳元で空気の泡が音を立てて水面へと浮上していく音が響く。その音を聞きながらゆっくりゆっくりと、女の子は水の底へと沈みこんで行った。
水の中なのに、息苦しい事は無くほんのりと暖かい。水がその輪郭を崩し、女の子の輪郭を飲みこみ浸食していく時、少しだけひやりとした様な気もした。けれど、それも慣れてしまえばどうってことは無い。手足の先が微かに重い。倦怠感。なんだかもう、動きたくない。その感覚は、沈みゆくこの身体にはしかし心地よく、このまま重力に抗うことなく沈んでいしまって良いのだ、という気持ちにさせた。
こぽぽ、こぽぽ。空気の泡が細かく砕けて頬の辺りをくすぐり瞼を掠めて水面へと浮上していく。その感触がくすぐったく、女の子は目を開けた。
そこは小ぢんまりとした食堂だった。のりのきいた白いテーブルクロスがかかっている、小さなテーブルに向かって女の子は一人で座っていた。椅子は質素な木製だけど、座り心地は良かった。テーブルの上には透き通った紺色の一輪ざしが乗せられていて、そこには名を知らない白い小さな花が挿してあった。綺麗に磨かれた小ぶりのグラスにはミントの香りのするお水が注がれていて、飴色の細長い籠にはやっぱり綺麗に磨かれた銀色のカトラリーがひとり分、納められていた。
ぱちぱちと女の子は瞬きをして首を小さく傾げた。
自分は水の中に沈み込んでいたのではなかったか。いつの間に、この食堂を訪れたのだろうか。いつの間に席に案内されて、椅子に座っているのだろうか?
不思議に思いながら女の子はくるりと周囲を見回した。白と茶と紺色の、落ち着いた雰囲気で整えられた店内。食堂には女の子の他にもお客がいた。皆、さわさわと囁くような声でお喋りをし、その合間を縫うようにかちゃかちゃと食器が触れ合う高音が響いてくる。女の子と同じようにひとりきりで食事をとっている人もいる。白い壁に掛けられているのはモノクロの写真で、こげ茶の枠に納められたそれは風景写真であったり、何かの集合写真の様であったり、見た事がある様な、無い様な、そんなものばかりだった。
こんなお店、自分はいつ知ったのだろうか?そんな事を思いながら女の子は、白いカーテンが閉められている窓に視線を向けた。
薄い生地で作られたカーテンの向こうは夜の帳が下りているのだろう、薄暗く、その中空にぽかりと、弓型の月が輪郭を滲ませながら浮かび上がっているのが見えた。
今日は三日月なんだわ。そんなことを思いながら女の子は席を立ち、窓辺に立ってカーテンを引いた。窓の外は案の定、藍色の空が広がっていて、淡く白い三日月がまるで爪の先のような儚さでそっと吊り下げられていた。
「お待たせいたしました、お客様。」
いつの間に傍にやって来たのか食堂の給仕が女の子の背中にそう声をかけてきた。びくりと必要以上に肩を震わせた女の子に、相手は微かに苦笑を浮かべながら、驚かせて申し訳ありません。と言った。
「お待たせしました。スープをお持ちいたしました。」
その言葉の通り、給仕の手の盆の上には温かな湯気を立てているスープの皿が載っていた。
勝手に席を立って窓の外を見ていただなんて、はしたなかっただろうか。と女の子は微かに赤面しながら、席に戻った。きちんと座りなおした女の子の前に、給仕が琥珀色の透き通ったスープを置いた。はらりとパセリを散らされているだけでスープに具はなく、けれど芳醇な美味しそうな匂いが、空腹を刺激してきた。
これも、いつの間に注文をしたのだろうか?そう不思議に思いながら、女の子はスプーンを手にした。一口、飲んでみる。温かなスープがじんわりと体中に沁み入って行く感覚に、女の子は自分がとんでもなくお腹が空いていた事に気がついた。もう一口、飲んでみる。牛肉、香味野菜、塩、胡椒。空腹を満たし感覚を取り戻した味覚が、このスープが良質な材料を使って作られている事を教えてくれる。
「美味しい。」
女の子が頬をほころばせながら言うと、給仕は、ありがとうございます。と微笑んだ。
「カーテン、開けたままにしておきますか?」
ああそういえば、カーテン、自分が開けたままにしたままだった。と女の子は給仕の言葉にスープから窓の外へと視線を向けた。茶の窓枠に区切られた窓の外、静謐な気配を湛えた夜の景色はそれだけで一枚の絵のように美しく。女の子はこくりと頷いた。
「他のお客様の迷惑にならないのならば。このままで。」
そう女の子が言うと、給仕は、ではこのままで。と言って去って行った。
席に取り残された女の子は、ひとり、月夜を相手にスープを飲んだ。
温かな野菜のサラダを女の子が食べているとき、ふと、少し離れた席に座っている少年が目に入った。
知っている人のような気がして女の子がじっと相手を見ていると、相手もやはり同じような事を考えているのだろう、じっとこちらを見つめ返してくる。やっぱり知っている人なんだ。そう思うのだけど名前を思い出す事が出来ない。曖昧な笑みを浮かべて女の子は会釈をし、そしてサラダに向き直った。
ほくほくと蒸し上がった玉ねぎにカリフラワー、れんこん、ブロッコリーに、ソテーされて塩コショウで味付けされたきのこたちに細切りのベーコンがかけられていて、そのシンプルな味付けがまた美味しい。隠し味で、何かが入っているみたいだ。アンチョビだろうか。ほんの少しだけくせのある風味が舌に残り、そして黒コショウの粗くぴりりとしたか辛さがまた次のひと口を導く。
野菜をほおばりながら、女の子は、それで先ほどの少年は一体だれだったかな。と記憶を探った。けれど美味しいもので満たされた思考は、ふやふやと甘えるばかりできちんと働いてくれない。仕方がない。食べ終えたらちゃんと思い出す努力をしよう。と女の子はサラダをもう一口、口に運んだ。
失礼します、と先ほどの給仕がやって来てパンを運んでくれた。かりかりと香ばしい匂いのするスライスされたパンに、女の子は思わず手を伸ばした。その上に、ソテーされて少しくったりしているきのこを乗せて食べる。美味しい。と笑みを浮かべた女の子に、給仕はもう一枚どうぞ。と新たなパンを配ってくれた。
「ここの料理はおいしいね。」
そう女の子が言うと、給仕はありがとうございます。と微笑みながら言った。
「美味しく感じているのは、貴女が疲れていたからですよ。」
そう意味深な事を言ってくる。その意味がよく分からなく女の子が首をかしげていると、これはあちらの方からです。そう言って給仕はグラスワインと小さなチョコレートをテーブルに置いた。
赤いワインからはしっとりと落ち着いた土のような香りが漂い、そのグラスの足元に、銀色の紙にくるまれた小さなチョコレートが二粒、ころりと転がっている。女の子が顔を上げて、少年の方へ視線を向けると、丁度食後のコーヒーを飲んでいる所で、女の子の視線に微かな笑みを返してきた。
その穏やかなすべてを許容するようなひかりを湛えた眼差しを、よく知っている。
相変わらず名前を思い出す事が出来ない相手だけど、とても大切な人だったはずだ。そう思いながら女の子は席を立ち、チョコレートをひとつ掴んで少年の傍に寄った。
「あの、ありがとう。」
そう女の子が言うと、席に座ったままの少年は顔をあげて、少し眩しそうな顔で女の子を見つめた。
「君、ワインを飲みながらチョコを食べるの、好きだったよね?」
その言葉に女の子は頷いて、あなたは、と言った。
「あなたは、ワインは苦手だったけど甘いものが好きだったから、チョコだけ食べていたよね。」
そう言って女の子は、もらったチョコレートのひとつを、少年に差し出した。
うん。と少年は頷いて、チョコレートを受け取りポケットにそっとしまい込んだ。
「ありがとう。」
少年もそう、礼を言う。
名前はやっぱり思い出せなくて。それでも大切な人だったような気がしていた。嫌いになりたくない人、だったはずだった。ずっと好きでいたい人、だったはずなのに。なのに、名前を忘れてしまうなんて。
そう悲しく女の子が思っていると、ちり、と皮膚を裂くような微かな痛みが手の甲に走った。
視線をやると赤い傷跡がその白い肌に一筋滲んでいた。いつの間に怪我などしたのだろう。そう女の子が不思議に思っていると、少年が、ごめんね。と言った。
「え?」
「分からなくて、良いよ。」
そんな意味の分からない事を言って、少年は席を立った。
「さよなら。」
「さよなら。」
素っ気ない、言葉で少年とお別れをした。
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